説    教   イザヤ書6章9〜10節  ヨハネ福音書9章39〜41節

「 キリストの視点 」

2016・04・10(説教16151638)  生れつき目の見えない人を、主イエスが安息日に癒された出来事は、パリサイ人たちにとって格好の 攻撃材料となりました。彼らの攻撃の矛先は、癒された人と主イエス両方に向けられてゆきました。そ もそも、この人の目が癒された出来事は、ただ単に肉眼の視力が回復したことではありません。それは 「罪」によって生まれつき神を見るまなざしが閉ざされ、真の神を知りえず、御言葉を聴くこともでき ずにいた私たちが、主イエスの十字架の恵みによって救われ、信仰という生きた新しいまなざしを与え られたことです。主イエスが私たちに本当の視力を、人間として真に見るべきものを見る信仰のまなざ しを与えて下さったのです。ですからこの人の身に起こった出来事は、単に肉体の癒しではなく、私た ちの全人格の救いであり、罪と死からの甦りです。いまだかつて人類の誰もが経験したことのない、大 いなる救いの御業がそこに現されたのです。  だからこそ、この癒された人は今朝の32節に「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるとい うことは、世界が始まって以来、聞いたことがありません」とパリサイ人らに堂々と語っています。そ れほど素晴らしい救いの出来事が現されたのです。主イエスは既にこのヨハネ伝9章3節において、こ の人が「生まれつきの盲人」であることの理由を問う弟子たちに対してこう言われました。「本人が罪を おかしたのでもなく、また、その両親がおかしたのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるため である」。 それならば、まさに主イエスは「神のみわざ」を私たちの上に現して下さったのです。私た ちに真の視力を与えて下さったのです。そのような救い主(キリスト)として、主は私たち一人びとり のもとに来ておられるのです。生まれつき神を知りえず、救いを知りえなかった私たちに、真の自由を 与え、真の生命を与えて下さるのです。この人の身に現れた救いの出来事とは、まさにそのようなもの でした。まなざしが開かれたとは、そういうことであったのです。  ところがこの、救われた喜びに躍り上がり、神を讃美するこの人を見ながら、パリサイ人たちは不満 を露わにつぶやくのです。それはこの人に対して「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたち を教えようとするのか」と言ったことです。そうしてついにはこの人を会堂から「追放」したのです。 社会から、人々との交わりから、ユダヤ教の会堂から、抹殺しようとしたのです。あらゆる交わりの外 に追い出そうとしたのです。あくまでも自分たちを正当化したのです。そのようにして全ての交わりか ら疎外されたこの人に、主イエスが再び出会って下さいます。そして「あなたは人の子(キリスト)を信 じるか?」(9:35)と問うて下さいます。彼はすぐに答えて申します「主よ、それはどなたですか。その かたを信じたいのですが」。主イエスは答えて言われました「あなたは、もうその人に会っている。今あ なたと話しているのが、その人である」。この大いなる答えを聴くことにまさる幸がどこにあるでしょう か!。まさに彼はそこで主イエスを「拝した」と記されています。主イエスによって、真の神を礼拝す る者に変えられたのです。神と共に、神の変らぬ御支配のもとに、永遠に変らぬ喜びと平安の内に、新 たに生きる者とされたのです。それが「まなざしが開かれ、主イエスを拝した」ということです。  主イエスは、そこで言われました。今朝の39節です。「わたしがこの世にきたのは、さばくためであ る。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。 これは不思議な御言葉です。「見えない人たちが見えるように、見える人たちが見えないようになる」と は、どういう意味なのでしょうか?。 人間の価値観や人生哲学が逆転する、という意味なのでしょう か?。それとも、ある大きな経験をした人間は、悟りを開いて、見えなかったものが見えるようになる、 という意味なのでしょうか?。そのいずれでもありません。ここで主イエスが語られた「見えない人た ちが見えるようになる」とは、今まで自分は「見えている」と思いこんでいた人たちが、実は本当に大 切なことが何も見えていなかったということが明らかになるということです。つまり、この「視点の逆 転」の中心に立っておられるのは主イエスのみであって、私たちの価値観や悟りは何の役にも立ちませ ん。言い換えるなら、主イエスが来られなければこの「視点の逆転」は起こりえず、主イエスが来られ た所には、どこにでも、この大切な「視点の逆転」が起こるのです。  パリサイ人たちは、いままで自分たちは“神を見ている”唯一の人間だと思いこんでいました。自分 たちの目こそ澄んでいて、神を正しく見ているのは自分たちだけであり、自分たち以外の他の一般民衆 は全て、まなざしの曇った、目の閉ざされた、救われえない人間(アム・ハ・アレツ=地の民)だと思い こんでいたのです。そもそも「パリサイ」という言葉自体「分離する」という意味です。自分たちは穢 れた一般民衆から分離された特別な存在であって、自分たちだけが神を正しく見る澄んだまなざしを持 っているのだと思いこんでいたのです。その思いこみが、自尊心が、こともあろうに、自分たちが最も 蔑み馬鹿にしていた一人の「生まれつきの盲人」によって傷つけられた、棄損されたと感じたものです から、彼らは憤慨し激怒したのです。逆鱗に触れられた思いがしたのです。許してはおけぬと思ったの です。  そればかれではない、それに加えて、自分たちが何とかして抹殺しようと企んでいたナザレのイエス から「見える人たちが見えないようになるためである」などと言われたものですから、憤慨激怒に拍車 がかかって、ますます狂乱状態になりました。40節を見ますと「そこにイエスと一緒にいたあるパリサ イ人たちが、『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』」と尋ねたことが記されています。この「イ エスと一緒にいたあるパリサイ人たち」というのは、イエスに従っていたという意味ではなく、イエス の言葉尻を捕らえようと虎視眈々と付け狙っていた人たち、という意味です。いわば密偵のような存在 であったのです。それが折よくも、言葉尻を捕らえられる発言が都合よく主イエスの口から飛び出した ものですから、それここぞとばかりに悪意を持って「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」と 質問したのです。それでは先生、伺いますが、私たちパリサイ人もこの男と同じように「盲人」だと言 うのですか?。先生は私たちも同じように「罪人」だと言うのですか?。そういう質問だったわけです。 答え如何によっては生かしては帰さぬぞという脅迫の言葉なのです。おそらく周囲にいた人々も、弟子 たちも、みな固唾を飲んでなりゆきを見つめていたのではないでしょうか。  この悪意に満ちた質問に、主イエスは41節のみ言葉でお答えになりました。「イエスは彼らに言われ た『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが“見える” と言い張るところに、あなたがたの罪がある』」。主イエスはパリサイ人らが「盲人」であったなら、つ まり「見えない者」であったなら「罪」はなかったと言われるのです。そうではなく、彼らが「見える と言い張るところ」にこそ彼らの「罪」があるのだと言われたのです。これこそ、パリサイ人らの意表 を突くお答えでした。生れつき目が見えなかった盲人は、自分が「見えない者」であることを知ってい ました。だからこそ、主イエスによって開いて戴いた「信仰のまなざし」をもって、喜んで主イエスに お従いし、主イエスを信ずる者となり、真の礼拝者とされたのです。全ての交わりから疎外された彼は、 最も尊い神の国の交わり(聖霊による、主イエスとの、生きた永遠の交わり)の内に入らせて戴いたので す。聖なる公同の教会「聖徒の交わり」に生きる僕とされたのです。  ところがパリサイ人らは、肉眼は開かれていても「信仰のまなざし」は閉ざされたままでした。神を 見るまなざしは閉ざされていたのに、自分たちは神を正しく見ているのだと自負していたのです。そこ に「見えると言い張る罪」がありました。つまり、ぱリサイ人らは自分たちを自分で義としていたので す。神の恵みに背を向けて、自分たちだけを正しいとしていたのです。だから、あの盲人の身に現され た「神の御業」は彼らパリサイ人らには現されませんでした。「心の貧しい人たちはさいわいである。天 国は彼らのものである」(マタイ5:3)。パリサイ人らには「神の御業」(救いの出来事)が現れる「心の貧 しさ」(信仰)がなかったのです。なぜなら、彼らは自分たちが既に「見えている」と自惚れていたから です。そこに、主イエスを信ずる者と拒絶する者との違いがあります。自分が見えない者であることを 知っていたあの盲人は、主イエスの救いを待ち望む者とされ、自分たちは正しく神を見ているのだと自 惚れていたパリサイ人たちは、主イエスの救いを拒絶する者となったのです。  それが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」ということです。 すると、どういうことになるのでしょうか。主イエスのこの御言葉は、倣岸不遜なパリサイ人らに対す る拒絶であり、滅びの宣告なのでしょうか?。ここでこそ私たちは、主イエスが語られた「わたしがこ の世にきたのは、さばくためである」という言葉を正しく聴き取る者にならねばなりません。旧約の預 言者でもそうですが、主イエスが「審き」と言われる場合、それはいつも私たち全ての者に対する「救 いと祝福と生命への招き」だからです。旧約聖書のイザヤ書6章には、預言者イザヤの召命の出来事が 記されています。若き日のイザヤは、イスラエルの民に対する宣教の言葉として次のように語れと命ぜ られるのです。それが今朝のイザヤ書6章9節以下です。「主は言われた、『あなたは行って、この民に こう言いなさい』『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりか えし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたがたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえ にくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改め ていやされることのないためである」。  これこそが主なる神が、イスラエルすなわち世界に対してなされる「審き」の内容であるとイザヤは 告げられたのです。その「審き」とは、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟って、それで自 分は「救われた」神の民だと言い張っていた人々の目を、耳を、心を、あなたは閉ざしてしまいなさい。 そのために、私はあなたを御言葉の宣教者として世に遣わすのだと言われたのです。逆説のようですけ れども、神の救いはそのように現されるのです。つまり、私たちが自分の目で見、自分の耳で聞き、自 分の心で悟り、自分を義としている間は、私たちに本当の救いはなく、祝福と生命はないのです。神が 私たちに求めておられることは、神が現したもう「救いと祝福と生命」に自分を明け渡すことです。つ まり、自分の力、自分の知恵、自分の計画、自分の才能、自分の経験、自分の功績、自分の美徳、自分 の人間関係、そういうものによって神を知ろう(神を見よう)とするならば、それは私たちの救いとは ならず、私たちは今もなお罪の支配の内にいることになるのです。  愚かにも私たちは、すぐに「それで充分ではないか」と言い張るのです。自分にはもう充分に神が見 えている。キリストがわかっている。聖霊がわかっていると自惚れるのです。自分の人生はもうすでに、 キリストの御支配などなくても充分に満たされていると思いこむのです。そのとき、私たちの信仰生活 はパリサイ人と同じものになります。私たちは「見えると言い張っている」あいだは本当のキリスト者 ではないのです。使徒パウロは、私たちが救われたのは何によってかと、繰返し私たちを救いの原点に 立ち帰らせています。ローマ書3章21節「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言 者とによってあかしされて、現された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、 すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を 犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエ スによるあがないによって義とされるのである」。またガラテヤ書2章15節が大切です。「わたしたち は生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、人の義とされるのは律法の行いによる のではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエス を信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる ためである」。  主イエスは今朝の御言葉において、パリサイ人らをも、キリストを信じる信仰によって神からの「救 いと祝福と生命」を受ける、本当の「救い」へと招いておられるのです。「見えると言い張る」罪人が「見 えないものにされる」ことこそ「信仰のまなざし」が主イエスによって与えられることです。それがキ リストとの出会いであり、神の御言葉を聴くということです。それこそ、この礼拝において起こる「救 いと祝福と生命への招き」なのです。私たちは主日の礼拝のたびごとに「見えると言い張る」自らの罪 から贖われ、主イエスの義に甦らされ「救いと祝福と生命」を与えられる御国の民なのです。