説    教     詩篇41篇9〜13節  ヨハネ福音書13章16〜20節

「ユダとは誰なるか」

2016・04・03(説教16141637)  私たちが主イエス・キリストの御生涯を聖書の御言葉を通して知る、たとえその人が信仰を持ってい てもそうでなくとも、みな一様に感じるひとつの大きな疑問があります。それは、なぜ主イエスは、十 二弟子の一人に、あの「イスカリオテのユダ」をお選びになったのだろうか、ということです。  現代はやや行き過ぎた感もある「個人情報管理」の時代です。私の小中学生の頃はクラスの名簿など はガリ版刷りで全員が無造作に持っていました。誰でも(第三者でも)自由に見られる状態でした。現在 ではまず考えられないことです。現在は学校や企業・団体や地域の名簿等は厳重に管理されていまして、 自由に閲覧することはできなくなっています。それは名簿が第三者の手に渡って悪用されることを恐れ るからです。それで個人情報が管理されるのです。良い面も悪い面もそこにはあると思います。  それでは主イエスの時代、今から2000年の昔にはどうだったのでしょうか。主イエスの時代はもち ろん、現代のような高度情報化社会・個人情報管理社会とは環境が違っていたと思います。しかしだか ら、主イエスはうっかり、ユダのような人間をも弟子の一人に加えておしまいになったのでしょうか?。 言い換えるならば、主イエスの“個人情報管理”がいい加減であったゆえに、主は「弟子選び」におい て失敗をされたということなのでしょうか?。  主イエスの弟子とされた十二人の素性や生い立ちを見るとき、私たちは本当に驚かざるをえないので す。それはなんと統一性のない、ばらばらの、烏合の衆とも言うべき人選であったことか。たとえば十 二弟子の中に「熱心党のシモン」なる人物がいます。現代風に言うならISのような過激な原理主義に 立つ人間です。そうかと思えばそれとは正反対の、ローマの傀儡たる体制派を代表する取税人であった 「マタイ」のような人物がいました。譬えて申せば共産党と自民党が連立政権を作るようなものです。 もしこれが会社組織ならば全く統制が取れず、仕事が成り立たないでありましょう。秩序は崩れるであ りましょう。  しかし、それだけならばまだしも良いのです。思想や信条、教育や家庭環境、主義や主張においてど んなに違っていても、主イエスのために働くという一つの目的のために一致することは不可能ではない からです。むしろ、様々な立場の人間がいたほうが、それだけ多くの人々を主イエスに導くことができ るようになるでしょう。伝道に幅が生ずる結果になるとも言えるからです。  イスカリオテのユダの問題は、そういうことではないのです。ユダの問題は「なぜ十二弟子の中に、 主イエスを裏切る人間が含まれていたのか?」という根本的な問題なのです。裏切りや密告は、権力者 が常套手段としつつ、かつ最も嫌うことです。しかし主イエスは、この世の権力を誇示行使されるよう なかたではない。その逆に、主は全くこの世の地位や栄誉をお求めにならず、ただご自分を、世の人々 の救いのために、犠牲となさんがために来られたおかたです。その主イエスがなぜ“裏切り”という卑 劣な行為を受けねばならなかったのか。そこが大きな疑問なのです。  そればかりではありません。私たちの疑問は更に、主イエスご自身へと向けられるのです。つまり、 全能の父なる神の御子にして、神と等しきかたであるはずの主イエスが、どうして、なぜ「イスカリオ テのユダ」の悪しき正体を、見抜くことができなかったのかという疑問です。小中学校の名簿でさえ、 第三者の手に渡れば犯罪目的に利用されるかもしれない。ましてや神の御子なる主イエスが、どうして 事前に、ユダという人間の悪しき素性を見抜くことができなかったのか。それはやはり、大きな謎とし て残るのではないでしょうか。  この謎を解く最大の鍵となる御言葉こそ、今朝ご一緒に拝読したヨハネ伝13章18節であります。そ れは「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」という御言葉です。これこそ、主イエスご自身が弟 子たちに語られたことです。ユダという人は十二弟子の中で一人だけ、ガリラヤ出身ではなかった人で す。石川啄木の歌に「故郷の訛懐かし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」という歌があります。お 国言葉(方言)は連帯感を強める最大の絆です。その連帯感の中からユダ一人が疎外されていたのです。 その疎外感、孤独感に、ユダの裏切りの原因があったと考える人もいます。しかし、ただそれだけでは なかったと思うのです。もし疎外されていたなら、弟子たちみんなの「金入れ」を預かるわけはありま せん。ユダには会計の才能という、他の弟子たちにはない能力がありました。いわばインテリであった と言ってもよい。しかしそれも、疎外の原因とは考えにくいことです。たとえそれがあったとしても、 それだけでユダの裏切りを説明することは不可能です。  作家の太宰治は、イスカリオテのユダは最も深く主イエスを愛していた。尊敬していた。その愛と尊 敬の思いが、十字架へと向かわれる主イエスへの挫折感となって現れたとき、それは一挙に「裏切り」 という背信行為に爆発したのだと分析しています。また、立原正秋という作家は、その太宰治の解釈に 同意を示しつつも、ユダは主イエスに対する挫折感からではなく、むしろ愛と尊敬を貫徹したかったか らこそ、敢えて主を十字架へと追いやることによって、主イエスを独占しようとしたのだと解釈してい ます。しかしそのどちらも文学的解釈でありまして、聖書の御言葉に正しく基づくものとは申せません。  そうした詮索は、私たちのなすべきことではありません。私たちには明確に告げられている先ほどの 聖書の御言葉があるのです。それこそ主が「わたしは自分が選んだ人たちを知っている」と言われたこ とです。主イエスは、イスカリオテのユダが、やがてご自分を銀貨30枚で裏切るであろうことを知っ ておられた。その裏切りの結果、ご自分が十字架にかかることも知っておられた。全てを知っておられ た上で、それにもかかわらず、否、それゆえにこそ、主はユダをも含めた彼ら十二弟子たちをお選びに なったのです。  それは、どういうことなのでしょうか。主は今朝の御言葉において、弟子たちに詩篇41篇の御言葉 を示しておられます。「『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とあ る聖書は成就されなければならない」と主は言われたのです。旧約の本文ではこういう言葉です。「わた しの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも、わたしにそむいてくびすをあげた」。こ こに「わたしのパン」とあることは何を示すのでしょうか。「パン」と聴いて私たちがすぐに思うことは、 あの“最後の晩餐”の食卓です。主はそこで「取りて食せ、これはわが身体なり」と言われ、パンを弟 子たちにお配りになりました。それは十字架上にご自分の肉体をお裂きになって、世の全ての罪の贖い を成遂げられることの徴(しるし)です。  それならば、主が弟子たちに求めておられたのは、ただ一つの事柄なのです。それは、十字架の贖い 主なるキリストを信じ、告白し、教会に連なって歩むことです。死ぬべき者が死なない生命を纏うよう になることです。罪なる私たちがキリストの恵みの生命によって甦ることです。ただそのことだけを主 は私たちに求められた。ただその恵みを受けることのみが、キリストの弟子たることなのです。私たち の側の資格や条件は何ひとつ問われないのです。問われるのは、ただ十字架の主に対する信仰のみなの です。「あなたは、わたしの贖いの恵みのもとに生きる者となりなさい」と、主は私たち一人びとりに語 っておられるのです。  このことから、何が明らかになるのでしょうか。それは、イスカリオテのユダをさえ、全てを知った 上でお選びになった、主イエスのはかり知れない愛と恵みと真実ではないでしょうか。父なる神の前に、 私たちの名は、私たちの作る名簿は、罪と汚れに満ち溢れています。私たちのどの名前にも、実は「こ の者は罪人のかしらなり」という烙印が押されているのです。しかし、主はそれだからこそ、私たちを ご自分のもとに招いて下さいました。古い名簿は、主イエスの御功によって、新しく造り替えられたの です。主が新しい名簿を、天に書き加えて下さったのです。それは「救われた者たちの名簿」です。そ の新しい私たちの名簿には「この者は罪人のかしらなり」という文字に代わってこう記されています。 「この者は、わたしが生命を献げて贖い取った、救われた神の国の民である」と。それこそがヨハネの 言う「いのちの書」なのです。私たちが神の御国において持つところの教会員名簿なのです。  まことに、主はご自分が選びたもうた人々を知っておられます。私たちは自分自身のことさえ正しく 知ることができません。まして他人のことはなおさらです。しかし主は私たちのことごとくを知ってお られる。私たちの罪もとがも、悲しみも悩みも、そして、私たちが常に何を必要とし、何を本当に求め ているか、何が私たちを真に生かしめるのか、主はその全てを知っておられるのです。そして大切なこ とは、だからこそ、主はあのイスカリオテのユダをも、ご自分の弟子の一人として、お選びになったと いう事実なのです。  今日の説教の題を「ユダとは誰なるか」としました。ユダとはいったい誰のことなのか?。聖書を読 めば読むほど、そこに確かな答えが示されています。それは、イスカリオテのユダとは、ほかならぬ、 この私のことである、という答えです。ユダのおかした罪は、それは実は、他の弟子たちの罪でもあり ました。ペテロも、ヨハネも、ヤコブも、マタイも、みんな十字架を目前にして、主イエスを知らない と言い張り、何の関係もない者だと主張し、安全な所に逃げてしまったのです。主を裏切った罪は、他 の弟子たちもみな同じでした。それこそまさしく、私たち一人びとりの姿ではないでしょうか。私たち こそ、キリストを裏切り、罪の導くままに、主を十字架へと追いやった「ユダ」なのではないでしょう か。それならば、イスカリオテのユダが主の弟子とされた恵みは、すなわち、私たちがここに招かれて いる恵みと同じであります。そう言わざるをえないのです。  もし、ユダが招かれなければ、私たちもまた、招かれることはなかったでありましょう。もし、ユダ が弟子とされなければ、私たちもまた、弟子とされることはなかったでありましょう。そして、ユダの おかした罪が人間の最高の罪と言えるなら、その最高の罪こそ、私たち自身の罪でありましょう。パウ ロは「われは罪人のかしらなり」と言いました。それは、ユダの罪は自分の罪だという告白です。「罪」 は神の御前において絶対的な問題であって、相対的な問題ではないのです。罪を相対化して論ずるのは、 罪が分かっていない証拠です。それならば主イエスは、まさに私たちの絶対的な底知れぬ罪の深みに降 りて来て下さった唯一の救い主です。だから罪が相対化されえないとは、キリストの恵みの前に絶対に 救われた者として生きる幸いとひとつなのです。キリストの十字架の恵みの前に、救われざる罪、赦さ れざる罪はないからです。私たちの果てしない罪の中にこそ、神の満ちあふれる救いが現われたのです。 それこそが、ユダを弟子の一人としたもうた理由なのです。  主は「我と共にパンを食す者、我に向かひて踵を挙げたり」という今朝の詩篇41篇の御言葉によっ て、ユダがご自分を裏切ることを予告なさいました。それは、その御言葉がご自分の上に成就すること は、すなわち父なる神の聖なる御旨であることを知っておられたことです。主は全人類の罪の本質が「イ スカリオテのユダ」の罪であることを知っておられたのです。言い換えるなら、私たち全てがユダであ ることを知っておられたのです。それを全てご存知でありつつ、それだからこそ、その私たちの極みま での罪を贖うために、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。  ところで、私たちはもう一つの学びへと導かれます。それはユダの最後についてです。ユダの最後は とても可哀想なものでした。主イエスを裏切った自分の罪を自覚したユダは、銀貨30枚を受け取った 祭司長らの所に行き、自分は「罪なきかたを売って罪をおかしました」と告白するのです。しかし彼に 帰ってきた返事は「それは我々の知ったことか。お前みずから始末するがよい」というものでした。ユ ダはこの言葉に絶望し、みずからの生命を絶つ道を選んでしまいます。  私たちはこのことから、何を読み取るのでしょうか。それは、人間はいかなる意味においても、罪を 贖う力を持ちえない、ということです。どんなに高い地位にあっても、どんなに深い学問に通じていて も、どんなに多くの人生経験を持っていても、人間は自分と他者の罪の贖いをすることはできないので す。しかし誠実なユダは、自分が裏切りを持ちかけた人間に、自分の罪の処理を依頼しようとしてしま った。そこに、彼がおかした最大の過ちがありました。  どうか覚えて下さい。キリストを銀貨30枚で裏切ったことが、ユダの最大の過ちであったのではな い。人がおかすいかに大きな罪といえども、キリストの十字架の恵みに打ち勝つことはできません。し かしその罪を自覚しつつ、なおキリストのもとにではなく、空しき人間のもとに、罪の処理を依頼して しまった。そこにユダの最大の過ちがありました。結果として、彼には絶望しか残されなかった。私た ちの絶望をさえ担って十字架に死んで下さったキリストのもとには行かずに、人のもとに行って罪の処 理を願ってしまったことが、ユダの最大の過ちなのです。  もしも、ユダがこのとき、祭司長らのもとにではなく、主イエス・キリストのもとにみずからを投げ かけていたならば、彼はかならず、新しい生命に甦ることができたでしょう。そして他の弟子たちと共 に、初代教会の使徒の一人として、多くの素晴らしい働きをなしたことでしょう。言い換えるならば、 ここに集うている私たちは全て「キリストに贖われたユダ」であります。ユダとは誰なるか?。それは 私たちのことです。そして私たちは全て「キリストに贖われたるユダ」なのです。そのような者として、 日々新たに主の僕として、主の道を歩む私たちとされているのです。  どうか私たちは、キリストの御名によって罪を贖われ、新たな復活の生命に甦らされた僕として、常 に主の教会に連なり、礼拝者として、信仰の旅路を歩みぬいて参りたいと思います。キリストの恵みの もとに、自分の全てを投げかけ続ける信仰者の道を歩んで参りたいと思います。主はその限りなき慈し みの御手に、私たちの存在全体を受け止め、死を打ち滅ぼし、罪の赦しを与え、永遠の御国の民として 下さるのです。たとえ私たちが自分自身について何をも知りえなくても、主は私たちを識りたもう。主 は私たちの贖い主でありたもう。この揺るぎなき事実こそ、全世界に伝えられている、福音の本質であ り、私たちの真の平安と幸いの源なのです。