説    教    イザヤ書50章8〜9節   ローマ書8章31〜39節

「 復活の福音 」

 イースター礼拝 2016・03・27(説教16131636)  キリスト教の福音の本質をただ一言で言い表すとしたら、それはどのような言葉になるでしょうか。 これは簡単なようで意外に難しい問いです。この難問にルターはヨハネ福音書3章16節の御言葉をも って答えました。すなわち「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡 びずして、永遠の生命を得んためなり」という御言葉です。ルターはこう申しています。「もし聖書の御 言葉が全て失われたとしても、このヨハネ伝3章16節だけが残るなら、キリストの福音の本質は誤り なく世に伝えられるであろう」。すなわち、神がこの世界を限りなく愛したもうて、その独子イエス・キ リストを賜わったという音信にこそ、福音全体の本質(エッセンス)があるのです。そしてこれこそ復活 節(イースター)の出来事の内容であります。  今から150年ほど前(1864年・元治元年7月)わが国の一人の青年が、徳川幕府の国禁を冒して函館港 からアメリカに密航しました。この青年は航海の途中でヨハネ伝3章16節の御言葉に出会い、神を信 ずる者になりました。青年の名は新島七五三太、後の新島襄です。そもそも新島がアメリカ密航を企て たのは、欧米列強に対抗しうる海軍を日本に創設するためでした。しかし航海の途上、敬虔なキリスト 者である船長のもとで共に聖書を読んでゆく中で、真の神の福音が新島の魂を捉えました。半年の航海 の後ボストンに着いた新島は洗礼を受け教会に連なる者となりました。そして海軍を創設するためでは なく、日本にキリストの福音を宣べ伝えるため、神学校に入る道を選ぶのです。軍事力は国家永遠の礎 たりえない。ただキリストにのみ真の世界平和と人間の唯一の救いがあると確信したからでした。新島 は10年間の苦学のすえ日本人として最初の牧師となります。この経験の全てを新島は恩師ハーディー に「これは私に注がれた主の復活の生命がなさしめたことでした」と語っています。キリストの使徒と して日本に帰った新島は京都にキリスト教主義の学校(同志社)を創立し、全国各地に福音を宣べ伝え、 牧師としての生涯を全うしたのです。たった一行の神の御言葉が、一人の青年を甦らせ、多くの人々を キリストに導く神の器としたのです。  今朝の御言葉であるローマ書8章31節以下、特にその37節において使徒パウロはこのように語って います。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事におい て勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、 力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにお ける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。これは使徒パウロによって、当時の ローマの教会と世界全体に告げられた“神の愛の永遠の勝利宣言”です。当時のローマ教会は厳しい迫 害の渦中にありました。キリストを信じ教会に連なるゆえに、信徒たちは社会から多くの苦しみを受け、 職を奪われ、財産を没収され、家族を引き離され、愛する者たちを失いました。しかしその苦しみの中 にあってこそ、キリスト者たちは多くの人々に福音を宣べ伝え、そして多くの人々が教会の礼拝に連な り、洗礼を受けるようになっていったのです。やがて西暦313年にローマ皇帝みずからが信仰を告白し て洗礼を受け、キリスト教が国の宗教(国教)となり、迫害はいちおう収束します。しかし迫害は実に 260年もの長きにわたって続きました。その戦いの日々の中でキリスト者たちは、たえず今朝のローマ 書8章の御言葉の慰めと希望に生き続けたのです。  パウロは「『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られて いる』と書いてあるとおりである」と、ローマの信徒たちに書き送っています。これはもともと旧約聖 書・詩篇44篇22節の御言葉です。この御言葉のとおり、キリストの御名を信ずるゆえに、人々は多く の苦しみを受けねばなりませんでした。まさに信徒たちの日常は「死に定められており、ほふられる羊 のように見られている」ごとくであったのです。しかし、そのような悩みと試練のただ中にあって、な お「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余 りがある」ことを、教会員すべてが確信していました。「勝ち得て余りがある」とは、言葉の遊びではあ りません。キリストの愛における、その余りの絶大な勝利の喜びのゆえに、私たちはその喜びを少しも 隠してはおけない、伏せておくことはできない、という意味なのです。  当時のローマにおいては、主日礼拝に連なる人々は、一日の仕事を終えてから夜になって教会に集ま ったのです。教会と言っても、建物を持つことは許されず、人々は地下の“カタコンベ”と呼ばれる墓 地の中に人目を避けて集まり、燈を灯して、そこで喜びの礼拝を献げたのです。日曜日は社会の公休日 ではありませんでした。日曜日が公休日になったのは、キリスト教の礼拝の日として定められて以後の ことです。そこでローマの信徒たちは、仕事で疲れた身体を家で休めるよりも、まず喜び勇んで地下の 教会に集まり、そこで共に明りを灯して主日礼拝を献げ、讃美を歌い、祈りを共にし、御言葉を聴き、 聖餐にあずかりました。聖餐台として用いられていたのは、多くの場合、殉教者の棺でした。それで、 今もなお教会の聖餐台は棺の形が名残となって残っております。信徒たちはそこで、共に執り成しの祈 りを全世界のために、為政者たちのために献げました。自分たちを迫害し、苦しめている者たちのため に、そして、愛する者を死に追いやった為政者たちのために、神の祝福と赦しを祈ったのです。  ここに集う私たちもまた、この当時のローマの信徒たちと同じ慰めと希望に共に生かされているので す。日々のあらゆる信仰の戦いと試練の中で、なお「わたしたちを愛して下さったかたによって、わた したちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」との確信と慰めのもとに、私たちもまた連 ならしめられているのです。私たちもまた、大いなる確信をもってこのイースターの礼拝に連なってい ます。それこそ38節以下「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のもの も、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエス における神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という確信です。その確信には確かな根 拠があります。ローマの信徒たちは、また私たちは、根拠を持たぬ虚しき望みに生きる群れではありま せん。失望に終わることのない真の希望を、私たちは主にありて知らされているのです。それこそ今朝 の31節以下です。「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方で あるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての 者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。  パウロは更に、このように宣べ伝えています。34節以下です。「だれが、神の選ばれた者たちを訴え るのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは 死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だ れが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難 か、剣か」。「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」これらはみな信徒たち一人びとりの身に現実に 起こっている戦いでした。理由なく人に訴えられることも、権力者から不当な審きを受けることも、み な等しく現実のキリスト者の苦しみでした。ローマの教会の現実はまさに、敵対する者たちに囲まれた 四面楚歌の有様であったのです。その中でこそパウロは言うのです。「私たちは既に絶大な勝利を得てい る」と。神が私たちをキリストの義をもって覆って下さるのなら、誰が私たちを訴え得ようか。キリス トが復活したもうて神の右に座し、私たちのために執り成していて下さるのなら、誰が私たちを罪に定 め得ようか。「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。「ご自身の御子を さえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万 物をも(すなわち、私たちの人生の全体と、この世界の全体を、神の限りない祝福として)賜わらない ことがあろうか」と。  この福音の慰めの根拠こそ、キリストの復活の事実です。キリストは私たちの罪の贖いのために、呪 いの十字架におかかりになり、死んで葬られて下さった。そのキリストのよみがえりの事実は、神の愛 は死の力にも勝利するという告知です。復活は神の愛の永遠の勝利のしるしです。実に神は御子キリス ト・イエスによって、私たちを極みまでも愛して下さったのです。その神の愛こそ、罪と死に打ち勝つ 唯一の力です。神は罪によって死んでいた私たちをキリストと共に甦らせ、キリストの御身体なる教会 に連ならせて下さった。そして、教会によって私たちは、キリストの復活の生命に結ばれた者として、 新しい歩みを始めてゆくのです。だからパウロは「それでは、これらの事について、なんと言おうか」 と最初の31節に語っています。自分はこの恵みについて、語るべき言葉を持たないというのです。キ リストの御復活のおとずれを告げるのに、どのような人間の言葉も間尺に合わないと言うのです。だか ら聖書の御言葉をそのまま宣べ伝える以外にない。キリストが私たちのためになして下さった御業をそ のままに語る以外にない。  人間のどんな知恵も、哲学も、思想も、言葉も、主の御復活の恵みの前には色あせてしまう。しかし、 これを敢えて教会の言葉として世に語るならば、それはこういうことだ。パウロは申します。それは“キ リストはあなたの救いのために復活された。もはやいかなる被造物も、死の力さえも、あなたをキリス ト・イエスにおける神の愛から、引き離すことはできない”ということだ。福音の本質は、まさにそこ にあるのです。“キリストはあなたの救いのために復活された。もはやいかなる被造物も、死の力さえも、 あなたをキリスト・イエスにおける神の愛から引き離すことはできない”ということ。ここに、私たち の変らぬ慰めがあり、希望があり、力と勇気の根源があるのです。この復活節にあたりまして、私たち は共にこの御言葉に聴き、私たちに与えられている日々の信仰の歩みに、共に祈りを深めて励んで参り たいと思います。日々に復活の主イエス・キリストの僕として生かされ、遣わされてゆく、キリスト者 の生活をして参りましょう。