説    教   レビ記19章17〜18節  ヨハネ福音書13章33〜35節

「 愛の誡め 」

2016・03・20(説教16121635)  十字架を目前とされて、主イエスは愛する弟子たちに「新しいいましめ」をお与えになりました。主 の弟子たちが守るべき最も大切な誡命として“互いに愛し合うべきこと”をお教えになったのです。そ れが今朝の御言葉・ヨハネ伝13章34節以下です。すなわち主イエスはこのように言われました。「わ たしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したよ うに、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの 弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。いま仮にこの“新しい(主の)いましめ”を簡略化し て「みんな仲良く、愛し合いなさい」という勧めに変えてみたらどうでしょうか?。そのほうがいっそ 分かりやすいと感じるのではないでしょうか。私たちは日ごろヨハネ伝のこの御言葉を、いわばその程 度の道徳訓としてしか聞いていないのではないか。つまり「互に愛し合いなさい」とは私たちにとって、 キリストを信じていても信じていなくても、人間として当然に聞きうる誡命のようにも思われるのです。  言い換えるなら、私たちは別にこの誡命が主イエスのものでなくても納得してしまうのです。マホメ ットの教えであっても、釈迦や孔子やソクラテスの教えであっても良い。その他誰の教えであっても「こ れは普遍的な愛の教えだ」と私たちは感じるし、実際そう思うのではないでしょうか?。キリスト教以 外にも「愛の誡命」を語る宗教はたくさんあります。仏教は「慈悲」という言葉で、道教は「仁」とい う言葉で、イスラム教は「施し」という言葉で、“互いに愛し合うこと”を勧めています。その意味でこ れは「古い誡命」です。手垢がついているのです。新しい家に引っ越して来て、最初は新鮮であったも のが、月日が経つにつれ次第に新鮮味が薄らぎ、感動しなくなるのと同じようなものです。私たちは「愛 の誡命」についても、それを特に大切なこと、新しいこと、主の御手から受けるべきこととは、感じな くなっているのではないでしょうか。むしろ私たちは、十字架の主を抜きにして、自分の力だけで「愛 の誡命」を聞き、これを行なおうとしているのではないでしょうか。「そうだその通りだ」。「互に愛し合 うことは人間にとって最も大切なことだ」。そのようにして私たちは思うのです。「何をいまさらそれを 『新しい誡命』と言うのか」と。  だからこそ、ヨハネ第一の手紙2章7節以下は私たちに、愛は「古くて、同時に新しい誡命」である と教えています。なぜ「愛の誡命」は「古くて、同時に新しい誡命」なのでしょうか?。その答えはた だ一つです。それは私たちが言葉だけで、実際に人を愛することにおいて「怠惰な僕」にすぎないから です。私たちは愛の尊さを簡単に口にしますが それを本当に「行なっているか?」と問われるなら、口 ごもるほかないのではないか。むしろ私たちには、自己中心の思いが常に心に居座っているのではない か。“互に愛し合うこと”とは正反対の、利己的で排他的なおのれの姿があるのではないか。その意味で、 まさに愛は「古くて、同時に新しい誡命」なのです。その誡命に手垢がついていたとしても、実はその 手垢は他の誰かの手垢でしかない。私たちは「愛の誡命」に手を染めてはいない。そういう意味で、私 たちは「愛の誡命」を今ここに「新しい誡命」として聴くほかない存在なのです。しかも大切なことは、 これをほかならぬ主イエス・キリストが語っておられるという事実です。  そもそも、なぜ主イエスは「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える」と言われたのでしょう か?。主が言われる「新しさ」とは、いかなる新しさなのでしょうか?。それはすぐ後の主の御言葉に 確かな答えがあります。それは「わたしがあなたがたを愛したように」と主が言われたことです。この 「愛の誡命」は、主が私たちを「あなたがたは何と愛の乏しい惨めな人間なのか」と非難しておられる 誡命なのではない。そうではなく、主はまずここに「わたしがあなたがたを愛したように」と語ってお られる。主イエスの愛がまず先にあるのです。主イエスの愛がまず私たちに注がれているのです。それ が何よりも大切なこと、大切な事実なのです。言い換えるなら、主はここにこのように教えておられる。 「まず私があなたがたを愛した、その私の愛のゆえに、あなたがたもまた、互いに愛し合うことができ るのだ」。また、こうも言えるでしょう。「まず私があなたがたを愛した。その私の愛に、あなたがたが 連なっているならば、あなたがたもまた、互いに愛し合うことができるのだ」。  私は神学校を卒業したての24歳の頃、東京のある教会付属幼稚園の園長をしていた(させられていた) ことがあります。右も左も分からない頼りない園長でした。そのころ東洋英和幼稚園の園長をしていら した荒牧富士子さんと知り合い、東京都の園長会などでよく声をかけて戴き、色々と教えて頂き、励ま して戴いたのも、忘れられない思い出です。最初の頃の私は嫌々ながら園長をしていました。しかし時 が経つにつれて、幼児教育とは大変な仕事である。生半可な気持ではできないと認識を改めました。そ してドイツからフレーベル全集を取り寄せて学び始めました。また可能なかぎりの時間を園児たちと共 に過ごすように心がけました。  そうした日々の中で、私の心に深く刻まれたことがあります。それは、キリストの福音に立つ幼稚園 教育を受けた園児たちは、そこで生涯変ることのない「キリストの愛」という人生の祝福と支えを持つ ということです。あるとき園児たちが「イエスさまの絵」を描いたことがありました。それを見て驚き ました。みんな圧倒されるほど素晴らしい絵を描いたからです。この世界で最も美しく、優しく、崇高 な、キリストの愛の姿(愛のイメージ)を色とりどりに園児たちは描いたのです。そのキリストの愛の イメージというもの、神の愛の素晴らしさ、確かさ、美しさの実在は、その園児たちが大人になっても 生涯失われることはないのです。日曜学校の教育についても同じことが言えます。大人になって多くの 困難や挫折を経験するとき、悲しみや悩みや失意に遭遇するとき、幼い日に心の中に播かれたキリスト の愛の確かさは、より輝きをますのではないでしょうか。それは何かといえば、主イエス・キリストは 何の価もない私たちを、その価のなきままに限りなく愛し受け容れて下さった事実です。キリストの愛 は、決して愛し得ない存在を、そのあるがままに愛し抜いて下さった愛だからです。その愛を宣べ伝え うるのは、ただキリストの教会のみなのです。  価値のあるものを愛する愛なら、私たちにも備わっています。それこそ私たちは自分にとって好まし く、愛する価値あるものを、ごく自然に愛することができる。それこそ「互に愛し合う」ことだって特 に難しいことではありません。しかしその私たちの愛は、同時に自己愛という性質を持つのです。有島 武夫の小説に「惜しみなく愛は奪う」という短編がありますが、それこそ私たちの愛は、価値あるもの を自己の所有となさんがための手段と言ってもよい。その証拠には、愛する価値が無いもの、自分にと って好ましくないものを、私たちは「愛することができない」からです。人間関係の悲劇のほとんどは、 その価値の変化に伴う愛の浮き沈みに由来していると申して過言ではありません。私たちの愛には、自 分にとって好ましいものをしか愛せないという限界があるのです。愛する価値のないもの、無価値なも のを、私たちは愛することはできないのです。  しかし、キリストの愛は、そのようなものではありません。神の愛には限界がないのです。それは、 愛する価値があるから愛する条件つきの愛ではなく、そのような価値が何ひとつ無くても、私たちをそ のあるがままに愛したもう無償の愛なのです。キリストの愛は見返りを全く求めない無償の愛です。そ れは、私たちの価値によって変化する愛ではなく、三位一体なる神ご自身の聖なる交わりの中に永遠の 根拠を持つ不変の愛であります。私たちの愛は自分を愛してくれる者を愛する愛にすぎません。しかし キリストの愛はご自分を十字架にかけた人々のために赦しと祝福を祈り、その救いのためにご自分の生 命を献げる愛であります。そのような神の愛、キリストの聖なる愛をあらわすために、新約聖書は“ア ガペー”という特別なギリシヤ語を用いました。アガペーとは「価値を求める愛」(エロース)に対して 「価値を造り出す愛」のことです。エロースの愛がの本質において自己愛であるのに対して、アガペー は徹底的な他者愛であり自己犠牲的愛であります。神の愛は、価値があるから愛する愛ではなく、愛す ることによって相手に無限の価値を与える愛です。価値を追求し、自分のために奪うのではなく、価値 なき者をそのあるがままに愛し、その者のために自分を与え、限りない価値を与える愛こそがキリスト の愛なのです。  そして、その“価値なき者”こそ、誰あろう、私たち自身のことではないでしょうか。私たちは神の 御前に立ち得ざる者です。それどころではない、私たちは罪という、マイナスの価値(反価値)をしか 持ちえぬ存在です。そのような私たちのために、神の御子キリストは、十字架にかかって死んで下さい ました。そのことを、ヨハネはヨハネ第一の手紙4章7節以下にこのように語っています。「愛する者 たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者 は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそ のひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わた したちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたした ちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。 ここに愛がある」。ヨハネは明確に「ここに愛がある」と申します。私たちが未だかつて想像だになしえ なかった真の愛が、そこに、十字架のキリストによって、いま私たちに溢れるばかりに与えられている のです。そしてだからこそ、ヨハネは続いてこのように勧めるのです。「愛する者たちよ。神がこのよう にわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」と。  今朝のヨハネ伝の御言葉と全く同じです。まずキリストの愛が、あの十字架の贖いの御業によって、 価値なき私たちに豊かに注がれている。だからこそ主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように」 と言われたのです。そのキリストの愛に私たちがいつも連なっているならば、すなわち私たちがキリス トの御身体なる教会の交わりの内にあり、御言葉の光のもとに世の旅路を歩んでゆくならば、そのとき 私たちもまた「互に愛し合う」生活を造り出す者とされているのです。それはキリストに贖われた者の 新しい生活です。自分の力によってではなく、キリストの恵みの御力によって歩む生活です。どんなに 私たちが弱い時にも、その弱さの中にこそ、主の御力が働いて下さることを信ずる歩みです。  コールリッジ(S.T.Coleridge 1772-1834)というイギリスの詩人の作品に「老水夫行」(The Rime of the Ancient Mariner)という詩があります。その中にこういう一節があります。「最もよく愛する者とは、 最もよく祈る人なり=最もよく祈る者こそ、最もよく愛しうるなり」(He prayth best, who Loveth best)。 この「祈る人」とは、キリストの愛に生かされ、キリストの恵みに支えられたキリスト者のことです。 キリストの愛に自分を委ねた者のことです。コールリッジ自身、本当に挫折の多い人生を歩んだ人でし た。盟友ワーズワースの助けがありましたが、不遇と言ってよい生涯を歩んだ人です。しかしどのよう な境遇にありましても、キリストの愛に生かされてこそ、キリストの愛に根ざしてこそ、キリストに自 分を委ねてこそ、はじめて私たちは「最もよく祈る人」すなわち「最もよく愛する者」たりうるのです。 それは少しも、私たちの力ではありません。私たちは愛することには全く無力な僕にすぎない。破れ多 き僕にすぎない。しかし、キリストの愛に根ざして生きるならば、キリストに贖われた者として生きる ならば、キリストに自分を委ねるならば、その弱き私たちの弱さのただ中にさえも「互に愛し合う」生 活が造り出されてゆくのです。それこそが、そこにキリストの弟子が存在することの何よりも確かな徴 なのです。