説    教   イザヤ書53章1〜6節  ヨハネ福音書12章36〜40節

「人生の分岐点」

2016・03・06(説教16101633)  私たちの人生には、時として重要な決断を迫られることがあります。昔から思い切って決断すること を「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と申しますが、今日風に申しますなら「スカイツリーから飛 び降りる」ぐらいの難しい決断を迫られる場合が、私たちの人生にもあるのではないでしょうか。そこ で、ヨーロッパの田舎に参りますとこういう光景をよく目にします。ごくありふれた町外れの岐かれ道 の所に祠のようなものがあって、そこには十字架のキリスト像が置かれているのです。さしずめ日本で 申しますところのお地蔵さんや道祖神のようなものですが、しかし、それだけではない意味がそこには あるように思います。  そもそも岐かれ道というものは、実は私たちの人生そのものを意味しているのではないでしょうか。 英語やドイツ語やフランス語で“危機”または“転換期”を意味する言葉は“岐れ道”という意味のラ テン語に由来しています。それは人生の“岐かれ道”においてこそ、私たちは本当の意味での危機(転 換期)に直面するからです。そこで大切な決断を求められるからです。それならば、何としばしば私た ちは、その大切な決断において誤りをおかすことでしょうか。右に行くべき道を左にとってしまった。 退くべきところで進んでしまった。いくら悔やんでも悔やみきれない、そういう慙愧の思いに苛まれて も「後の祭り」です。もしこの人生が、あの時の決断が、ビデオテープのように巻き戻せるのなら最初 からやり直したい、そういう思いに駆られることがあるのではないでしょうか。  それなればこそ「岐かれ道」に立つキリストの十字架像を単なる迷信とは片付けられないのです。そ れは私たちが危機に立つとき、岐かれ道に立つとき、そこでこそ主よ、私たちと共にいて下さい。私が どちらの道を選ぶべきかをお教え下さい。そしてあなたの御心のある道を選び取ることができますよう 私をお導き下さい。私たちはいつもそのように祈らざるをえない者だからです。ただ十字架の主イエス・ キリストにのみ、私たちの人生の正しい唯一の指針があるからです。  今朝の御言葉・ヨハネ伝12章36節以下39節のところで、私たちは不思議な事柄に出会います。そ れは「イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった」と記さ れていることです。これは主イエスのご生涯においてしばしば現れている行動です。主は群衆がご自分 をイスラエルの王に祭り上げようとしているのを知られるや否や、ただちに人目を避けて野山に籠もら れ、そこで深い祈りの時をお過ごしになりました。それは、私たち人間の願いとキリストの御心との間 には、決定的な食い違いがあるからです。私たちはいつも、自分の幸福と満足を人生の目標としますが、 キリストはいつも、ご自分を犠牲となして全ての人を救うことを願っておられます。私たちはいつも、 自分の願いや計画が実現することを喜びますが、キリストはいつも、ご自分の思いではなく、父なる神 の御心を行なうことを喜びとなさいます。私たちはいつも、どうすれば自分が得をするかを考えますが、 キリストはいつも、何が私たちの益となるかをお考えになり、そのためにはご自分の生命をもお与えに なるかたです。このような、私たちの心とキリストの御心との食い違い(断絶)こそ、まさしく私たち の“罪”に由来するものなのです。  言い換えるなら、私たちの人生において最大の「危機」(岐かれ道)は常に私たちの内側にあるのです。 私たちの中にこそ、常に私たちの直面すべき“岐かれ道”が存在するのです。それはどのような“岐か れ道”でしょうか。それこそ主が明らかに語っておられることです。同じヨハネ伝12章36節の御言葉 です。「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。主はここで私たちに「光を信じなさい」 と言われます。信仰を求めておられるのです。この「光」とは「すべての人を照らすまことの光」なる イエス・キリストをさしています。つまり、私たちが人生においていつも直面する最大の“岐かれ道” とは「まことの光」なるキリストのもとを歩むか、それともなお“罪”の「闇の内」を歩む者になるの か、その二者択一なのです。その二者択一こそ、キリストを信じキリストの御身体なる教会に連なって 歩む者になるか、それともキリストを信ぜぬまま罪の闇の内に留まってしまうか、その厳粛な“岐かれ 道”に立つことです。それならば、その「岐かれ道」においてこそ私たちが必要とする唯一の導き手は 十字架の主イエス・キリストではないでしょうか。私たちはただ一人でこの最大の「岐かれ道」に佇む のではない。そこに佇む私たちにいつも十字架の主が共にいて下さる。だからこそ主は「光を信じなさ い」と、私たちに信仰を求めておられるのです。  それは、言い換えるならこういうことです。あなたはどちらの道を歩むべきか、それがわからないま までも良い。どちらを選ぶべきか分からず、迷っているままでも良い。あなたに必要な事はただひとつ。 私を信じ、私に全てを委ねることだ。そうすれば、あなたはあなたの全存在を照らす「生命の光」を見 出すであろう。そのとき、あなたはもはや「闇」に追いつかれることはなく、御国の光があなたを照ら すであろう。そのように主ははっきりと語っていて下さるのです。「闇の中を歩く者は、自分がとこへ行 くのかわかっていない」と主は言われました。まさにそれこそ私たちの真の姿です。しかし十字架の主 を信じ、主の御身体なる教会に連なり、礼拝者として歩むとき、私たちは人生の全体において、主がい つも共におられ、導いていて下さる恵みを知ります。それが大切な唯一のことです。それこそ主が私た ちに求めておられること、“信仰による新しい生活”なのです。  この“信仰による新しい生活”をさらに周知徹底させるために、福音書記者ヨハネは今朝の御言葉に おいて、旧約聖書イザヤ書53章1節以下を引用しています。ヨハネ伝12章38節以下です。「それは、 預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、『主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでし ょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか。』」。そしてヨハネは39節にこう申します。「こ ういうわけで、彼らは信じることができなかった」。このイザヤ書の御言葉は、いったい何を語っている のでしょうか。イザヤ書53章は「苦難の僕の歌」と言われます。キリストの十字架の出来事を預言し ている言葉です。「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか」と預言者イザヤは言い ます。この「わたしたち」とは、主なる神とイザヤ自身のことです。神に召され、預言者とされて、た だ神の御言葉のみを語るイザヤの「説く」言葉。すなわち、来るべき真の救い主、十字架の主イエス・ キリストの御業をさし示す福音を、誰一人として信じようとはしなかった。ここにイザヤは改めて、人 間の罪による神との断絶の深さに慄いているのです。しかし、イザヤが説く福音はその断絶に留まらな いのです。たとえ私たちの“罪”という断絶がどんなに深くても、主なる神は愛する独子・主イエス・ キリストを私たちの救いのため、まことの自由と平和のために世に与えて下さる。神の御子が、私たち の歴史のただ中にいらして下さる。神みずからが私たちの「岐かれ道」にお立ちになって下さる。その 驚くべき恵みを明らかにしているのです。ですから特に大切なのは4節の御言葉です。「まことに彼は われわれの病を負い、われわれの悲しみを担った」。5節にはこうもあります。「彼はみずから懲らしめ をうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」。  ここに、私たちは何を見るのでしょうか?。何を告げ知らされているのでしょうか?。それこそ、私 たちの最大の“岐かれ道”すなわち私たちの底知れぬ“罪”のただ中に来て下さった十字架の主の御姿 なのです。まことに「闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかってい」ません。しかし「すべて の人を照らすまことの光」なるキリストがその“岐かれ道”において私たちと共にいて下さるとき、私 たちはもはや行先を知らぬ放浪の民ではありえないのです。私たちの全生涯を通して、そこにキリスト の真実が輝いている。そこにキリストの恵みの導きが現れている。私たちの人生そのものが、共にいて 下さるキリストの恵みにおいて、神の栄光を現すものに変えられてゆく。その幸いと感謝を共有する群 れとして、いま私たちはここに招かれています。世にある全ての人々を、主はご自身の御身体なる教会 へと、復活の喜びの、生命の光の中へと、招いておられるのです。「光の子となるために、光を信じなさ い」。  フランスの思想家パスカルは、この光なるキリストに従う生活を“恩寵への飛躍”と呼びました。私 たちには“飛躍”が必要です。しかし闇雲に飛躍するのではない。そこには明確な対象があります。そ れこそ十字架の主イエス・キリストです。私たちは十字架の主イエス・キリストに向かって自らを飛躍 させるべく神によって招かれているのです。それがパスカルの言う“恩寵への飛躍”です。使徒パウロ もまた、私たちはキリストの恵みのもとにあるとき、もはや「空を打つような拳闘はしない」と申しま した。私たちがみずからの全存在を投げかけても、決して私たちを失望させることのない唯一の主が私 たちを招いておられるからです。私は子供の頃、家で飼っていた子猫が高い木の上に上って降りられな くなったことがあります。そのとき私はどうしかと言いますと、私は木の下から子猫を見上げて、自分 の着ている服の前を広げて「ここに飛び降りろ!」と叫んだのです。すると子猫は木の上から躊躇わず にそこに飛び降りてきました。飛躍したわけですね。子猫は私を信頼してくれていたわけです。「かなら ず自分を受け止めてくれる」と。だから飛躍した。譬えて申せばそれと同じように、神との断絶である “罪”を私たちは自分の力ではどうすることもできませんが、そこに一人のかたが、十字架の主がお立 ちになって呼びかけていて下さる。「さあ、私に向かって、安心して飛躍しなさい。私にあなたの存在の 重みを、その罪もろとも委ねなさい」と。そうすれば私たちはそこで知るのです。主は、私たちをかな らず、かならず御自身の愛の御手の内に受け止めて下さると。  なぜならば、主は、私たちの罪の重みを、既にあの十字架においてことごとく受け止めて下さったか ただからです。罪なき神の御子みずから、私たちの不義を身にお受けになり、私たちの病を負いたもう て、あの呪いの十字架にかかって下さったからです。聖なる神ご自身が、私たちのあらゆる悲しみ、そ の罪の重みの全てを、十字架において担い取って下さったからです。その恵みの御業の確かさはそのま ま、私たちの救いと生命の確かさなのです。その救いと生命の確かさはそのまま、私たちの教会の確か さなのです。主はまことに、その十字架の御苦しみと死によって“われわれに平安を与え、その打たれ た傷によって、われわれを癒して下さった”のです。私たちは実にこの主にのみ、私たちの全てを投げ かけることができる。この「主」を信じて飛躍することができるのです。  金曜日の祈祷会で、私はスポルジョン(スパージョン=C.H.Spurgeon)という19世紀イギリスの伝道 者の話をしました。スパージョンは15歳のとき回心(conversion)を経験します。それはある日の説教で イザヤ書45章22節の御言葉「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、 ほかにはいない」を聞いたことによります。そして神学校に入学した16歳の時からスパージョンは説 教者としての歩みを始めます。植村正久も築地神学校に入学した17歳の時に名古屋伝道をしています。 私の書斎に“Preaching Spurgeon”(説教するスパージョン)という絵があります。それは説教壇から離 れ、コミュニオンサークルに両手をかけて、会衆席に向かって身を乗り出すようにして、人々に決心を 促している姿です。「いまここに集うている人は全て、キリストに自分を委ねなさい」と語り告げている 姿です。なぜスパージョンはこのように説教したのか?。それはまさに、ここで、礼拝において、主イ エス・キリストご自身が私たちに語り告げていて下さる恵みを知るゆえにです。「あなたの全存在を、あ なたの人生を、いま私に委ねなさい」と。そこでこそ私たちは、エペソ書5章8節の恵みを知る者とさ れるのです。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩 きなさい」。そのとき、主は私たちをことごとく受け止めて下さる。「光の子」として歩ましめて下さる のです。この大いなる約束は、いかなる人生の分岐点においても、私たちを支え導いて生命の道に至ら せる祝福なのです。