説    教    創世記15章1〜6節   ヨハネ福音書8章37〜42節

「アブラハムの子孫」

2016・02・28(説教16091632)  もし私たち人間に「自分にはこの誇りがあるからこそ生きてゆける」という「誇り」があるとするな らば、イスラエルの民ユダヤの人々にとっては、それは「アブラハムの子孫」と呼ばれることでした。 その名称(称号)こそが彼らにとって最も名誉なことであり「誇り」とすることでした。この誇りだけは、 誰にも傷つけられたり、侮辱されたりしてはならない。もしこれが傷つけられ侮辱されることがあれば、 生命をかけて戦うのみである。ユダヤ人たちはそうした覚悟を抱いていたのです。ところが事もあろう に、その彼らの最大の「誇り」である「アブラハムの子孫」という名称(タイトル)を、主イエス・キリ ストは、彼らから奪い去っておしまいになった。あなたがたには「アブラハムの子孫」と自称する資格 はないのだと断言なさった。それが今朝のヨハネ伝8章37節以下の御言葉です。  「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それなのに、あなたがたはわ たしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。わた しはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行なってい る」。  大切なのは、この最後の御言葉です。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなた がたは自分の父から聞いたことを行なっている」と言われたことです。ここで主が言われる「わたしの 父」とは、もちろん父なる神のことです。それなら「あなたがたは自分の父から聞いたことを行なって いる」とは、「あなたがたは、父なる神から聞いたことを行なっているのではない」つまり「あなたがた は、神の御言葉を聴いている者ではない」ということです。  アブラハムは旧約聖書の創世記12章以下に登場する人物です。アブラハムはまだアブラムという名 であった75歳の時、神の御言葉に聴き従い、故郷ハランを出て約束の地へと旅立ちました。神はアブ ラムの信仰による従順を祝福したもうて、彼に「アブラハム」(諸国民の父)という新しい名をお与えに なりました。それが創世記17章1節以下に記されている事柄です。  「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわ たしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』。 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民 の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれ るであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである』」。  そして同時に、今朝あわせて拝読しました創世記15章6節には、このアブラハムの生涯における最 も重要な御言葉が記されています。それは「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」 とあることです。使徒パウロはこの御言葉をローマ書4章3節、9節、22節、23節、そしてガラテヤ 書3章6節にも引用しています。そこから「イエス・キリストを信ずる信仰による神の義」を宣べ伝え ています。つまりアブラハムは「主イエス・キリストの父なる神」を信じて義とされた最初の人なので す。だからルターはアブラハムを「最初のキリスト者」と呼んでいます。それゆえにアブラハムは「諸 国民の父」すなわち「信仰の父」と呼ばれるようになったのです。  その結果、明らかになったことは「アブラハムの子孫」とはまさしく、この「最初のキリスト者」と なったアブラハムの「信仰」を受け継ぐ者のみが称えられる名称であるということです。主イエスが問 題になさるのはまさにその点でした。主はユダヤの人々に対しまして、あなたがたは「アブラハムの子 孫」を名乗るのならば、アブラハムの子孫らしく生きるべきではないかと勧めておられるのです。本当 の「アブラハムの子孫」であるか否かはその「信仰」によってわかるのだと言われたのです。そこで人々 は、この主イエスに対して、自らの「誇り」が傷つけられたと猛然と反発します。  39節にこうあります「彼らはイエスに答えて言った、『わたしたちの父はアブラハムである』」。これ に対して主イエスははっきりお答えになった「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをす るがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。 そんなことをアブラハムはしなかった。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっているのである」。  これは大変な言葉です。ここで主が言われる「あなたがたの父のわざ」とは、実は「悪魔のわざ」の ことだからです。つまり、あなたがたはアブラハムを信仰によって義としたもうた「父なる神のわざ」 は行わず、自分の父である「悪魔のわざ」を行なっているではないか。私はあなたがたが「アブラハム の子孫」を自称していることは知っている、しかし本当の「アブラハムの子孫」とは、決してそのよう な者ではないと主は言われるのです。これを聞いて、人々は一斉に殺気立ちました。一瞬の内に主イエ スに対する殺意と敵意が漲りました。「わたしたちは不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちには ひとりの父がある。それは神である」と彼らは主イエスに叫んでいます。これは事と次第によっては、 よもや生かしては帰さぬぞと語気を強めて脅迫したのです。彼らの自信と「誇り」の金的を主イエスに 射抜かれたからです。この瞬間、主イエスの十字架への道行きは確定したと言っても過言ではありませ ん。そして主はこれにお答えになって言われました。  42節です「イエスは彼らに言われた、『神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛 するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきた のではなく、神からつかわされたのである』」。  ここに主イエスは、福音の核心とも言うべき大切な事柄を明らかにしておられます。まず第一に、神 を父として信ずる者はかならず、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを愛する(信ずる)という こと。「信仰」とは「神を愛すること」です。それは私たちが、神に愛されたその愛をもって、神の御顔 を拝する者となることです。ニカイア信条に告白されているように、御子(イエス)は御父(神)と同 質であられます。この「同質」という字は「ホモウーシオス」というギリシヤ語ですが、似たような言 葉に「類似」を意味する「ホモイウーシオス」という言葉があります。アルファベート一文字の違いで すがこの違いは限りなく大きいのです。  西暦325年のニカイア公会議のおり、アリウスとアタナシウスとの有名な論争がありました。キリス トは神に類似したかたであると主張するアリウスに対して、当時若干24歳の青年神学者であったアタ ナシウスは、いやそうではない、キリストは神と類似したかたなのではなく、神と同質であられるかた なのだ。すなわちキリストは神と等しいかたなのだ。そのように主張しました。幾多の論争を経て、つ いにアタナシウスの父子同質論がアリウスの父子類似論を退け、そこに成立したのが原ニカイア信条で す。さらにこの原ニカイア信条は381年のコンスタンチノポリス公会議の決定を踏まえて、今日の私た ちが告白するニカイア信条になりました。  今日全世界のキリスト教会がこのニカイア・コンスタンチノポリス信条を告白しています。キリスト は神と類似なのではなく、神と同質なる、神と等しいかたである。だから私たちは、ただキリストの十 字架による贖いによって救われるのだ。この福音の本質・真理を聖書に基づいて、全世界の教会が共通 信条としているのです。言い換えるなら、正統的教会(オーソドックス・チャーチ)とはこのニカイア 信条に立つ教会であるということです。このことを主イエスみずから明らかになさっておられるのです。  第二に、主イエスは「神から出た者」であり「神からきている者」です。それならば「アブラハムの 子孫」を自称する人々は主イエスを神の子として喜び迎え(信じ告白)せねばならないはずです。アブラ ハムが神を信じて義とされたように「イエス・キリストを信ずる信仰による神からの義」こそ私たちの 唯一の救いです。イエス・キリストの御名以外いかなる救いも私たちは持たないのです。少し以前のこ とですが、あるテレビ番組で梅原猛という哲学者と有名なニュースキャスターが対論をしていました。 唯一神教であるキリスト教やイスラム教の世界観と、多神教である仏教・神道の世界観を比較した場合、 唯一神教は要するに自分だけが正しいという教えであり、今日の世界を混乱させているものはキリス ト・イスラム教である。まあ、そんなことを言っていたのですが、それを聞きまして私は、ああこの人 たちは宗教の本質について無知なのだなと思いました。そもそも短絡的な価値観によって比較宗教論を 展開すること自体が方法論的に間違いではないでしょうか。  むしろ大切なことは、それこそ民俗学・国文学の碩学・折口信夫が語っておりますように「人間を深 く愛する神ありてもし物言わば我の如けむ」です。それこそが大切な日本的宗教感覚だと思うのです。 もしこの世に、この世界に、人間を真実に愛したもう神がおられるとすれば、その神は「独子を死なし めたまいし父」のごとくに言葉を語られる、そのような神であるはずだ。そのような神だけが本物の神 である。そのように折口信夫は語っておるわけですが、そういう感覚こそが正しい意味での実存的宗教 感覚であり、それはキリスト教の理解にも深く通ずるものであると私は思います。  私たちは聖書において、いかなる福音のおとずれを聴いているのでしょうか。それはまさに「独子を 死なしめたもうた父なる神」がここにおられるという音信ではないでしょうか。まさに人間を深く真実 に愛するがゆえにこそ、その最愛の独子を世にお遣わしになり、その御子を十字架に死なしめたもうた 父なる神が福音の中心なのです。それが聖書の語る真の神の姿です。やり場のない、救いのない、筆舌 に尽くし難き私たちの現実のただ中に、まさに独子を十字架において失いたもうた父の愛として「人間 を深く愛する神の愛」が私たちに迫って来るのです。使徒パウロのいう「この御名のほかに救いなし」 とは、まさしくこの神こそが、その独子を賜わったほどに「人間を深く愛する」唯一の神であられるか らです。  私たちは、この神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、主の御身体なる教会に連なるこ とによってのみ、名実ともに「アブラハムの子孫」とせられるのです。それ以外に、神に義とされ、正 しい信仰に生きる道はないのです。そのとき私たちはあの、ルカ伝19章の「取税人ザアカイ」の幸い に生きる者とされるのです。いかなる救いの望みもなかったザアカイの家を、主イエスみずから率先し て訪ねて下さいました。そこで御言葉によって、ザアカイは、生まれ変わった者になりました。キリス トを信じ、神を愛する僕となりました。そのとき主は彼に何と仰せになったでしょうか。主はこう言わ れたのです。  「きょう、救いがこの家にきた、この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われた ものを訪ね出して救うためである」。主は、ここに集う私たち一人びとりにも、今はっきりと告げていて 下さいます。「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」と。この救いと祝福 を賜わっておりますゆえに、ひたすらに十字架と復活の主を仰ぎ、主に従ってゆくひとすじの、信仰の 活きた歩みを、造って参りたいと思います。