説    教    イザヤ書20章1〜2節   ヨハネ福音書21章5〜8節

「ガリラヤの海辺にて」

2016・02・21(説教16081631)  私たちは日ごろ、主イエスから恵みを戴くだけだと思っていますので、主イエスの側から私たちに何か をお求めになるという事態に対して、心備えができていないことが多いのではないでしょうか。それは主 の弟子たちも同じでした。今朝の御言葉・ヨハネ福音書21章5節を見ますと、主イエスはガリラヤの湖 畔にお立ちになって、舟の上にいる弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか」とお訊きになりま した。主イエスみずから弟子たちに、食べるものをお求めになったのです。  そこで、弟子たちにしてみれば、その人影がまさか主イエスだとは思っていませんから、不思議に感じ たのではないでしょうか。ずいぶん変なことを言う人がいるものだ…ぐらいに感じたのではないでしょう か。もっとも、この時代は今日のように、どこでも食糧が買えたわけではありません。ですから空腹を感 じた旅人などが、漁師から直接に魚を買う、という場面は珍しくなかったのです。その意味では、それほ ど不審な場面ではありませんでした。むしろ弟子たちが不審に思ったのは「子たちよ」という呼びかけで した。この「子たちよ」という呼びかけは、ふだん主イエスが弟子たちをお呼びになる時の言葉でした。 文語で言うなら「わが子らよ」です。しかしそう言われても、弟子たちはなおも、それが主イエスであら れると気がつかなかったのです。それほど弟子たちのまなざしは、復活の主イエスに対して閉ざされてい たのです。  それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも、否、私たちこそ、普段の生活の中で、自分がキリ ストの僕であることを、自覚せずに生きていることがあるのではないか。主イエスの御姿を見失っている ことがあるのではないでしょうか。キリスト者として信仰を持って社会生活をすることは、現実にはいろ いろと不都合な面や窮屈な点もありますから、私たちは知らず知らずのうちに、日曜日の自分とウィーク デーの自分とを、器用に使い分けて生きていることがあるかもしれません。  それが嵩じますと言うと、信仰がともするとアクセサリー(装飾品)のようになってしまって、自分に 似合うと思えば身に着けるけれど、似合わないと思えば捨てて顧みない、そのような自分本位の、自分勝 手の、自己中心の信仰生活・教会生活になっていることがあるかもしれません。いずれにしても、私たち の信仰生活は、いとも簡単に自分本位(キリストではなく自己中心)のものになってしまう危険があるので す。キリストを見ていないで、自分ばかりを見ている生活になってしまうのではないでしょうか。  そのとき、私たちの生活はどのような姿をしているのか。それこそまさしく今朝の御言葉の弟子たちの ような姿ではないでしょうか。すなわち、弟子たちは魚を獲ろうとして一晩中漁をしました。しかし何も 獲れなかった。一匹の魚も網に入らなかったのです。全ては徒労に終わったのです。空しさと疲れと、や りきれぬ思いだけが残りました。6人の弟子たちはみな無言で網を引き上げ、岸に帰る準備をしていたの です。絶望と疲労だけが彼らを支配していたのです。まさにそのような弟子たちに、否、私たちのただ中 に、主イエスは御声をかけて下さいます。「わが子らよ」と!。私たちを「わが子らよ」呼んで下さるので す。たとえ私たちのまなざしが、主イエスが共におられる恵みに対して閉ざされてしまっている時にさえ、 その私たちの弱く愚かな現実のただ中に主イエスは共にいて下さり、私たちを「わが子らよ」と呼んで下 さる。そして「子たちよ、何か食べるものがあるか」と訊ねて下さるのです。天地万物の創造主にして、 全てのものを全てにおいて満たしたもう聖なるかたが、今や一人の人として私たちに「何か食べるものが あるか」と、少しの食物を求めて下さるのです。  主はそのようにして、私たち一人びとりを生命の福音へと導いて下さいます。あたかも、主がまずそれ を私たちにお求めになったので、はじめて私たちがそれを熱心に求めたような形で、すなわち、まるで私 たちが自らそれを見出したかのような仕方で、私たちを福音の真理へと導いて下さるのです。それは同じ ヨハネ伝4章のスカルの町の井戸端での名もなき女性との出会いにおいてもそうでした。あのときにも主 はまずその女性に対して「わたしに水を飲ませて下さい」と一杯の水をお求めになり、それがきっかけに なって、本当の救いを求めつつ、しかも、どこにそれを求めたら良いのかわからないでいた彼女を「活け る永遠の生命の水」の源=福音へと導いて下さったのです。  今日の御言葉でも同じでした。「何か食べるものがあるか」と問われた弟子たちには「ありません」と答 えるほかすべはなかった。しかしバルトが語るように「人間のピリオドは神のコンマ」です。私たちが絶 望の壁に直面し、言葉を失い、途方に暮れる、まさにそのところにこそ、私たちの弱さと破れの中にこそ、 主イエスの御業が現れるのです。しかしそのためには、たった一つだけ私たちのなすべきことがあります。 すなわち主イエスは、驚くべきことを弟子たちに言われます。それが6節の御言葉です。「舟の右の方に 網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」と主が言われたことです。  実は、この時代のガリラや湖の漁には決まった方法が(漁の掟が)ありました。漁業にせよ農業にせよ、 自然が相手の職業は膨大な経験の集積です。長い年月の間に決まった方法が定着するのです。ガリラヤ湖 の漁の場合は、いつも「舟の左側を岸に向けて、岸のほうに網を降ろす」つまり舟の左舷(左側)から網 を降ろすという決まりごとがありました。これは現代のイスラエルの漁でも同じだそうです。ですから、 主イエスが言われる「舟の右のほうに網を降ろしてみなさい」と言うのは、まだ誰もしたことのない「掟 破り」のことだったのです。漁の常識に反した驚くべきことを、主は弟子たちに求めたもうたのです。  弟子たちはみな、ペテロをはじめとしてベテランの漁師たちです。その彼らが主イエスの「掟破り」の 御言葉に聴き従ったということは、まことに不思議なことです。しかも彼らはまだ、その人物が主イエス であるとは知らずにいるのです。その誰ともわからぬ人物の、およそ常識に反する「掟破り」の言葉に、 ベテランの漁師である弟子たちが聴き従ったということに、実は私たちは驚くのではないでしょうか。そ れはいったい何を意味するのかということです。それこそ、主の御言葉に対する信仰です。私たちが神の 御言葉を聴く場所、御言葉に従う場所、それは私たち人生のただ中です。教会に連なり、礼拝に出席し、 神の御言葉に生かされてゆきます。その生かされてゆく場所は、私たちの人生そのものです。だから主日 (日曜日)は一週間の初めの日であり、教会は私たちの存在と生活の中心です。しかしだからこそ、私た ちにはこういうことがないでしょうか。御言葉を真剣に聴けば聴くほど、本当にこの御言葉は、主イエス が自分に対して語っておられる御言葉なのだろうかと疑問を抱く、そういう経験をしたことがないでしょ うか。  例を挙げますなら、辛い病気から一日も早く癒されたい、この苦しく不安な毎日から解放されたいと願 うとき、私たちは「主よどうぞこの病気を癒して下さい。この苦しみと不安から私を自由にして下さい」 と祈ります。しかし、実際に私たちの心に響く主の御言葉は、私たちの祈りのままではないことがあるの ではないでしょうか。主は私たちの祈りに直接には応えて下さらないことがあるのです。自分は熱心に病 気の癒しを願ったのに、主から与えられた答えは、それとは反対であったということが実際にはあるので す。そのような時、私たちは、本当にこれが主の御言葉であるかどうか、疑ってしまうのではないでしょ うか。使徒パウロにも同じ経験がありました。パウロは伝道の妨げになる辛い病気にいつも悩まされてい た人です。  それで第二コリント書12章を見ますと、パウロは「肉体に与えられたとげ」を「離れ去らせて下さる ようにと、三度も主に祈った」と記されています。この「三度も」とは、幾十回、幾百回も、たえず祈り 続けたという意味です。しかしパウロが主から与えられた御言葉は、パウロの思いを遥かに超えるもので した。第二コリント書12章9節です「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分で ある。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。」それゆえに、パウロはこのように主に答え、また 教会の人々にも語っています「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の 弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まり とに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。  ここでパウロが言う「甘んじよう」とは、それこそ自分に加えられた神の恵みであると信ずるという意 味です。病ゆえの弱さも、侮辱も、危機も、迫害も、行き詰まりさえも、主は私に「恵み」として与えて 下さった。これらのことがなければ、自分はキリストの愛を、神の祝福を、救いの確かさを、本当に知る ことはなかったであろう。自分が弱ければ弱いほど、その弱い私の内に生きて働きたもうキリストの御力 は、私を存在の根底から支え続けてやまない。そのようにパウロははっきりと語っているのです。弱さを 知るとは、自分の無力さを知ると同時に、その無力な自分をどんなに神が愛し支えていて下さっているか、 どんなに大きな救いの御業の中に私たちを顧みて下さっているか、どんなに尊い御業をその弱さの中にこ そ現わして下さっているか、を知ることなのです。  今朝の弟子たちは、常識では従いえない主の御言葉を、まさにいま主が私に対して語っておられる「福 音」として、生命の御言葉として聴き、それに従ったのです。彼らは主が命じられるままに「舟の右側に」 網を降ろしてみたのです。するとどう書いてあるでしょうか。「彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、 それを引き上げることができなかった」と記されています。同じ21章11節には、その魚の数は「百五十 三びき」であったと記されています。この153という数字についてヒエロニムスという教父は、それが当 時のイスラエルで知られていた魚の全種類であったことに触れ、それはまさしく、主が弟子たちを約束ど おり「人間をすなどる漁師」として下さり、海の全ての魚をすなどらせたように、教会を通して世界の全 ての人々をキリストの救いのもとに集めて下さる救いの恵みを意味したものであると語っています。  私たち一人びとりにも、主が求めておられることは、まさしくこのことではないでしょうか。語られた 御言葉を信じることです。御言葉に正しく聴き従う私たちになることです。主の教会を通して、御言葉の 養いのもとに日々あり続け、礼拝者としての生涯を全うすることです。そのとき、私たちの人生のただ中 に「聖なる大漁」が訪れるのです。測り知れないほど豊かな幸いと祝福を、私たち一人びとりが主から賜 わると同時に、その幸いと祝福へと、隣人をも、全ての人々をも、招くことができるようにして下さるの です。その恵みを人生に現すために、ただ「信仰」のみを主は求めておられます。私たちが主イエスを信 ずる「信仰」によってみ言葉に応えるなら、使徒パウロが感謝しているように、病気も、艱難も、侮辱も、 迫害も、行き詰まりも、人生における失敗も、挫折も、そのことごとくが、私たちをいよいよ神に近づけ、 主の愛と真実を悟らしめるための、尊い導きとして与えられている、祝福として備えられているものなの です。  それゆえにこそ、ペテロは今朝の御言葉において、弟子たちみなが「あれは主だ」と言ったとき、上着 をまとって海に飛び込みました。海に飛び込んだのは、一刻も早く主のみもとに馳せ参ずるためです。上 着をまとったのは、礼拝の装いをなすためです。私たちも、そのような者とされているのではないでしょ うか。あらゆる事柄を通して、主こそまことなれ、真実なれ、主はわが救い、わが誇り、わが贖いなりと、 堅く信ずる者へと、私たちもまた成長させられてゆく。そしてペテロのように、主の御姿を見るまなざし を開かれるや否や、主の御もとに、そのまま飛び込んででも馳せ参ずる者とされているのです。  主にお仕えするためです。主の御用を担わせて戴くためです。まさにわが弱さの中に働きたもう主の御 力を信ずるのです。礼拝者の装いを、讃美する者の心をもって、主にまつろう私たちとならせて戴くので す。主の教会にお仕えし、私たち一人びとりが、主の御栄えを現わす働き人となる幸いを、主はいま、私 たちに豊かに与えて下さるのです。