説    教   エゼキエル書19章10〜14節  ヨハネ福音書15章5〜6節

「主イエスに繋がる」

2016・02・14(説教16071630)  ここピスガ台の上で生活しておりますと、たとえば昨日などは「春一番」のような強い風が吹いたわ けですが、いろいろと不便なこともあります。ちょうど昨日のような強風の日に、牧師館の電話が通じ なくなったことがありました。気がついたのは夜になってからでした。「そう言えば電話が無くて静かな 一日だったね」と家内と話していました。ところがNTTの人に電話しようにも、肝心の電話が使えな いのですから困りました。なんとか連絡を取って翌日、工事の人に見てもらったところ、外の電話線が 風のため切れたのが原因とのことでした。一本のか細い電話線ですが、それが切れると本当に不便です。 インターネットも使えません。生活のあらゆる面で支障をきたすのです。  そこで、改めて思わされました。私たちは普段電話の恩恵に与っていることを意識していませんが、 その恩恵は非常に大きなものです。電話が使えなくなるということは、生活の一部分が機能しなくなる ということです。それは誰もが実感することです。    しかし、人間どうしの対話に必要な電話という道具を、それほど大切なものだと痛感している私たち が、では主なる神との対話においてはどうでしょうか?。私たちは神との対話(通信)において、日頃い かなる心構えをしているでしょうか。電話が故障すれば一刻も早い修理を依頼します。では私たちは神 との対話に、それ以上の切迫感をもって対応しているでしょうか。それとも神との間の電話線は、切れ たままでも平気でいるのでしょうか。そういうことを、改めて感じさせられたのです。    私たちの主イエス・キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになりま した。今朝のヨハネ伝15章5節の御言葉です。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその 人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。これが、今朝の御言葉において与えられ た私たちに対する主イエスの御教え(福音)です。そして、さらに主はこのようにもお教えになりまし た。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。  私たちは、この世間において小賢しく生きている存在ですから、特にこの5節の最後の御言葉などに は、多少なりとも反発を感じるのです。私たちの自我の独占する領域に主イエスに踏込まれたように思 うのです。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。これを聴いて「そんなこ とはない」と、私たちは心のどこかで思うのではないでしょうか。自分は社会においても、人間関係の 中においても、近所づきあいにおいても、人から批判されるような恥ずかしい生活は少しもしていない。 たとえ主イエスから離れていても、自分一人で立派に生きてゆくことができる。もちろん口にこそ出し ませんが、そういう思いが心の奥底に潜んでいるのではないでしょうか。    しかしそういう私たちが、たかが電話線が切れただけで大いに狼狽え、大至急修理を要請するのです。 一本の電話線が切れただけで大騒動になるのです。主なる神との関係の故障には気をとめぬ代わりに、 電話の故障には敏速に対応するとしたら、それこそ人間として本末転倒ではないでしょうか。電話が切 れたって、私たちは死にはしません。しかし、主なる神との関係が失われた人生は、決して実を結ぶこ とのない、生命の喜びと平安を失った人生であります。私たちは、目に見える電話線を大事にすること はできても、眼に見えない神との関係を大事にすることはできないのだとすれば、それこそハイデルベ ルク信仰問答の語る「さかさまなこと」ではないでしょうか。    そこにこそ、私たちの根本的な“罪”の姿があるのです。「罪」が目的とするものは、私たちを神から 切り離すことです。サタンは私たちを神から引き離すためには手段を択びません。「お前は神なんか信じ なくても立派に人間として生きて行けるではないか」と思わせるのがサタンの策略です。神の愛によっ て造られ、存在している人間を、造り主にして父なる神から引き離すことが「罪」の戦略です。神と私 たちとの関係を切断して、神との対話を成り立たなくすることが罪の目的です。    かつて、南洋の孤島のジャングルに取り残されたまま、戦争が終わったことを知らずに何十年ものあ いだ、孤独な戦いを続けていた旧日本陸軍の兵士がいました。戦争は終わったのだから出てきなさいと 拡声器やビラなどで呼びかけても、それは敵の謀略に違いないと頑なに独り戦争を続けていたのです。 私たちは譬えて言うならその兵士と同じように、いつのまにか罪の虜になって、主なる神からの恵みの 呼びかけにも耳を傾けようとせず、独り罪の支配の中に頑として居座っている、そのような存在なので はないでしょうか。第三者から見れば「さかさま」なその姿こそ、実は全ての人間存在の本質的な矛盾 なのではないでしょうか。私たちは在るべき神のもとには在らず、在るべからざる罪の支配のもとに在 る存在なのです。ほんらい在るべき処に在らぬその矛盾のゆえに、私たちの人生は根本的に実を結ばぬ “在りえない”人生となっています。その“在りえない”人生とは何かと申しますと、生命に代わって 死が支配するようになった人生です。死が私たちの生命を呑みこみ、罪が私たちの存在を支配した人生 です。    使徒パウロは、そのような私たちの根本的な矛盾をローマ書7章15節において「わたしは、自分の していることが、わからない」と語っています。この「わからない」とは、ただ“知識がない”という 意味ではなく“何の意味も持たない”という意味です。つまりパウロは、自分のしていること、自分の 人生は、罪の支配の下にあるかぎり“何の意味も持たない”ものでしかないと言っているのです。そし て「わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている」と述べています。「わたしは、 内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に 対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしている」と語って います。そしてパウロは罪のただ中から、主なる神に祈りを献げます。「わたしは、なんというみじめな 人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。    その祈りに対する唯一の確かな答えは、ただ神の遣わしたまいし御子イエス・キリストからのみ与え られるのです。それが、パウロの知った救いの喜びでした。「わたしたちの主イエス・キリストによって、 神は感謝すべきかな」。ここに「わたしたちの主イエス・キリストによって」と、パウロは高らかに讃美 と感謝の歌声を上げています。この「キリストによって」と訳された元々のギリシヤ語は「キリストに 繋がる」という意味です。主イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われました。この「つなが っていなさい」という言葉を文語訳の聖書では「われに居れ」と訳します。つまり「キリストによって」 とは「キリストに?がる者=キリストに居る者として」という意味なのです。この「居る」という字は 意味深いですね。漢和辞書によりますと「居」とは「腰を落ち着けて住まうこと」とあります。主が私 たちに求めておられることは「腰を落ち着けて」主と共にある人生を生きることです。まさに「キリス トに繋がる」人生です。    パウロは先ほどのローマ書7章25節において宣言しています。罪と死の支配はもはや、キリストに 連なる自分に何の力も持ちえない。死に呑みこまれるほかなかったこの私の人生を、そのあるがままに、 キリストが贖い取って下さったからだ。キリストは十字架によって罪を打ち砕き、復活によって死に勝 利して下さった。そのキリストの復活の生命に結ばれた自分を、死はもはや支配することはできない。 だからこそ「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と歌われているのです。 この救いの勝利の喜びと確信を、パウロはさらに同じローマ書6章20節以下においてこのように語っ ています。「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どん な実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠 のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスに おける永遠のいのちである」。    「罪の支払う報酬」とは“罪のもたらす当然の結果”という意味です。罪はあらゆる策略をもって私 たちを神から引き離し、神との交わりを絶とうとします。しかし十字架の死によって私たちの罪を全て 贖って下さったキリスト・イエスによって、測り知れない「神の賜物」がいま私たち一人びとりに与え られています。それは「報酬」ではなく「賜物」ですから「罪の支払う報酬」を全て帳消しにする力を 持つのです。「賜物」は「報酬」に打ち勝つのです。神からの絶大な賜物であるキリストの義が、私たち 一人びとりに「主キリスト・イエスにおける永遠のいのち」を与えるのです。その神の愛から私たちを 引き離すものはありえないのです。    そこで、改めて今朝の御言葉です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわた しにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。 主イエスはここに、私たちのあらゆる罪の現実を超えた、神の限りない「賜物」を、私たちに福音とし て与えておられます。それこそ「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という事実です。 この「枝である」とは“すでにキリストに在りて、全ての罪を贖われた者として、キリストに連なる者 とされている”ということです。  目に見える電話線は切れてしまうことがあります。しかしキリストに在る神との関係は、私たちがキ リストに連なっているかぎり、決して切断されることはありえないのです。そればかりではない。主は 「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば」と語られました。これ こそ大いなる恵みの約束・確かな福音の事実です。私たちはいつでもキリストにしっかりと「つながっ ている」わけではありません。弱く頼りない私たちなのです。しかし、キリストはいつでも変ることな く私たちをしっかり捕らえていて下さる。私たちをご自身に繋がる枝としていて下さる。それこそ神の 限りない「賜物」だとはっきり語っていて下さる。その「賜物」こそ私たちの救いそのものなのです。 それは、キリスト・イエスにおける永遠の生命です。    そのように顧みて参りますと、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」と言 われた主の御言葉の意味も明らかになって参ります。私たちはキリストに結ばれていなくても、肉体の 生命においては特に不自由なく人間としての生活を送ることができます。健康に恵まれ、多くの友を持 ち、家族に囲まれ、有意義な仕事を行うこともできるでしょう。しかしキリストに結ばれていないかぎ り、たとえいかなる人生といえども決して罪と死の支配から逃れることはできません。パウロをして「わ たしは、自分のしていることが、わからない」と嘆かしめた、人生の根本的な虚無に対する解決を、見 いだすことはできないのです。    その解決の道は、ただ十字架にかけられたまいし主イエス・キリストにのみあります。キリストに結 ばれている人生のみが、死に打ち勝つ復活の生命に支えられた真に豊かな実を結ぶ人生なのです。その 意味で私たちは本当に、十字架のキリストから離れては「何一つできない」存在なのです。私たちは他 人はおろか、自分自身の肉体と霊をも救うことはできないのです。「何一つできない」のです。「ぶどう の枝」には「ぶどうの木」に連なっているかぎりにおいてはじめて存在理由があります。幹から離れた 「枝」は「外に投げすてられて枯れる」ほかはないのです。幹から離れた枝も、ほんのしばらくは生命 を保っています。しかしその生命は、束の間の、実を結ばない生命にすぎません。私たちは、そのよう な人生を生きる僕なのではないのです。    そうではなく、私たちは、御言葉と聖霊によって生きる群れとされているのです。何よりも、いま教 会によってキリストに連なる者とされているのです。真の礼拝者とされているのです。キリストに贖わ れた者とされているのです。そこに、私たちを支配していたあらゆる罪と死の現実は終わりを告げ、キ リストの復活の生命に結ばれて生きる、新しい喜びと幸いの人生が始まってゆくのです。否、もうすで に、主に結ばれることによって、何よりも、主が私たちを捕らえていて下さる恵みにおいて、その喜び の生命の「賜物」は、今ここにおいて、私たちのただ中に存在しているのです。与えられているのであ ります。