説     教     詩篇62篇5〜7節    使徒行伝2章29〜36節

「主を仰ぎて立つ」

2016・02・07(説教16061629)  昔は子供たちに「姿勢を正しなさい」ということを大人が言ったように思います。学校での授業のと き、お弁当を食べるとき、家におりましても「姿勢を正しなさい」と注意された記憶があります。では、 牧師が説教壇から説教をする姿勢はどうでしょうか?。昔の牧師先生がたは、そこにもよく気を配って おられました。説教の内容はもちろん、説教中の姿勢、説教者の日ごろの姿勢にも、きちんと注意をし ておられたのです。それは同時に礼拝者の姿勢への気配りでもありました。礼拝前には黙祷をして奏楽 の開始を待つ。礼拝中は御言葉に集中する。献金は家を出る前に準備をしておく。当然のことですが、 その当然のことが大切なのだと思います。なにより問われているのは「信仰の姿勢」です。私たちがい つも、主イエス・キリストのみをしっかりと見つめて歩んでいるかどうか。御言葉に養われつつ生きて いるかどうか。その「信仰の姿勢」をこそ改めて問われているのです。  そのとき、私たちにとって最も大切なことは、主イエス・キリストがいま、どこにおられるか、そし て何をしておられるか、それを明確にわきまえていることです。そして主に向かって信仰の背筋を伸ば すことです。主を仰ぐ健やかな信仰に生きることです。この「主イエス・キリストがどこにおられ、いま 何をしておられるか」という問いに対して、私たちが告白(歌いさえ)している使徒信条は明確に答えて います。それは「(主は)天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉がそれです。今日 の御言葉である使徒行伝2章29節以下にも、特にその32節と33節にこう告げられていました。「この イエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の 右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」。  もっとも、ここには「座したまえり」という言葉は出てきません。それが出てくるのは、たとえばペ テロ第一の手紙3章22節です。「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権 力を従えておられるのである」。しかしその意味するところは使徒行伝も同じです。キリストが「父なる 神の右に座し」たもうた、という事実は、ただ単にキリストが天の御父のもとに、ご自分の落着き場所 を定められたということではない。それはなによりも私たちのため、そして全世界のための、キリスト の救いのお働きそのものを現しているのです。それはどういうことでしょうか?。旧約聖書において「右」 という言葉は「力」を意味しました。古代イスラエルの人々はおそらく、そこで具体的な姿を思い浮か べたに違いありません。礼拝の中心であったエルサレム神殿は東を向いて建てられていました。神の御 臨在を現わす神殿が東向きに建てられていた、ということはその「右」は「南」になります。ですから ヘブライ語では「右」と「南」は同じ言葉(ヤミーン)です。そこには、つまり神殿の「右」には王の住 まいがありました。いわば神のお住まいの「右」側に、神の御心によって、神の民のために立てられた 王が「座していた」のです。何のためにか。神に仕えるためです。ミニストリウムの務めです。  それは更に、今朝の使徒行伝2章34節にも引用されている詩篇110篇1節に「主なる神がわが主に 仰せになった。わたしの右に座していなさい」とあることに繋がります。使徒行伝はこれこそ、御子イ エス・キリストが父なる神の「右」に「座して」おいでになることだと語るのです。つまり、主イエス は「まことの王」として父なる神と共に永遠に支配しておられる「主」である。主は天の玉座にお着き になって、そこに安住しておられるのではなく、そこでこそ「教会の主」(教会のかしら=歴史の主)と して永遠の恵みのご支配を確立され、救いの御業をこの歴史の中に行なっておられるかたである。です から「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言う場合、私たちはなにか遥か彼方に「王な るキリスト」をお送りしてしまったのではない。むしろ逆にこの告白においてこそ、私たちは王なるキ リストと深く確かな「繋がり」を持つ者とされているのです。  そこで、この「神の右」に座したもうキリストのお姿を最もよく見据えて生きた人にステパノがいま す。ステパノは初代エルサレム教会が立てた7人の執事のひとりであり、最初の殉教者となりました。 ステパノはキリストの福音を堂々たる説教によって人々に証し、その結果として石打ちの刑に処せられ たのです。その様子は使徒行伝7章54節以下に詳しく記されています。「人々はこれを聞いて、心の底 から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめ ていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が 開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」。また59節にはこうもあります 「こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、『主イエスよ、 わたしの霊をお受け下さい』。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに 負わせないで下さい』。こう言って、彼は眠りについた」。  エルサレム教会はまだ小さな、生まれたばかりの教会でした。集まる人も少なく、力も弱い教会でし た。その指導者として立てられたステパノが、まことに堂々たるキリストの御業の証をなし、立派な殉 教の死をとげました。その死の様を見ていたパリサイ人サウロは、それを契機にキリストの使徒パウロ としての歩みを始めたほどです。(高知県香美教会での経験)。人々の暴力と圧倒的なこの世の力だけが 支配しているように見えたステパノ殺害の場面で、いままさに死なんとするステパノがしかと見つめて いたものは、父なる神の右に立っておられるキリストのお姿でした。ここには「座したもう」とさえ書 いてありません。主イエスはもう「立って」おられるのです。主はいまここに救いの御業をなさってお いでになる。残酷な石打ちの刑すらも、人々の憎しみや殺意も、主のなさる救いの御業を止めることは できない。ステパノはただ主のみを仰ぎ見て感謝と讃美をささげ「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」 と祈りました。そして自分を殺害しつつある人々に対して「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせない で下さい」と祝福と赦しを祈りつつ息絶えたのです。「この人々を懲らしめて下さい、仇を討ってくださ い」と祈ったのではない。まさにこの人たちの上に、あなたの救いの恵みが輝きますようにと祈りつつ 「眠りに」ついたのです。  最初に、私たちは「信仰の姿勢」を正すのだと申しました。その「信仰の姿勢」が如何なるものであ るかをステパノの姿が見事に示しているのです。そのステパノの姿勢とは「父なる神の右に座したもう 十字架と復活の主を見つめる姿勢」です。だから私たちは「このステパノと同じ姿勢で生きようではない か」とわかるのです。しかもそれはステパノだけではない、今朝の御言葉・使徒行伝2章29節以下はペ テロの説教です。聖霊が注がれて語らしめた最初の教会の説教です。その33節以下にこうありました。 「それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたので ある。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。 彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたし の右に座していなさい』。だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがた が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。  教会は、まさにここに建ちました。このようなキリストの確かな永遠のご支配を見ることにおいて、 仰ぐことにおいて、教会の歴史が始まったのです。このキリストのご支配を見るのはほかならぬこの私 たちです。この教会は主がお建てになった主の御身体です。教会は天における、それゆえ歴史における 永遠に変わらぬキリストの恵みのご支配を信じ受け入れて、その確かさに生きる群れです。私たちの教 会は長老制度(プレスビテリアン)の教会ですが、それは“クリストクラシー”(キリストのご支配)を 明確にするための制度です。言い換えるならそれは「父なる神の右に座したもう十字架と復活の主を見 つめる姿勢」において健やかであり続ける群れです。キリストのご支配のみが鮮やかに見え、立ち上が り、現われてくる、そのような教会の歩みに共に仕えてゆく制度が改革長老教会(リフォームド・プレ スビテリアン)の制度です。その「キリストのご支配」はいかなる内容を持つのでしょうか?。いまのペ テロの説教の中にこうありました。「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またはキリスト としてお立てになった」。この「あなたがた」こそまさに私たちのことです。誰あらぬ、まことにこの私 たちの、測り知れぬ罪の贖いのために、主は十字架にかかられ、復活され、天に昇られて、御父の「右」 に座したもうたのです。  言い換えるなら、私たちは「天」に十字架の贖い主なるキリストを戴く者とされている。このかたが 絶対に変わることのない恵みの王権を確保していて下さる。だから私たちは生きるにも死ぬにも変わる ことなく、主の恵みの御手に堅く支えられていることをいつも信じることができるのです。決して変わ らない永遠の恵みの御手に私たちは守られているのです。だからこそローマ書8章33節以下にはこう 告げられています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれ が、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、ま た、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせ るのか…」。なんと素晴しい御言葉でしょう。神の右に座しておられるキリストは、永遠の救いの王権を もって支配していて下さるかたなのです。全ての人々を教会によって救いと祝福へと招いておられるの です。  このローマ書8章31節以下を貫いている確信が37節以下に告げられています。「しかし、わたした ちを愛して下さったかたによって、わたしたちはこれらすべての事において勝ち得て余りがある。わた しは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力ある者も、高いものも深い ものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを 引き離すことはできないのである」。「(主は)天に昇り、父なる神の右に座したまえり」という告白が言 いあらわしている確信と祝福は、まさにこの御言葉に告げられている出来事です。神の愛から、言い換 えるなら、神の恵みのご支配から、私たちを引き離しうるものは何ひとつない、それほど確かな救いの 恵みに、真実に、確かさに、私たちはあずかる者とされている。それは、主が永遠に勝利されたからで す。その勝利の権威をもって「父なる神の右に座し」たもうからです。だからこそ使徒信条は「全能の 父なる神」という言葉をここで繰り返します。永遠の贖い主であられるキリストがそこにいて下さるゆ えにこそ、私たちは心からの喜びと感謝と讃美をもって、神が「全能の父なる神」であられることを言 い表す者とされているのです。  すでに栄光の主が天において、私たちを完全な恵みの支配のもとに置いていて下さいます。天にあり、 それゆえに、永遠に私たちと共におられる救い主として、主は私たちにはっきりと告げていて下さるの です。「わが子よ、私は、いつまでも変わることなくあなたと共にいる。あなたの人生の日々のどれひと つとして、私の前に空しくはならない」と。それゆえ私たちは、どのような時にも、まことの王であら れる主イエスにみずからの労苦の全てを委ね、その完成と祝福をまさに、天における勝利の主にお委ね することができるのです。私たちの信仰の姿勢はそこにおいてこそ、いつも健やかな、軽やかな、慰め に満ちた、人々に祝福を告げてゆく、御国の民の幸いの姿勢とされているのです。