説    教   イザヤ書44章21〜23節  ヨハネ福音書10章40〜42節

「主が共におられる」

2016・01・31(説教16051628)  私たちは人生において大きな悩みや悲しみに出遭うとき、自分の行く手を塞がれたような気がします。 計画していたこと、願っていたことが挫折したとき、自分はもう駄目だと落ちこみ、悲嘆に暮れ、惨め な思いにとらわれるのです。しかしそのようなとき、自分の足元だけを見つめていては、決して良い解 決は与えられません。焦れば焦るほど道を見失い、迷うばかりです。むしろ、そこで本当の解決の糸口 となるものは、改めてスタートラインを見極めることです。そもそもの出発点に立ち帰り、改めて自分 の行くべき道を再確認することです。山で道に迷ったとき、いちばん危険なのは、確信がないまま進み 続けることだと申します。勇気を出して、なるべく早く、もと来たその道を引き返すことが必要です。 そうすることによって、はじめて活路を見出すことができるのです。私たちの人生行路においては、な おさら、そうした事が求められているのではないでしょうか。  われらの主イエス・キリストは、ゴルゴタの十字架への道を歩み続けたまいます。私たちはこのヨハ ネ伝9章から始まる一連の出来事によって、主イエスの歩みが加速度的に十字架へと向けて速められて 行くのを見るのです。エルサレム神殿の祭司やパリサイ人らとの対立は決定的なものとなり、彼らの敵 意と殺意に満ちた計略が、主イエスを十字架へと追いやって行く、まことに切迫感に溢れた数々の出来 事が、主イエスを幾重にも取り巻いています。そのような中にあって、主イエスは、ご自分の歩みの出 発点へと立ち帰りたもうのです。事柄の帰源を見きわめたもうのです。それが今朝の御言葉、ヨハネ伝 10章40節に記されていることです。すなわち「イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネ が初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた」と記されていることです。  スコットランドの神学者ウィリアム・バークレーはこの10章40節について「それは嵐の中の静けさ のようだ」と語っています。まさに主イエスが帰って行かれる事柄の始めにこそ、限りない平安と慰め、 そして喜びと力がありました。それは何かと申しますと、それは父なる神の御言葉です。主イエスが「ヨ ルダンの向こう側」に「滞在された」のは、パリサイ人らによる迫害を避けるためではなく、まさに彼 らをも含めて、私たち全ての者の罪を担われ、限りない愛と御言葉の主権をもって、罪の支配に立ち向 かわれるためでした。だからこの「滞在された」とは“御言葉と共にあり続けられた”という意味です。 実に主イエスの御生涯の全てが、いつでも、どこでも、父なる神の御言葉と共にあったのです。  それでは、このとき主イエスが立ち帰られた御言葉とは、どのような御言葉であったのでしょうか。 私たちはそれを同じ新約聖書マタイ伝3章16節と17節に見ることができます。それは主イエスがヨル ダン川で洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時のことです。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、 水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ご らんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」。 主イエスは、まことの神のまことの御子です。ニカイア信条に告白されているように「まことの神から のまことの神、御父と同質」なるかたです。だから主イエスは“罪の赦しのための悔改めの洗礼”を、 本当はお受けになる必要はありませんでした。罪なき神の御子に、罪の赦しは不必要だからです。だか ら洗礼者ヨハネ自身「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのとこ ろにおいでになるのですか」(われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反つて我に来り給ふか)と、 主イエスに訊ねたのです。  しかし主イエスはヨハネに言われました。「今は、受けさせてもらいたい。このように、すべての正し いことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(今は許せ、われら斯く正しき事をことごと く為遂ぐるは、当然なり)と。この「われら」とは主イエスと洗礼者ヨハネのことと言うよりも、むしろ 三位一体なる父・御子・御霊の永遠の交わりのことを指しています。つまり主イエスは、私たち全人類 の罪の贖いという測り知れない神の愛の御業をなされるにあたり、まず何よりも、御自分が罪人なる私 たちのもとに来られ、私たちと全く同じ立場に身を置かれることによって、その御業をお始めになった のです。それが、主イエスの洗礼の出来事なのです。それこそ、三位一体なる神の永遠の御心に「ふさ わしいこと」だと言われたのです。  ですからキェルケゴールという哲学者は「神が御子イエス・キリストにおいて人となられた。もし我々 がこの出来事に驚かないのなら、この世界に驚くべきことは何一つないであろう」と申しています。永 遠にして聖なる神が、罪人にして死すべき私たちと同じ立場になられた。この出来事こそ私たちが真に 驚くべき出来事なのです。そしてニカイア信条制定の立役者であるアタナシウスは「この受肉の出来事 こそ、この世界の救いの根拠である」と語りました。神が人となられた出来事それ自体が、私たちの「救 い」そのものであると言うのです。毎年、キリスト御降誕を記念するクリスマスが全世界の教会で祝わ れるのは、あのベツレヘムの飼葉桶に生れたもうた幼子イエスに、全世界の人々の救いがあることを知 るゆえにであります。  この出来事を使徒パウロは、ピリピ書2章6節以下にこのように告げています。「キリストは、神の かたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうし て僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るま で、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。これは初代教会の讃美歌の一節であったと言われて いる御言葉です。私たちは人間でありながら、おのれを富ませようと欲して、神にまで自分をのし上げ ようとする者です。それが私たちの罪の本質です。ところが、まことの神は、私たちの罪を赦し、贖い、 新たな生命に導くために、神であられる本質にさえ固守なさらず、かえって「おのれをむなしうして僕 のかたちをとり、人間の姿になられた」たのです。それがイエス・キリストのお姿なのです。  かつて折口信夫という国文学・民俗学の碩学がおりました。釈超空という名で歌人としても有名な人 です。民俗学の分野では柳田国男と並び称される学者です。折口信夫には弟子であり一人息子でもあっ た後継者がいました。ところが、この一人息子であるお弟子さんが太平洋戦争で戦死するのです。その 戦死の報せが折口信夫のもとに届いたとき、彼は箱根の山中に籠もってそこで一つの歌を詠みました。 その時の歌がずいぶん後になって、折口信夫が亡くなったあとに、弟子たちの手によって書斎から発見 されました。それはこのような歌です。「人間を深く愛する神ありてもし物言わば吾のごとけむ」。意味 はこうです。もしもこの世界に、真実に人間を愛する神がおられるなら、そしてその神が言葉を語られ るなら、いまの自分のように言葉を語られるにちがいない。その「いまの自分のように」とは何かと申 しますと、最愛のかけがえのない独子を失った父親のようにということです。折口信夫という人は民俗 学の権威ですから、日本の神々については古事記や万葉集の時代から仏教や神道に至るまで知り尽くし ています。しかし、この日本の八百万のどの神といえども、最愛のわが子を失った親の悲しみに共鳴し てくれるものは一つもない。人を真実に愛する神はいない。そのように折口信夫は言うのです。折口信 夫は洗礼こそ受けませんでしたが、晩年はずいぶんキリスト教に傾倒したようです。その問題意識の奥 底にはいま申したような、日本古来の宗教と神々に対する批判があったのだと思います。  まさに、主イエス・キリストの父なる神こそ、その愛する独り子であるイエス・キリストをこの世界 にお与えになり、その十字架の死によって私たち全ての者の罪を贖って下さった唯一の救い主なのです。 真に人を愛したもう神は、その限りない愛のゆえに、最愛の独子を死なしめたもうたかた(われらにお与 えになったかた)なのです。神の外に出てしまった私たちを救うために、神みずから神の外に出て下さっ た。罪人なる私たちを贖うために、神みずから神ではないものになって下さった。それがキリストの御 降誕と十字架の出来事です。まさにキェルケゴールが言うように「この出来事に驚かなければ、この世 界に何一つ驚くべきことはない」ほどの恵みの出来事なのです。それを私たちはイエス・キリストにお いて知らしめられているのです。  ヨルダン川において、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった主イエスに対して「天が開け」そして 「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり)と 父なる神の御声が響きました。この世界の救いのために、私たちの罪の贖いのために、最愛の独子を世 にお与えになった父なる神の愛に、罪人と同じ洗礼を受けることによってお応えになった主イエス。ま さにそこからゴルゴタの十字架への歩みをお始めになった主イエスを、父なる神みずから「これは我が 愛しむ子、わが悦ぶ者なり」と祝福なさったのです。まさにこの父なる神の祝福の御言葉のもとに、主 イエスは立ち帰られました。それが今朝の御言葉なのです。  それは何のためでしょうか?。それは私たちをも、その同じ祝福のもとに新たに生きる者として下さ るためです。父なる神は私たちのあらゆる罪咎にもかかわらず、まさに「十字架の死に至るまで」従順 であられることを決意せられた主イエスによって、その主イエスの御功と恵みによって、私たちをその あるがままに神の「愛する子、その心にかなう者」として下さるのです。ただ私たちのために、私たち の全ての罪を担われ、十字架を担って下さった主イエスの御業によって、まぎれもないこの私たちが、 父なる神の限りない愛と主権のもとを歩む新しい人生を与えられているのです。そこに私たちの本当の 幸いがあり、平安があり、慰めと喜び、そして力があるのです。  たとえ私たちがどのような境遇にある時にも、私たちは今朝の御言葉に告げられている、主イエスの 立ち帰られたその場所に立ち帰ることによって、神の無限の愛と御言葉のもとに立ち帰ることによって、 人生の正しい行路を見いだすことができるのです。十字架の主と神の御言葉にこそ、私たちの本当の生 命が(人生が)あるのです。そしてそれは、キリストの御身体なる教会です。礼拝者として生きる新しい 生活です。私たちにも「ヨルダンの向こう岸」が与えられているのです。それが主の教会です。キリス トの復活の勝利の御身体なる教会に連なり、御言葉を聴きつつ礼拝者として生きる人生こそ、不断の勇 気と希望、慰めと平安を、主の御手から受けつつ生きる新しい生活です。  だからこそ、今朝の41節にはこうも告げられています。「多くの人々がイエスのところにきて、互い に言った、『ヨハネはなんのしるしも行なわなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほ んとうであった』。そして、そこでは多くの者がイエスを信じた」。主イエス・キリストを信じ、ただ主 のみを見上げて、新しい一週間の日々を、歩んで参りましょう。パリサイ人らの敵意と殺意をすら超え て、人々に主イエスを「神の子・キリスト」と信ずるまことの信仰を与えたもうた「おのれをむなしう された」十字架の主を仰ぎ、私たちもいま「多くの者がイエスを信じた」その群れに連なって歩み、父 なる神から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との大いなる祝福を与えられて いるのです。