説    教  イザヤ書40章6〜8節  ルカ福音書10章38〜42節

「無くてはならぬ唯ひとつのもの」

2016・01・24  千歳教会牧師 山本昭夫 ◎ はじめに  本日の新約聖書、ルカによる福音書10章38−42節の箇所は「マルタとマリア」 の箇所です。教会の皆様には良くご存じの箇所であろうと思います。マルタとマリアは 姉妹です。ヨハネによる福音書11章にもマルタとマリアの他にラザロという弟が記さ れています。ですから3人兄弟であったということになります。  それでは本日の箇所から御言葉を聴いてまいります。 ◎ マルタとマリア  ルカによる福音書9章には主イエスがエルサレムという町へ向かって旅をお始めにな ったことが記されています。「9:51 イエスはが天に上げられる日が近づいたので、エルサ レムへ行こうと決心して…」その旅の途中で主イエスは「ある村へはいられた」のです。 「するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた」のです。主イエスの旅は12人 の弟子たちとの旅でした。しかし主イエスお一人が村へお入りになったのです。  主イエスが「村へはいられた」、マルタが主イエスを「家に迎え入れた」はどちらも 一度限りの継続を表す文法で記されています。それが意味するのは、主イエスとマルタ とマリアの出会いは一期一会ではないということです。つまりこれから後一期、つまり 一生の間に主イエスとマルタとマリアは別れることはないのです。常に主イエスがマル タとマリアと共にいてくださる。またマルタとマリアは主イエスから離れないそういう 関係になって行くのです。  それはマルタとマリアだけの話ではありません。主イエスを迎え入れる者は誰でも主 イエスが共にいてくだる生き方、主イエスから離れない生き方を始めて行くことになる のです。 ◎ 話に聞き入るマリア  家に迎え入れられた主イエスはマリアに話始められます。マリアはその話に聞き入っ ています。主イエスは家に迎え入れられたら他にもいろいろなことをマルタとマリアと なさったのではないでしょうか。しかしルカによる福音書には、マリアが主イエスの足 元に座って主イエスの言葉を聞いていたことのみが記されています。何故この場面だけ が記されているのでしょうか。  本日の箇所の前には善いサマリア人のことが記されています。ある律法の専門家に主 イエスが善いサマリア人の譬え話をされたのです。  この律法の専門家は、主イエスを試そうとして(エクペイラゾー)「永遠の命」につ いて主イエスに何故尋ねたのです。この「試す」は荒野で悪魔が主イエスを誘惑したの と同じ言葉です。つまりこの律法の専門家は全く主イエスが永遠の命を恵みとして誰に でもお与えになる権能をお持ちの方であることを信じていないのです。主イエスがこの 恵みについて語っても聞く耳を持たないのです。   そのような律法の専門家と真逆な人が今日の聖書に出てきます。それがマリアです。  「10:39 この女にマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、御言葉に聞き入って いた。」  主イエスの足もとに「座る」(パラカセゾーマイ)は、[傍らに座る]という意味が ある言葉であり、新約聖書の中でここのみに使われている言葉です。マリアが主イエス の足の傍らに座ったのは特別なことだったのでしょう。聖書の中でマリアほど御言葉を 聴くために主イエスの足もと近くに座る人はいなかったのかも知れません。そのような 御言葉に聴くマリアをこの「座る」という言葉は表しているのではないでしょうか。  マリアは「御言葉に聞き入っていた」のです。「聞き入る」(アクーオー)が未完了形 です。つまり主イエスはマリアに語られている、マリアはその主イエスの御言葉を熱心 に聴いているのです。まだ話は終わっていません。  主イエスが何を話されているのかは分かりません。記されていません。しかし、たわ いのない世間話をされている訳ではありません。もしそうでしたらマリアが主イエスの 足もとに座って、主イエスの足に触れる程の近さで御言葉に聞き入ることなどあり得ま せん。  主イエスは何を話されていたのでしょうか。それは永遠の命についての話であった筈 です。私たち人間の命は聖書の唯一真の神によって与えられた神の恵みです。そしてこ の命は地上で終わるのではありません。私たちは神の国、天国で永遠に生きるのです。 しかし自動的に私たち人間が神の国で永遠に生きる訳ではありません。    私たち人間には罪があります。神に造られた最初の人間であるアダムとエバが神に犯 した罪(神のご命令に背いた罪)を私たち人間は持っているのです。何故なら私たち人 間はアダムとエバの末裔だからです。  私たち人間の内にある罪は様々なところに現れて来ます。相手への憎しみ、恨み、妬 み、軽蔑、差別など。それは自分の心の中だけに留めることが出来ずに外に出てしまう ことがあります。それは相手への攻撃になります。神に造られた者同士なのに神がお喜 びにならない言葉を吐き、暴力を振るうのです。今日、犯罪が起こらない日などありま せん。また世界中で武力による争いがあり多くの人が命を失っています。  罪を持っている私たち人間を救う為に主イエスはクリスマスの夜においでになられま した。主イエスは既に9・21以下でご自分の十字架の死を予告されています。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺さ れ、そして三日目によみがえる。」…9:23「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨 て、日々自分自身の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」  マリアは主イエスの足もとに座って「自分自身の十字架を負うて、わたしに従ってきな さい」との御言葉を聴いていたに違いありません。理解しようと熱心に聞き入っていた のです。 ◎ 奉仕するマルタ  マルタはどうしていたでしょうか。彼女は「接待のことで忙しくして心をとりみだし」 ていたのです。「接待のことで」は「多くの奉仕(ディアコニア)」です。具体的には 主イエスへの食事の世話等です。「心をとりみだし」(ペリスパオー)は未完了形です。 先ほどマリアが主イエスの話に聞き入っていた(未完了)と同じくマルタは主イエスへ の食事の奉仕が終わらずに動き回っていたのです。ペリスパオーという言葉には[引き 離す、剥ぎ取る]の意味があります。マルタはこの日、いろいろする予定があったこと でしょう。突然の主イエスの訪問にマルタは嫌な顔をすることなく、自分の予定を剥ぎ 取るようにして喜んで主イエスへの食事の世話をしているのです。  そのマルタが主イエスに言います。  「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、何ともお思いになりませんか。わた しの手伝いをするように妹におっしゃってください。」  「わたしだけに接待させているのを」は「わたしだけが奉仕することをそのままにして いる(放っておく、顧みない)」です。マリアがマルタに奉仕をさせていると言うので はなく、マルタが忙しくしているのを放っているのです。手伝おうとしないのです。  マルタは喜んで食事などの奉仕をしています。マリアが手伝わないことを不磨に思っ ていると言うよりも、主イエスへの奉仕は主イエスの話を聞くことよりも食事等のお世 話であると思っているのです。それ故にマルタはマリアに食事の奉仕に参加させたいの です。主イエスも本当はマルタの奉仕を喜んで下さっていると思い込んでいるのです。 それ故にマルタはマリアに直接言わずに主イエスに「何ともお思いになりませんか。手伝 ってくれるようにおっしゃってください」と言います。  「何ともお思いになりませんか」(メロー)には[気に掛かる、関心事である]という 意味があります。主イエスもマリアが食事の奉仕をしないことを気になさっておられる でしょう、とマルタは聞いているのです。 ◎ 無くてはならぬものは唯一つ  しかし、主イエスの返事はマルタには意外なものでした。主イエスは言われます。 「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。10:42 し かし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリアはその良い方を選 んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」  主イエスは「マルタよ、マルタよ」とくり返しておられます。これはマルタへの愛情の 表れです。主イエスのマルタへの返事は叱責ではありません。愛情溢れる返事です。主 イエスはマルタが傷つかないように心を配っておられます。  主イエスはマルタが一生懸命に食事の奉仕することで「心を配って思いわずらっている」 と言われます。心を配る(メリムナオー現在形)はマタイによる福音書6章の「山上の 説教」で主イエスが言われています。  「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようとか と自分のからだのことで思いわずらうな。」  人は食べ物や飲み物で思い悩むけれどもそれら以上に大切なものがあるのです。マル タの主イエスへの食事の奉仕を主イエスは否定されません。もしマルタが主イエスに「わ たしの手伝いをするように妹におっしゃってください」とお願いしなければ主イエスはマ ルタに何も言われなかったでしょう。しかしマルタが言ったので主イエスは奉仕につい て言わねばなりませんでした。マルタの考える主イエスへの奉仕は食事のお世話をする ことです。しかしマリアの考える主イエスへの奉仕は御言葉に聴くことでした。どれだ けマリアが意識を持っていたかは分かりませんが、結果的にはマリアの奉仕の方が主イ エスに喜ばれる奉仕であったのです。  しかしマリアの奉仕は難しいと思います。主イエスの足もとに座って御言葉を聴くこ とだけで料理の知識や腕前は要りません。しかし、難しいのです。例えば私たちの家を 主イエスが突然訪問されたとします。私たちは主イエスにご馳走を召し上がって頂こう と思うのではないでしょうか。主イエスがお話をされ始めたら何もせずに足もとで聞き 入ることができるでしょうか。しかし主イエスの御言葉に聞き入ることが主イエスへの 最上のもてなし、奉仕なのです。   主イエスは「無くてはならぬものは…一つだけである」と言われます。「無くて名ならぬ もの」(クレイア)には[必須、欠乏]の意味があります。主イエスは私たち人間に必 須なものが1つある。それがなければその他のものをどんなに豊かに持っていても致命 的な不足、欠乏なのだと言われます。  私たち人間に必須なもの、欠乏してはならないものは、神の御言葉です。私たち人間 の罪を赦し永遠の命を約束してくださった神の恵みの御言葉です。それは私たち人間へ の神の愛の御言葉です。  その神の恵みの御言葉、愛の御言葉を主イエスは十字架によって成就されました。「父 よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ル カによる福音書23・34)この私たち人間への罪の赦しの御言葉は、本日の旧約聖書 イザヤ書40章に「草は枯れ、花はしぼむ。/しかし、我々の神の言葉はとこしえに変わ ることはない」と記されているように私たち人間への永遠に変わることのない神の御言葉 です。 その御言葉に聴く奉仕こそが主イエスが喜ばれる主イエスへの奉仕なのです。私たちは パンだけで生きるのではないのです。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのです。 御言葉を聴いて人生を生きるのです。赦しの御言葉、慰めの御言葉、勇気の御言葉、そ して神の国での永遠の命の御言葉を教会の礼拝で聴いて人生を生きて行くのです。  主イエスによって教会に招かれて来た時から私たちは主イエスとの別れのない永遠の 交わりの中に入れられています。御言葉を聴く奉仕をして父なる神への信仰、十字架と 復活の主イエスが救い主との信仰を与えられて洗礼を受けて行くのです。そして御言葉 に聴く奉仕をしつつ、御言葉を伝える奉仕(伝道)、教会員への奉仕(執事)もして行 きます。