説    教    創世記1章26〜31節  第一テモテ書4章4〜5節

「地に満つる平安」

2016・01・17(説教16031626)  死者15,891名、行方不明者2,584名を出した東日本大震災からもうすぐ5年が経とうとしています。 199,000名がいまもなお被災地各地に設けられた仮設住宅において不自由な生活を強いられています。 あの日のことを私たちは決して忘れることはできません。そのような被災地のある小さな教会に、震災 の当日に神学校を卒業し、一週間後に赴任した若い伝道師がいました。その先生が赴任して最初に教会 員から言われたことは「先生、私たちに神の御言葉を下さい」というものでした。この言葉にその若き 伝道師の心は奮い立ったのです。「私たちに神の御言葉を下さい」。震災後の瓦礫の山の中で、生々しい 津波の傷跡の中で、人々がまず求めたものは永遠なる神の言葉でした。ただそこにのみ人間の救いがあ るからです。東日本大震災を通して人々が真に求めたもの、それは形だけの復興でもなければ不自由な 生活の改善でもなかった、それは神の言葉、人間の「救い」でした。そのことを私たちは決して忘れて はならないのです。  あの大震災の直後、福島第一原発の事故が起こったとき、被災地の人々は当時の総理大臣の口から信 じられない言葉を聞きました。それは「東京は安全です」という言葉でした。その心無い言葉を聞いて、 被災地の人々がどんなに大きな悲しみと怒りと絶望感を抱いたか、それも記憶すべきであろうと思いま す。私たちは本当にパスカルが語るように「中間者」にすぎないのです。人間は自然を克服し支配する 大きな力を持っているように見えますが、実はその科学技術の集積であるはずの原子力発電所が、自然 の猛威の前に驚くほど弱いことが露呈しました。人為的錯誤(ヒューマン・エラー)の問題もあります。 地球温暖化の問題もあります。ISに代表される国際テロリズムの問題もあります。ヨーロッパを覆う大 量難民の問題もあります。そこで私たちは行くべき道を見失うのです。人類の進歩発展は幻想に過ぎな かったのか?。いま人間は(この世界は)大きな「不確かさ」と「不安」の中に立つ「中間者」であるこ とを自覚せしめられているのではないでしょうか。  その中で、いまこの世界が(人類が)痛切に求めているもの、それは人間を本当に救う神の言葉なので す。まやかしの慰めや一時的な援助ではなく、中間者であることの「不確かさ」と「不安」からの「救 い」をこそ、現代のこの世界は求めているのではないでしょうか。言い換えるなら、現代世界は根本的 な“不安からの真の解放”を求めているのです。現代世界が求めているものは「物質」ではなく「心の 支え」であり、「教訓」ではなく「救い」であり、「一時的な慰め」ではなく「生ける神の言葉」なのです。  その意味で今朝、私たちに与えられた創世記1章26節以下は、まさに現代世界に対して「心の支え」 と「救い」と「生ける神の言葉」を鮮やかに示しているものです。そこで、ここでこそ私たちはひとつ の問いを持ちます。私たちは日ごろ27節にある「神は自分のかたちに人を創造された」という言葉を どのように読んでいるかということです。そして同時に28節に告げられた「生めよ、ふえよ、地に満 ちよ」という主なる神の祝福の言葉をどのように受け取っているのかということです。と申しますのは、 ここで私たちは「この御言葉ほど現代の私たちの状況から遠いものはない」と感じるかもしれないから です。もしこの28節が初詣祈願のような「家内安全」「商売繁盛」「大願成就」の約束であるなら、私 たちはむしろ納得するでしょう。しかし聖書の言葉は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」です。私たちは 「主よ、今はそんな時代ではありません」と反論したくなるかもしれない。むしろ現代は「少子高齢化」 の時代です。未来を担う子供の数はいよいよ少なく、社会全体が高齢化している現状があります。何よ りも、子供の誕生を昔のように手放しで喜び祝うことのできない雰囲気が蔓延しつつあるのではないで しょうか。ひと口で言うなら現代は「子育ての難しい時代」なのです。教育ひとつを挙げてもそうです。 私の頃は大学の学費は本当に安かった。もし現代なら私は大学教育を諦めざるを得なかったと思います。 勤労の担い手である成人人口の高齢化とともに年金保障の問題も解決されていません。そうした数々の 「不安」を前提とした上で、しかも今朝の創世記1章28節が語っている祝福は、そのような現代社会 の現実の諸問題を無視した(空気を読まない)言葉などではないのです。  いちばん大切なポイントは「神は自分のかたちに人を創造された」という27節の言葉にあります。 そもそも創世記が書かれた紀元前6世紀中頃は「バビロン捕囚」という未曾有の悲劇がイスラエル民族 を襲った時代でした。新興国バビロニアの圧倒的な軍事力の前に、ひとつの国民、ひとつの国家が、地 球上から(歴史から)抹殺された出来事でした。徹底的な破壊と殺戮と存在否定の破局的状況の中で、こ の創世記の祝福は全ての人に告げられたのです。ヤスパースという哲学者は、創世記が書かれた紀元前 6世紀を「人類史における軸の時代」と呼んでいます。この苦難の時代に、のちのヨーロッパ文明を形 成し、また人類の歴史全体を導くあらゆる“真実なるもの”が輝き現れたとヤスパースは言うのです。 人類の歴史はこの紀元前6世紀を「軸」として動いているのだと語っているのです。それは言い換える なら、今朝の創世記1章28節の御言葉こそが、この現代世界の「不確かさ」と「不安」を変革する唯 一の「軸」(すなわち「救い」)であるということです。それは現実には、イスラエルが戦争に敗れ、国 家が滅び、国民は奴隷となり、虐殺され、都は瓦礫の山となった時代でした。神殿は焼かれ、体制は崩 壊し、あらゆる価値観が否定され、ひとつの世界が破局を迎えたのです。その時代にこそ創世記は「生 ける神の言葉」として書き記されたのです。  だから創世記は、ただ単に「豊穣と子孫繁栄の約束」を私たちに与えているものではありません。「聖 書はこう語るが、現実はそうはゆかない」という建前論を語るものではないのです。そうではなく、現実 の世界が虚無と破壊に瀕し、人間がその生存を徹底的に否定され、絶望と虚無が地を支配している、そ のような暗黒のただ中にあって、なおそこでこそ「はじめに神は、天と地を創造された」と高らかに信 仰を告白しているのが創世記なのです。そこにこの世界の本質があるのだと宣べ伝えているのです。こ の世界は神の創造された、神の愛したもう「かけがえのない世界」である。そこに存在する私たち一人 びとりもまた、神が常に御心にとめて下さる「かけがえのない汝」であるということ。そしれゆえこの 世界は無目的無意味に存在するものではなく、人間が生み出すいかなる暗黒をも、すでに神が支配して おられ、神の聖なる永遠の愛の御心が成就する世界であるということ、それを創世記は全人類に宣言し ているのです。  ですから創世記は(聖書は)人間の虚無の現実から私たちの目を逸らせるものではなく、むしろ「永 遠と歴史の切点」において根源的に人間の虚無の現実に深く関わり、私たちの罪の現実を打ち破る世界 の確かな未来と、神の祝福の確かさを告げているのです。私たちは全て「神のかたちに創造された存在 である」この事実にまさる祝福はないのです。この「かたち」とは見える形(フィギュア)のことでは なく、目に見えない人間の本質(魂)のことです。つまり私たちは神の極みなき愛を受け、神の言葉に 応え、神の祝福によって日々の生活へと新たに遣わされている存在であるということ。それはどのよう な虚無的状況においても、どのような不安の時代においても、決して変わることのない“存在への勇気 と希望”を私たちに与えるのです。私たちは主なる神によって日々「かけがえのない汝」として生活の 場に遣わされている存在なのです。  ここに明確に示されている新しい生活は「御言葉」と「祈り」と「礼拝」です。私たちは「生ける神 の言葉」(聖書)によってこそ、人生において最も大切な、生きる目的と確かな指針(方向)を示されます。 また「祈りの生活」においてこそ、真の神との永遠の交わりを確かなものにさせられます。そして礼拝 を重んじることによってこそ、罪と死に打ち勝ちたもうたイエス・キリストの復活の生命に連なる者と されるのです。私たちの存在は主なる神の永遠の愛の御意思に基づくものです。英語の聖書では今朝の 27節の最初は Let us make… となっています。この「us」とは三位一体なる神ご自身です。私たちの 存在は、父・御子・聖霊なる三位一体の永遠の神との交わりにおいてのみ、あらゆる「不安」を超える 「真の平安」に満たされたものになるのです。「恐れるなかれ、われ永遠に汝と共にあり」。イエス・キ リストにおいて神は私たちの罪を贖って下さった、この「インマヌエルの神」こそ「真の平安」を世界 に与える唯一の福音なのです。  それゆえ今朝の御言葉は、私たちを十字架の主イエス・キリストの測り知れない恵みへと導きます。 「罪」とは私たちが「神のかたち」に造られた喜びと幸いを失うことです。「その喜びと幸いを忘れるこ と」だと言っても良いでしょう。私たちは自分が神の言葉に応えつつ生きる者であることを忘れるとき、 罪の支配を受けるほかはないからです。しかしそのような私たちのために、神の永遠の御子イエス・キ リストが私たちの「罪」の全てを背負って十字架にかかって死んで下さった。主が滅びとしての呪いの 死をことごとくご自身に引き受けて下さった。その御子イエスの死によって私たちは教会に連なる者と され、罪によって失っていた「神のかたち」を回復させて戴き、勇気と希望をもってキリストと共に、 キリストの愛の内を歩む者とされてゆくのです。そのキリストの贖いの内にこそ、あらゆる時代におい て私たち「中間者」が人間として、神の被造物として、神の造られたこの世界において、健やかに真の 自由と喜びと感謝をもって生き、そしてあらゆる困難に対処して正しい道を選びとる唯一の道があるの です。そこにあらゆる「不安の世紀」は終りを告げ、キリストにある揺るがぬ希望をもって私たちは生 きる者とされているのです。  東日本大震災の津波によって瓦礫の山となった東北の海沿いの町々、あの中心に立って(どうか想像し てみて下さい)私たちキリスト者だけが本当の慰めと希望を語りうるのではないでしょうか。「始めに神、 天と地とを創造したまえり」と…。神が祝福して下さった「始め」がここにある。この廃墟の中にも、 否、この廃墟の中にこそ主が共に立っていて下さる。この廃墟の中にこそ私たちの揺るがぬ希望がある。 あの津波の犠牲となった夥しい人々、その人々のためにも、永遠の平安と祝福を祈る教会に私たちは連 なっているのです。そこに世界が進むべき正しい道が、生命の祝福の道が示されているのです。この廃 墟の向こう側にしか見出せない祝福が、この国に、そして世界に与えられている。そのことを今朝の創 世記1章の御言葉は鮮やかに示しているのです。  そして、忘れてはなりません。今朝の1章28節の続きにはこうありました。「生めよ、ふえよ、地に 満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。どうか心に留 めましょう。この「治めよ」とは「あなたの思うままに支配せよ」という意味ではなく「神の言葉によ って忠実に管理せよ」という意味です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして汝の主なる神を愛 せよ。また己のごとく隣人を愛せよ」という意味です。宇宙と世界万物の唯一の主なる神のみが永遠の 「主」であられます。私たちはこの「主なる神」の御心に叛く「管理」をしてはならないのです。神の 御心に忠実な管理者となるなら、私たちはおのずから全ての生きるものを大切にし、人間を大切にし、 人間の社会を大切にし、己のごとく隣人を愛する道を歩む者とされるのです。  原発の事故のあと「安全神話の崩壊」という記事をよく目にしました。しかしもともと安全は「神話」 の上に成り立つものではありません。本当の「安全」は神の御言葉に従う自由と謙遜と勇気の中でこそ 確立するのです。平和はなおさらです。いまこそ私たちのこの国がそのような歩みをする国家へと勇気 を持って進むことができるように、私たちはそれぞれの持場において真の神を証し、礼拝を重んじ、聖 書に日々親しみ、祈りを厚くする一年を送って参りたいと思います。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」。 なによりも神みずから、主イエス・キリストによって生命の祝福を全世界に満たして下さったのです。 歴史の主なる神は必ずこの国を祝福し、世界を救い、平和を実現させて下さるのです。