説    教   詩篇119篇129〜131節 ヨハネ福音書10章19〜21節

「御言葉の顕現」

2016・01・10(説教16021625)  宗教はみなすべて平和を求めるもの、平和を実現するものであると言われます。誰もそのことに異議 をはさむ人はいないでしょう。この世界に平和をもたらさない宗教は、偽りの宗教であり誤った教えで あると考えられます。信ずるに価しないものであるとさえ言えるのです。ところが聖書の御言葉をよく 読んで参りますとき、主イエス・キリストを取巻く人々の間には、必ずしもこの平和が実現していない、 という現実を見るのです。主イエス・キリストの周囲には、必ずしも平和な光景ばかりが繰広げられて いたのではないのです。これは、どういうことなのでしょうか。ここに少なからぬ戸惑いを感じる人も あるのではないでしょうか。たとえば、今朝のヨハネ伝10章19節以下などはその代表的な一例です。 ここには「これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた」と記されているのです。 主イエスが語られた言葉によって、それを聴いたユダヤの人々の間に「またも分争が生じた」というの です。ここに「またも」とあるからには、これ以前にも同じような分争があったのです。  しかも続く20節を見ますと、その分争はかなり深刻なものであったことがわかります。と申します のは、ここには対立する二つのグループの姿があるからです。一方の人々は、主イエスのことを「悪霊」 に取り憑かれた者だと口をきわめて非難しています。この「悪霊」とは「悪魔」と同じ意味の、たいへ ん強い誹謗中傷の言葉です。しかしその一方で、いやそうではない、主イエスは神から遣わされたかた だと考えていた人々がありました。この二つのグループが、互いに一歩も譲らず分争を繰りひろげてい たのです。すなわち20節「『彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその 言うことを聞くのか』。他の人々は言った、『それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人 の目をあけることができようか』」。  ところで、このような深刻な分争が生じたきっかけは、ほかならぬ主イエスの御言葉でした。それは 主イエスが、神をご自分の「父」とお呼びになり、その父なる神の御心のままに、ご自分の生命を「捨 てるため」にこの世に来られたのだということを明らかになさったことです。同じ10章の17節以下の 御言葉です。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、 それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそ れを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたし の父から授かった定めである」。  ここに明らかなことは二つの事柄です。第一に、父なる神はその独子なる主イエスを十字架にかけた もうほどに私たちを愛しておられるかたであるということ。第二に、主イエスはその父なる神の愛の御 心のままに、ご自分の意志で十字架への道を歩まれるキリストであるという事実です。私たちを極みま でも愛したもう父なる神と、その父なる神の愛の御心をご自分の御心となさって、私たちのために罪の 贖いの道(十字架への道)を歩まれる主イエス。ここに私たちは、限りない神の救いの出来事を改めて 知らされるのです。  ところが、その救いの御心を告げ知らされた人々は、事もあろうに、そこで烈しい対立をなし分争を 始めるのです。それはちょうど、眩しい光に照らされた物体が暗い影の部分を顕わにするのに似ていま す。神の言葉の光輝に照らされるとき、私たち人間の隠れた影の部分をも顕わになるからです。言い換 えるなら、御言葉によって人間の本当の姿が明らかになるのです。正体が白日のもとに晒されるのです。 それゆえにこそ、主イエスは「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、 つるぎを投げ込むためにきたのである」と言われました。マタイ伝10章34節の言葉です。これは、大 きな謎(逆説)のように私たちには聴こえます。「つるぎ」と主イエスの福音とは、どう考えても調和し ないように思われるからです。しかし主イエスは、あえて「つるぎ」という烈しい言葉をお用いになり ました。それを世に「投げ込むため」に来たのだと言われたのです。これはどういう意味なのでしょう か。  この謎を解く鍵として、ぜひ私たちが注目すべき御言葉はヘブル書4章12節以下です。「…というの は、神の言葉は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを 切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あ らわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのであ る」。つまり、主イエスが言われる「つるぎ」とは神の言葉のことなのです。福音の真理のことなのです。 その御言葉の「つるぎ」はどのような鋭利な「もろ刃のつるぎよりも鋭く…(私たちの)精神と霊魂… 心の思いと志とを見分ける」のです。神の言葉の「つるぎ」の前に、隠されて顕わにされないものは一 つも存在しないのです。それがヘブル書の言う「(御言葉のつるぎの前に)あらわでない被造物は一つも ない」ということです。  そして、実はこのヘブル書4章12節以下の御言葉は、その少し前の7節の大切な言葉を解き明かす 音信として告げられています。その大切な御言葉とは「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、 かたくなにしてはいけない」という主の御招きの言葉です。これは旧約聖書・詩篇95篇7節の引用で す。それならば、この御言葉を今朝の御言葉と合わせて、このように読み解くことができるのではない でしょうか。それは「きょう、御言葉のつるぎを、主イエス・キリストによって投げこんで戴いたなら、 あなたの心を、もはや頑なにする必要はないのだ!」という恵みの宣言であります。主イエスは神の言 葉の「つるぎ」をこそ、私たちのただ中に投げこんで下さるかたです。この「つるぎ」によらなければ、 私たちは決して、真の意味で人間たりえない存在だからです。この「つるぎ」によって「精神と霊魂」 を刺し貫かれなければ、私たちは自らの罪の内に滅びてしまうほかない存在なのです。そのような意味 で、まさに主イエスがこの世界に投げこまれた神の言葉の「つるぎ」のみが、私たちを罪と死の支配か ら解き放ち、真の自由と幸いを与える、生命をもたらす「つるぎ」なのです。  「真剣勝負」という言葉があります。真剣、すなわち抜き身の「つるぎ」を前にして、まどろんだり 眠ったりする人はいません。「つるぎ」は私たちの鈍い、眠っていた魂を呼び覚まし、新たな心に目覚め させるものです。私たちはそれこそ、神の言葉の「つるぎ」の前でこそ、そのような目覚めた者であり 続けているか否かをいつも問われているのです。私たちはむしろ、神の言葉を「つるぎ」とも思わず、 あのゲツセマネの弟子たちがそうであったように、祈るキリストを尻目に眠っていることはないでしょ うか。御言葉を聴く耳が、御言葉を御言葉とも思わぬ、頑なな耳になっていることはないでしょうか。 「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。この御言葉こそは「き ょう、御言葉のつるぎを、主イエス・キリストによって投げこんで戴いたなら、あなたの心を、もはや 頑なにする必要はないのだ!」という恵みの宣言(神の御招き)なのです。言い換えるなら、私たちの心、 私たちの魂、私たちの生活は、神の言葉を正しく聴くことなしには、常に「かたくな」であるほかはな いのです。「かたくな」な心は一見、強そうに見えるのです。しかし実は、堅くなった心ほど脆く弱いも のはありません。まさしくその「かたくな」な心が、主イエスを「悪霊」に憑かれた者と呼ばしめたの です。しかし、まさにその頑なな心の私たちか、主の御声を正しく聴くことによって目覚めるのです。 砕かれて新しいものにされるのです。キリストの復活の生命を戴いた生活へと変えられてゆくのです。  使徒パウロは、キリストの弟子となる以前はパリサイ人でした。しかも最も優秀な、将来を嘱望され た、大祭司たるべきエリート教育を受けていた人でした。そのパウロは、かつての自分のそうした姿を 顧みて、律法の義については「全く落ち度のない者であった」とピリピ書3章6節で語っています。パ リサイ人であった時のパウロの心と生活は、自分の正しさ、自分の正義、自分の清さ、自分の主義主張 によって、満たされ満足しきったものでした。その結果、その生活は「かたくな」なものとなり、その 魂には全く平安はありませんでした。そのような生活は、はたしてパウロだけのものでしょうか?。そ うではないと思います。私たちこそ、その頑なな脆い心のままで、しかも自分を神の前に「正しい者」 「清い者」と見なそうとすることはないでしょうか。キリストの恵みに拠り頼む生活の幸いを失い、い つでも御言葉の支配の外に、自分の義に拠り頼む生活へと、逆戻りしてしまうのではないでしょうか。 その結果、私たち自身が、果てしのない「分争」に明け暮れる、そのような社会を造ってしまっている のではないでしょうか。  まさに、そのような私たちのために、主イエス・キリストは、「つるぎ」を投げこむ救い主として来臨 して下さいました。今もここに御言葉と聖霊によって現臨しておられ、御言葉の「つるぎ」をもって私 たち一人びとりを、罪と死の縄目から解放して下さるのです。キリストが来られ、私たちと共におられ るところ、そこに私たちの頑なな心は、柔らかな瑞々しい魂に造りかえられ、自分をも他者をも、審く ことのない生活へと生まれ変わらせて戴けるのです。そこに、キリストの平安が満ち溢れます。本当の 平和が、社会を社会たらしめ、人間を人間たらしめる神の義が、キリストの恵みのご支配のもとに顕現 し、明らかになり、私たちの生活を導いてゆくのです。その幸いの歩みへと、私たちはいま招かれてい るのです。