説    教  エレミヤ書23章5〜8節 ヨハネ福音書21章18〜19節

「新年の祝詞」

2016・01・03(説教16011624)  昔から「一年の計は元旦にあり」と申しまして、この新春(正月)は私たちが自らの新しい歩みを思い 定め、決意を新たにする時です。人間の歩みは様々な事柄によって決定されてゆきます。人生を織り成 す縦糸と横糸は複雑に絡み合い、文字どおり「一筋縄ではゆかない」ものです。自分では思いもよらな かった道へと導かれてゆくこともあります。そうした中で私たちは、自分の願いや計画が思うように実 現できた人生こそ“幸福な人生”であり、そうでなかった人生は“不幸な人生”であると、短絡的に思 いこんでいることはないでしょうか。  そういたしますと、私たちの中で“幸福な人生”を歩んでいる者は、おそらく誰一人としていないこ とになるでありましょう。自分の人生を振り返って「思うままに歩んで来られた」という実感を持ちう る人は、おそらく一人もいないはずだからです。むしろ私たちは「こんなはずではなかった」という慙 愧の思いと共に、あるところで妥協して生きているのではないでしょうか。少なくとも「自分の計画は 全て適えられた」と思える人は、たぶん一人もいないはずです。  しかしそれでは、私たちの人生の幸福は、私たちの思いや計画が実現することにあるのかと申します と、そんなに単純なものではないと思います。この世界は神の統治したもう神の世界であり、私たちの 人生は神の聖なる御心が成就する、神の御業の現れる場所であります。私たちは自分の人生の「主」と なることはできません。むしろ、私たちの人生がまことの「主」を必要としているのです。  18世紀フランスの思想家ルソーは「エミール」という本の中で「子供を不幸にする最も確実な方法、 それは子供が欲しがるものを何でも無条件で与えることである」と申しました。もしもこの世界が、私 たちの願いや計画が全て実現することをもって幸福の条件となす世界であるならば、そのような世界は、 人間にとって幸福であるどころか、むしろたいへん恐ろしい、私たちをして滅びへと向かわしめる、虚 無的な世界であると申さねばなりません。  そうではなく、この世界は、私たちを限りなく愛し、私たちの救いのためにその独子をさえ惜しみな く賜わったほど世を愛して下さった「主」が統治しておられる神の御心の成就する世界なのです。神が 私たちのために崇高な目的をもって創造された世界なのですから、そこにはおのずから、神が私たちに 見出させんとしておられる、そこに私たちを導いておいでになる、本当の人生の幸福(人間が真に人間 たりうる幸いの道)があるはずであります。  主イエスによって再度の召命を与えられたペテロは、主イエスの御手によって新しい使徒としての生 涯へと送り出されてゆきます。それが今朝のヨハネ伝21章18節に記されている場面です。そのペテロ に主は言われました。「よく、よく、あなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、 思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、 ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くであろう」。  この御言葉は一見しますところ、ペテロが若かった時には自分のしたい放題・自由に歩んでいたけれ ども、これからの人生はそうはゆかない。あなたは年老いてからは自分のしたいことは何もできず、無 理やり「行きたくない所」に引き回されるであろう、そういう不自由を強いられる人生を主イエスが予 告しておられるように見えるのです。しかし、そうなのでしょうか?。そういう否定的なことを主はお 語りになったのでしょうか?。  使徒パウロは「神は耐えられない苦難に私たちを遭わせ給わない」と語りました。このことは逆に申 しますなら、神は私たちが耐えられる苦難のみを私たちにお与えになる、ということです。つまり「わ れなし得るゆえになすべきなり」ではなく、哲学者カントが言うように「われなすべきゆえになし得る なり」ということが真の歴史形成の道であります。すなわち、私たちの人生は偶然自然にそこに「ある」 というものではなく、尊い目的を持ったかた(主なる神)が導いておられる「賜物」であるという事実 が大切なのです。私たちは「賜物としての人生」へと絶えず招かれ、主に召されている「かけがえのな い汝」なのです。これが大切なことです。  奈良の法隆寺や薬師寺の大改修工事に携わり、宮大工として最後の技術者と言われた名物棟梁がおり ました。この人が「木に学ぶ」という本の中でこういうことを語っています。宮大工の仕事の中でいち ばん難しいのは、弟子を(後継者を)育てることである。弟子を育てるということは、叱り上手になる ということだ。生半可に叱っていては、かえってその弟子の力を(可能性を)奪ってしまうことになる。 真剣に心から、その弟子のためを思って、厳しく叱ることのできる怖い棟梁になれなければ、一流の宮 大工とは言えない。そのためには、その弟子がなすべきこと、到達すべき目標がきちんと見えていなけ ればならない。これは優れた宮大工の心構えでありますが、主イエスとペテロとの関係においてはなお さら、それ以上の本当の信頼関係があったと言えでしょう。  主イエスは、限りない愛と信頼をもって、使徒ペテロの行く道を祝福しておられるのです。これを日 本語では餞別の「餞」と書いて「はなむけ」と申します。「はなむけ」という言葉はもともと、遠い旅に 出る親しい人を、人々が峠の上まで見送り、馬の手綱を皆で手に取って旅路の方向に向けて祝福した。 馬の鼻先を旅路の方向に向けて安全と祝福を祈った。それで「はなむけ」と言うのです。まさしく主イ エスはペテロのために、「はなむけ」をして下さったのです。  今までは、あなたは自分の心の思いのままに歩んできた。しかしこれからはそうではない。ペテロよ、 あなたはこれからの人生を使徒として、私の忠実なる僕として、主なる神の御心のままに歩み、神の栄 光のみを現わす人として生き、そして死に至るまで変わることなく、全ての人に神の救いと祝福を告げ る器となるのだ。そのように、主イエスははっきりとペテロに「はなむけ」をして下さったのです。そ して、それはペテロだけではない。いまこの新年礼拝に集う私たち一人びとりに対しても、主は同じよ うに「はなむけ」をして下さっておられるのです。私たちの全存在、全生涯を、限りなく祝福していて 下さるのです。  事実ペテロは、この主イエスの「はなむけ」のとおり、使徒として忠実に歩み続け、やがてローマで 殉教の死をとげるまで、全ての人に福音を宣べ伝え、教会に仕える人となったのでした。ペテロについ て語られた有名な説話にこういうものがあります。ローマにおけるキリスト者への迫害が日ましに激し くなりつつあったある日、ローマ教会の長老たちはペテロに「ペテロ先生、どうかこのローマから離れ て安全な場所に避難して下さい。迫害の嵐が通り過ぎるまで、安全な地に逃れていて下さい」と頼んだ のです。あまり熱心に長老たちが勧めますので、ペテロは彼らの意を汲んで、ローマから一時避難する ことにしました。  ペテロが僅かの手荷物を携え、一人の少年を供に連れて、昼下がりのアッピア街道を歩いていますと、 向こうのほうから一人の白い衣を着た人が歩いてくるのに出会いました。それは何と復活の主イエス・ キリストであられたのです。ペテロは驚いて主に訊ねました「主よいずこに行きたもう」(Quo vadis Domine?)と。主は答えられた「ローマへ」。そしてこう言われたのでした。「もし汝がわが羊の群れを 離れてローマを去るならば、われ再び十字架にかかるためにローマに赴かん」。そこでペテロは決然とし てローマに引き返し、そこで迫害のもとで苦しみ、信仰が動揺している信徒を励まし、御言葉を宣べ伝 え続け、やがてローマの官憲に捕らえられまして、ローマ市街を見下ろす丘の上で処刑されることにな りました。そのときペテロは、自分はかつて主イエスを三度も裏切った人間である。そのような自分が 主と同じ十字架にかかって死ぬことは勿体ない。どうか自分を逆さ十字架につけて処刑して欲しいと申 し出たそうです。それで今日でもセント・ピータース・クロス(聖ペテロの十字架)というのは、逆さ まに立てられた十字架のことを申します。  今朝の御言葉の19節に、はっきりとこう記してあることに心を留めましょう。「これは、ペテロがど んな死にかたで、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである」。私たちにとって、私 たちの全生涯を通して神の栄光が現わされること、生きるにも死ぬにも、神の御栄えの現れる人生を歩 むこと、そのことにまさる幸いと喜びはないのです。それは、自分で帯を結んで自由気侭に歩む人生に 遥かにまさる、本当の幸いの人生であり、恵みによって召されたる者の生活なのです。そして、主イエ スはペテロに、今朝の御言葉の最後に、このようにお告げになりました。「こう話してから、『わたしに 従ってきなさい』と言われた」。この主イエスの御招きこそ、私たちをして真に人間たらしめるのです。 なぜなら主は言われました「わたしに従ってきなさい」(われに従い来たれ)と。それならば、主イエス は私たちの生きるにも死ぬにも、私たちを贖い、私たちを祝福し、私たちを極みまでも愛し、私たちと 共にいて下さるかたではありませんか。だからこそ、私たちは「われに従い来たれ」と言われる主の御 言葉に、心から喜んでお従いできるのです。  そのときペテロは「われはぶどうの樹、汝らはその枝なり」と仰せになった主の御言葉を思い起こし たに違いありません。私たちは、自分を中心に歩むだけでは、決して人生の実りを知ることはできない のです。健康も、仕事も、富も、名誉も、業績も、その内訳を見るならば、脆く儚いものばかりです。 最後には死が訪れ、私たちから全てを奪い去るのです。どこに私たちの人生の実りがあるのかと、私た ちは途方に暮れ、自問自答し、絶望するほかはないのです。  しかし、主イエスはそのような私たちに、はっきりと約束しておられます。「わたしはぶどうの木、あ なたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、 その人は実を豊かに結ぶようになる」と。人間が人間たりうる道、人生の真の幸福は(実りは)私たち の内側にあるのではない。それは十字架の主イエス・キリストにこそあるのです。主が十字架の愛と恵 みをもって、私たちをご自分にしっかりと結んで下さっている、その事実にこそ、私たちの人生の本当 の実りがあるのです。  これこそが、私たちへの主の「新年の祝詞」であります。だからこそ、主は同じヨハネ伝15章16節 にこのように言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだの である。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも 残るためである」。私たちはいま、主イエスに堅く結ばれているのです。どのような時にも変わることな く、主が共にいて下さり、私たちの全生涯を祝福し、生命と幸いへと導いて下さるのです。ともに主の 御名をほめ讃えつつ、新しい一年の初めといたしましょう。