説    教     詩篇88篇18節   マタイ福音書27章62〜66節

「死にて、葬られ」

2015・10・25(15431613)  今日から週報に「降誕前」の文字が入りました。今日は「降誕前第9主日」の礼拝です。これからク リスマスに向けての歩みが始まって参ります。この大切な季節にあたりまして私たちは、マタイ伝27 章62節以下の御言葉より、十字架の主の恵みをしっかりと聴き取って参りたいと思います。  そこで、今日もご一緒に歌いつつ告白しましたが、教会最古の信仰告白である使徒信条には、実はた いへん衝撃的なことが告白されているのです。それは、主イエス・キリストが「死にて、葬られ」た神 の御子であられるという事実です。私たちはこのことに驚かざるを得ないのではないでしょうか。古今 東西どこの世界に「死にて、葬られ」た神が存在しえたでしょうか。  私たち人間にとって「葬り」とは常に「死」の完成です。死がその人を完全に支配した、その証拠が 「葬り」だと言えるでしょう。よく「棺を覆ひて事定まる」と申しますが、その「定まる」事柄と言う のは結局は「この人も確実に死に支配された」という冷厳な事実なのです。私たちにとって「死」は避 けえない絶対の事実であり「葬り」は人間存在に対する「死」の究極的勝利の徴です。それを否定しう る力は、私たちには全くないのです。  私には「葬り」について、ひとつの忘れがたい思い出があります。それは私が高校2年生(16歳)の時、 クラスでいちばん親しかった友人が、劇症の白血病のためにわずか一週間の入院の後に死んだのです。 美しい山懐に抱かれた大きな農家の長男で、陸上部の選手でもあった青年でした。私は級友たちと共に 彼の家で行なわれた葬儀に出席しました。行ってみて驚いたのは、なんと友人の亡骸は、樽型の棺桶の 中に蹲る姿で押込められていたのです。僧侶の読経ののち、私は級友たちと共にその棺桶を担ぎ、数百 メートル離れた墓地に葬りに行きました。その日は物凄い血のような色の夕焼け空であったことをはっ きりと覚えています。墓には深い穴が掘られていて、そこに私たちは友の亡骸を降ろし、上から土がか けられたのです。  そこには「葬り」の冷酷無慈悲な現実だけがありました。一同言葉もなく涙して佇むのみでした。つ い一週間前まで共に学び、スポーツに汗を流し、人生を語り合っていた16歳の級友が、いま樽に押込 められ、冷たい土の下に埋められてゆく…。それを誰にも止めることができないのです。それが私にと っての「葬り」の原体験です。私は牧師になって33年間、すでに数え切れぬほどの人々の「葬り」を 行なって参りましたけれども、私はいつでもあの日、血のような夕焼け空のもとで、暗い墓穴に埋めら れていった友の亡骸を思い起こします。ともあれ、その「葬り」の経験が高校生の私をはじめて教会に 行かせることになりました。その、生まれて初めて出席した礼拝で、私は衝撃を受けました。使徒信条 の言葉にです。「(主は)死にて、葬られ、陰府に降り…」と告白されていることです。そうか、イエス・ キリストというかたは「死にて、葬られ」たかたなのか!。あの友が葬られた絶望の墓穴を、あの「葬 り」の現実を、このかたは知っておられるのだ。そして、そこに救いを告げて下さったかたなのだ!。 このことが私にとって救いの原体験となりました。  主イエス・キリストは、十字架の贖いの恵みをもって、まさに私たちの、残酷きわまりない「葬り」 の現実のただ中に来て下さった救い主なのです。主は「葬り」の現実の中に来て下さった、連帯して下 さった、そこに救いを、生命を、現して下さった贖い主なのです。それはどんなに言葉を尽くしても足 らぬほど大いなる恵みです。私たちの主はまさしく「葬り」の残酷さと虚無、その測り知れない悲しみ の中に、みずから降って下さった主である。それが「(主は)死にて、葬られ」たもうたという信仰告白 なのです。そこに福音の驚くべき救いの調べがあるのです。  言い換えるなら、死と葬りという現実の中で、主は最も確かに私たちと連帯をして下さった。葬りの 事実の中でこそ、私たちに救いの御業を現して下さったのです。そのことは、実は使徒信条の中にも明 確に示されています。主イエスの御生涯について「処女マリヤより生まれ」から「十字架につけられ」 まで、全てその動詞の主語は主イエスご自身です。「主」の代わりに「私」とか「私たち」という言葉を 入れることはできないのです。ただ一つの例外があります。それが「死にて、葬られ」という告白です。 「死にて、葬られ」この動詞だけは、いつの日か必ず私たち自身のものになる言葉です。それならば主 イエスはそこでこそ、私たちを新しい永遠の生命をもって覆い囲んで下さる救い主なのです。主を信ず る者は永遠の生命を頂くのです。  言い換えるなら、恐ろしい虚無と絶望と孤独でしかありえない私たちの「死と葬り」を、主イエスが 丸ごと贖い取って下さった。それほど確かに私たちを救い、祝福の永遠の生命を与えて下さったという こと。それが、主みずから「死にて、葬られ」とあることの意味(福音)なのです。  今朝のマタイ伝27章62節以下を見ますと、その最後の66節のところで「そこで、彼ら(パリサイ 人たち)は行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた」とあります。理由は、主イエスの弟子 たちが主イエスの遺体を墓から盗み出し、主イエスが「復活した」と言いふらすのを阻止するためでし た。しかし逆に言うなら、彼らはそこで「葬り」が「死」の完成であることを形の上でも示そうとした のです。だから重い墓石にわざわざ「封印」までした上、番人を置いて墓に人が近づけないようにした のです。「封印」とは二度とそこが開かれないという印です。それならば、主イエスはまさにその「封印」 を内側から開いて復活されたのです。死の支配、否、死の完成(勝利)そのものである「葬り」の事実 に、主は最後の永遠の審きをお告げになったのです。「死よ、汝の針はいずこにかある。死よ、汝の勝ち はいずこにかある」と。  主はまずご自身がまことに死なれ、そして墓に葬られたことによって、罪によって滅びるほかはない 私たちと徹底的に連帯して下さり、そして復活によって滅びの徴である墓を、新しい生命の門として下 さったのです。死が支配するはずの墓に、永遠の喜びの生命をもたらされたのです。墓を生命で覆って しまわれたのです。死はキリストの生命に呑みこまれてしまったのです。それこそが、今日の御言葉に はっきりと示されている福音です。私たちは信仰によって、教会生活を通して、主イエスの死のさまに 等しくされ、同時に、主の御復活のさまにも等しくされた群れなのです。その復活の生命の確かさを、 全ての人々に宣べ伝えるのがこの礼拝です。  私たちはなぜ、毎週日曜日を「主の日」として礼拝を献げるのか。それはこの日が、主イエスが墓の 「封印」を打ち破って、全ての罪と死に勝利したもうた日だからです。だからそれは「主の日」(主日) と呼ばれるのです。私たちにとって最後の支配であった死の力を、キリストのみが御自身の死によって 覆され、罪と死の支配のもとにあった私たちを、御自身の教会を通して、復活の喜びの生命へと招いて 下さったのです。私たちはこの主の教会に連なることによって、もはや永遠に、罪と死の支配のもとに ではなく、聖霊と復活の生命の御支配のもとに生きる者とされているのです。  あるドイツの神学者が、キリストの「死と葬り」についてこういうことを語っています。ドイツ語を 直訳して引用します。「このかたの死と葬りによって、私たちの上に何が起こったのだろうか?。それは、 教会によってキリストに結ばれた私たちの誰ひとりとして、もはや決して死に支配されることがなくな ったという驚くべき恵みの出来事である。私たちは聴く『今よりのち、主にありて死ぬ死人はさいわい なり』と!。この御声を私たちは永遠に確かな福音として聴き続ける。私たちは自分の「死と葬り」と いう最も冷酷な現実の中においてさえ、主イエスの死のさまに堅く結ばれ、同時に復活のさまに堅く結 ばれているのである。主イエスがご自身の「葬り」によって私たちの死と連帯して下さったことにより、 私たちの死と「葬り」は根底から覆され、生命の門に変えられたのである。私たちは主イエスと共に生 き、主イエスと共に死ぬ。「葬り」においてさえ私たちは孤独ではありえない。神に背き滅びる以外にな かった私たちの死を、ただ十字架の主のみが、ご自分の「死と葬り」においてものの見事に取り除いて 下さったからである。ここに福音の本質がある」。  今日は礼拝後に「帰天者記念墓前祈祷会」が行われます。鎌倉霊園にある教会墓所の墓石には「夜は 夜もすがら泣き悲しむとも、あしたには喜びうたはん」と詩篇30篇5節の御言葉が刻まれています。 たとえ私たちの人生がどんなに冷酷な「死」の支配のもとにあるかに見えても、私たちは私たちの永遠 の主(十字架の主)イエス・キリストによってすでに「喜びのあした」(朝)を迎えさせて戴いているの です。死に打ち勝ちたもうた十字架の主の恵みのもとでこそ、私たちは愛する者たちの「葬り」を執り 行うのです。封印された墓は内側から主によって打ち開かれ、復活の生命を証しする“生命の門”に変 えられたのです。やがて巡り来るであろう私たち自身の「死」と「葬り」においてさえも、この同じ主 が支配していて下さることを、全てにまさる喜びと慰めとして私たちは宣べ伝えるのです。  私たちは親しい者の葬儀において、何を物語るのでしょうか?。人間の死という現実の中で、教会は 何を宣べ伝えるのでしょう?。この人は肉体は死んだけれどもその魂は永遠不滅であるという「霊肉二 元論」を語るのでしょうか。あるいは、この人はとても立派な生活をしたから、優れた業績を残したか ら、神がご褒美に天国に迎えて下さるであろうと、死んだ者の徳を称えるのでしょうか?…そのいずれ でもありません。私たちの教会はただひとつの永遠の確かさを、永遠の慰めを宣べ伝えるのです。それ は、私たちの「死と葬り」という最も冷酷な現実のただ中においてさえ、その人のために「死にて、葬 られ」たまいし主イエス・キリストの恵みの御支配だけが、永遠に確かであり続けることです。キリス トの死に結ばれ、それゆえに復活にも結ばれた私たちに与えられた、限りない生命の確かさです。人間 の魂の確かさでも、行いの確かさでもなく、ただキリストの贖いの恵みの確かさのみを、私たちは証し、 そこに喜びをもって生き続ける群れなのです。  詩篇の88篇12節に「あなたの奇跡は暗闇に、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか」と告げ られていました。この、人類の歴史と共に古い、人生の最も大きな問いに、主はもっとも確かな唯一の 答えを与えて下さったのです。「しかり、わが奇跡は暗闇にこそ輝き、わが義は墓穴の中にさえ永遠の生 命を与える」と。この「死にて、葬られ」しキリストの恵みの確かさに、私たちは生命のかぎり、死を 超えてまでも、生かされているのです。