説    教    箴言10章24〜25節   エペソ書6章21〜24節

「主にありて忠実なる僕」

2015・10・18(説教15421612)  今日の説教題をみなさん誰しも「主にありて忠実(ちゅうじつ)なる僕」と読まれると思います。し かし文語訳の聖書ではこの「忠実」という字を「まめやか」と読みます。すなわち今朝のエペソ書6章 21節以下はこう読まれるのです。「愛する兄弟、主に在りて忠実(まめやか)なる役者テキコ、我が情 況(ありさま)わが為す所のことを、具(つぶさ)に汝らに知らせん。われ彼を遣はすは、我が事を汝 らに知らせて、汝らの心を慰めしめん為なり」。使徒パウロはここに愛するエペソの教会に同労者テキコ を遣わすにあたり、パウロの伝道の様子がエペソ教会の人々につぶさに告げ知らされ、そのことによっ てエペソの教会がいっそうキリストのもとに強められ、慰さめを受け、神を讃美する群れとなるように と、祈っているのです。  そこで、パウロが同労者テキコについて「主に在りて忠実(まめやか)なる役者テキコ」と呼んでおり ますことは、私たち一同の者にとりまして、大きな慰めであり喜びなのではないでしょうか。それは「あ なたはいつも、主に結ばれて忠実(まめやか)なる主の僕であり続けなさい。ただそれだけが最も大切な ことなのだ」と告げられているからです。主イエスは「小事に忠実なる者は大事にも忠実なり」と言わ れました。私たちが日常の全ての事柄において陰日向なく主に仕える「主の僕」であり続けること。そ こに私たちの信仰生活の真骨頂があるのです。まさにその点において、テキコという人は若いながらも 全てのキリスト者の模範となる人でした。それでパウロは「まめやかなる役者テキコ」と呼んでいるの です。この「役者」とは「御言葉の役者」すなわち「御言葉に仕える者」のことです。おのれを語らず してただ御言葉のみを宣べ伝える主の僕のことです。  さて、このエペソ人への手紙は「獄中書簡」と申しまして、使徒パウロが獄中で、捕われの身で書い た手紙のひとつです。エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモンの4書を「獄中書簡」と呼びます。古代の 牢獄は想像を絶する過酷な環境でした。私はカイザリヤでパウロの時代の牢獄の跡を見たことがありま す。パウロはカイザリヤ、エルサレム、エペソ、ローマの4箇所で投獄されていますが、みなキリスト を宣べ伝える信仰のゆえにでした。その獄中からパウロは何を訴えようとしているのでしょうか?。自 分が牢獄で惨めな酷い扱いを受け、乏しさと不自由の中にあることでしょうか?。そうではありません。 パウロの訴えの中心はまさに「まめやか」という言葉にあります。この言葉は既にエペソ書の冒頭1章 1節に出てくるのです。「神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・ イエスにあって忠実な聖徒たちへ」とあるのがそれです。つまりパウロは、キリストを証しすることに おいて「忠実」(まめやか)な「聖徒」の群れであるエペソの教会に対して、まさにその群れの中で生ま れ、育てられた伝道者である若きテキコを、同じように「まめやかな」主の僕として遣わすと語ってい るのです。ここには「まめやかな主の僕」の姿を受け渡し、受け継いでゆく、キリスト者の生きた信仰 の姿勢があります。  言い換えるならば、ここには、同じ主の御業に仕える僕たちの共通した喜びと幸いがあるのです。な ぜなら、この「まめやか」さとは、生きて今ここに救いの御業をなしたもう主イエス・キリストご自身 の聖霊による御業だからです。パウロにとっては、いつどこでも、いかなる境遇にありましても、ただ キリストの御業の現われんことだけが願いでした。自分自身のことは少しも眼中になく、只管(ひたすら) 主に仕えることがパウロの祈りでした。ですから牢獄に在っても今朝の御言葉の少し前の19節以下に こう語っています。「また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らか に示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖 につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい」。  同じように、獄中書簡であるピリピ書1章12節にはこうあります。「さて、兄弟たちよ、わたしの身 に起ったことが、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。す なわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべて の人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、 恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」。ここにあらゆる境遇を超えて、パウロ の限りない感謝と喜びがありました。このことを宗教改革者カルヴァンは「たとえ目前に迫った死の危 険すらも、彼(パウロ)が遠くにある兄弟姉妹たちのことを思い、魂の配慮をしようとする、主にある 牧会のわざを、少しも妨げることはできなかった」と語っています。  「忠実」という言葉も「まめやか」という言葉も、いささか古臭い、現代人には人気のない言葉です。 それよりは、スマートで機転のきいた、格好のいい、要領のよい生きかたが好まれる時代です。何とか 楽をして、他人よりも得をしたい、上に立ちたいと、誰もが願っている時代です。しかし、そこには人 間のエゴイズムしか現われません。むしろ本当に大切な仕事が任せられる人、人にも本当に信頼される 人は、主なる神に対して陰日向のない人だけではないでしょうか。「小事に忠実なる者は大事にもまた忠 実なり。小事に不忠実なる者は大事にもまた不忠実なり」との主のみ言葉のとおりです。私たちの日常 生活のどんなに小さな一部分にもキリストの御業は現われているのです。私たちの日々の生活そのもの が主の限りない恵みのもとに支えられているのです。たとえ体裁が悪くても、不恰好であっても、愚直 なまでに「まめやか」に、ひとすじに、信仰に生きる私たちでありたいと願わずにおれません。  パウロがエペソに滞在し伝道したのは西暦54年から56年にかけて、約3年の短い月日でした。しか しそこでパウロが証した神の恵みの確かさは、その後ずっとエペソの教会と人々の生活を支える大黒柱 になったのです。獄中にあるパウロの牧会のわざを命がけで支えたのも、ほかならぬエペソ教会の信徒 たちでした。教会は神の言葉を全ての人に宣べ伝えるために主がお建てになった「聖霊の宮」です。主 はご自身の御身体なる教会を通して、全ての人々を御言葉による唯一永遠の救いへと招いておられ、世 界に救いの御業を成就して下さいます。この本来究極の目的を離れて教会は教会たりえません。御言葉 以外のところでどんなに人が大勢集まっても、それは教会の教勢ではないのです。教会の本当の交わり は御言葉と聖霊において現臨したもう主キリストとの交わりであり、その中からテキコのような「まめ やかな」主の仕え人を生み出す「聖徒の交わり」です。それがいかに限りない慰めであり励ましであり、 また喜びであるかを、今朝の御言葉ははっきりと示しているのです。  それならば、私たちの主にある責任もまた、どんなに喜ばしく、感謝すべきものでありましょうか。 私たちはいつも自分を顧みて、主の御前に「主にありて(主に結ばれて)まめやかな」僕となりえてい るか否かを問い続けねばなりません。なによりも、主みずから今朝の御言葉を通して私たち一人びとり にはっきり語り告げていて下さいます。「あなたはいつも、主に結ばれて忠実(まめやか)なる主の僕であ り続けなさい。ただそれだけが最も大切なことなのだ」と。私たちの葉山教会はいつも「主にありて忠 実な聖徒たち」と称えられる群れとして歩むべく、主が聖霊によってここに建てて下さり、私たちを何 の値もなくして招いて下さった神の宮なのです。それは少しも私たちのわざではなく、ただキリストの 贖いの恵みによってです。その贖いの恵みに一意専心生き続けて参りたいと思います。  最後に23節と24節に、エペソ書の全体を締めくくる祝福の挨拶があります。「父なる神とわたした ちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。変わらない真実を もって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように」。私たちはいつ も、この祝福と幸いの内に、主に堅く結ばれた者として生かされているのです。ここに「まめやかなる 主の僕」たちに与えられた大きな祝福と幸いがあるのです。