説    教    サムエル記上16章13節   ヘブル書9章11〜15節

「キリストの三職」

2015・10・04(説教15401610)  1890年(明治23年)の「日本基督教会信仰の告白」は冒頭において「我等が神と崇むる主イエス・キリ ストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが罪の ために、完き犠牲をささげたまへり」と告白しています。これは使徒的公同教会の信仰告白、特にニカイ ア信条を日本最初のプロテスタント教会が厳密に解釈したという点でとても大切な文言です。西暦385年 のニカイア信条における「(われらは)唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます」という信仰 の内容を1890年の「日本基督教会信仰の告白」は「我等が神と崇むる主イエス・キリスト」という言葉 で、まことに丁寧に言い換えているわけです。  ここからもわかりますように、私たちが改めて心に留めるべき大切な事柄は、私たちの教会はいつもイ エス・キリストを「主」と告白してきたことです。すでに“イエス・キリスト”という御名そのものが「イ エスはキリスト(油注がれしかた=救い主)である」という信仰の告白です。まさに教会とは、ベツレヘム の馬小屋にお生まれになったナザレのイエスをキリスト(油注がれしかた=救い主)すなわち「主」と告白 する群れなのです。「あなたにとってイエス・キリストとは、いかなるかたであるか」という問いに対する 答えは「私の主(救い主)です」という告白以外にないのです。そして、キリストが「主」であられるとい うことを、聖書の御言葉によって丁寧に読み解きますとき、忘れてならない大切なことは、キリストは「預 言者・祭司・王」なるかたであられるということです。  キリストは「預言者、祭司、王」なるかたであられる。このことを、昔から私たちの教会は「キリスト の三職」(キリストの3つのお働き)と申してきました。キリストが全ての人の救いのために担われた3つ のお働き、それを使徒的公同の教会は「まことの預言者・まことの祭司・まことの王」(の務め)と言い表 してきたのです。このことについて、私たちの教会の大切な信仰の遺産である1563年の「ハイデルベル ク信仰問答」は問31でこのように語っています。「(問31)なぜこのかたは、キリストすなわち『油注がれ た者』と呼ばれるのですか。(答え)なぜなら、このかたは父なる神から次のように任職され、聖霊によっ て油注がれたからです。すなわち、わたしたちの最高の預言者また教師として、わたしたちの贖いに関す る、神の隠された熟慮と御意思とを、余すところなくわたしたちに啓示し、わたしたちの唯一の大祭司と して、御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず 執成し、わたしたちの永遠の王として、御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得なさった贖 いのもとに、わたしたちを守り保ってくださるのです」。  まず、主イエス・キリストが「(まことの)預言者」であられるということは、どういうことでしょうか。 ただいまの「ハイデルベルク信仰問答」問31には「わたしたちの贖いに関する、神の隠された熟慮と御 意思とを、余すところなくわたしたちに啓示」したもうゆえにであると告白されていました。大切なこと は、ここに「わたしたちの贖いに関する」とあることです。私たち人間にとっていちばん大切なことは、 罪を贖われること、すなわち、まことの神との関係を回復して戴くことなのです。つまり「贖い」とは「神 との関係回復」と言い換えても良いのです。主イエス・キリストは、まことの神が私たちをどんなに愛し ておられるか。そして私たちの救いのために、どんなに完全な救いを現して下さったか、そのご意思(神の 御言葉)を「余すところなく」私たちに語って下さる唯一の「主」であられるゆえに「(まことの)預言者」 と呼ばれるのです。私たちは主イエス・キリストによってのみ、真の神を知る者とされているのです。キ リストを信ずる者は真の神を知るのです。そして、まことの神を知った者のみが本当の自由に生きうるの です。何よりも全てにまさって、罪と死の支配から解き放たれ、キリストの愛と祝福のもとにある者とし て、私たちはその生涯の全体を、神の喜びたもうわざに仕える僕とならせて戴けるのです。  第二に、キリストが「(まことの)祭司」であられるとは、どういうことでしょうか。「祭司」とは神と民 との間を執成す務めです。橋渡しの務めをなす者のことです。ですから、先ほどの「ハイデルベルク信仰 問答」でも、キリストは「(まことの)祭司」として「御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを 贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執成し」たもうかたであると告白されていました。譬えて 申しますなら、誰も超えることのできなかった人間の罪という深い断絶を、キリストはご自分の十字架に よる唯一絶対の贖いによって超えて下さった。そして、私たちを御父なる神に導く橋となって下さったか たなのです。そこで、祭司はまさにその「橋」の務めを果たすために犠牲を献げます。キリストが献げて 下さった犠牲とは何でしょうか?。今朝お読みしたヘブル書9章11節以下にこう記されていました「し かしキリストがすでに現われた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、 さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自分の血によって、一度だけ 聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。キリストはご自身を犠牲となさっ て、私たちの底知れぬ罪を贖って下さったのです。キリストを「世の罪を贖う神の小羊」と呼ぶのはその ためです。  第三に、キリストが「(まことの)王」であられるとは、どういうことでしょうか。私たちは「王」と聞 くと、君臨し支配し、自分の主権を拡張しようとする支配者を想像します。しかし、キリストが「(まこと の)王」であられるとはそういう意味ではありません。キリストの弟子たちは、主がエルサレムに入場なさ っても、この世の王として振舞われないことに苛立ち「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」を論じ合っ ていました。そのとき、主は弟子たちに教えたもうて言われました。ルカ伝22章24節以下です。「それ から、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエス が言われた。『異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。』」またマルコ伝9章33節以下には、同じ場面で主イ エスは、一人の幼子を弟子たちの中に立たせ、その幼子を抱いて祝福され、そしてこう言われました。「だ れでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのであ る。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったか たを受けいれるのである」。  また、マタイ伝20章24節以下にはこうあります。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あ なたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権 力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない』」。そして、主はこうお教えになりまし た「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがない として、自分の命を与えるためである」。なによりも心に留めたいのはこの最後の御言葉です。主はご自分 が世に来られたのは「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」であるとはっきり言われまし た。この「多くの人」とはヘブライ語では「全ての人」という意味です。キリストは世を睥睨し君臨する この世の王としてではなく、全ての人の罪を担われて十字架にかかられ、その贖いによって全ての人を罪 から救う、まことの唯一の永遠の「王」であられるのです。  だからこそニカイア信条では「その御国(王権)は終わることがない」と告白しています。この世の王権 は時代と共に栄枯衰勢勝者必滅を繰返しますが、キリストの恵みの主権、キリストが王であられる神の国 の限りない支配と祝福は永遠に変わらないのです。かつてD.ボンヘッファーというドイツの神学者がヒト ラーに反対して強制収容所で殉教の死をとげました。このボンヘッファー牧師が獄中で行なったエペソ書 の連続講解説教が出版されていますが、その中でこのように語っています。自分はまもなくこの世を去る であろう。しかし私の生命が今日、この世の王の暴虐のために断たれようとも、私はただ一人の王なる主 イエスにのみ仕え、ただ一人の王なる主のみを証しし、ただ一人の王なる主のみを讃美する。唯一の王に して主なるイエス・キリストの永遠の勝利のみが確立する。ただキリストの十字架のみが、全ての罪に対 する永遠の勝利である。私がここで流す血はかつての殉教者たちの血のように輝いてはいないであろう。 しかし、そこで証しされる福音は一つである。すなわち「キリストは王となられた」。この喜びと幸いは永 遠に変わることはないのだ。  「キリストは王となられた」この恵みの事実の喜びと幸いに永遠に生きる者と、今日のこの礼拝におい て、私たちもならせて戴いているのです。キリストは十字架の死によって罪の極みなる私たちを完全に贖 い、何の功もなきままに、私たちを御国の民・神の子とならせて下さいました。御言葉と御霊によって世々 変わらず統治されるまことの「王」として、今日も明日も、私たちの全生涯を、死を超えてまでも、限り ない祝福の御手の内に保ち、守り、支え、導いて下さるのです。  どうかこの伝道の秋を迎えまして、私たちはいっそう心を高く上げて共に御言葉に養われる群れとなり ましょう。キリストは私たちのため、全世界の人々のために、まことの「預言者・祭司・王」となられた のです。その唯一の主の御前に生き、主にお仕えする幸いを、私たちは今ここに与えられているのです。