説    教    詩篇71篇16〜18節  テモテ第二の手紙4章1〜8節

「神の御前に」

2015・09・27(説教15391609)  「テモテへの第二の手紙」は第一の手紙と同様、キリストの使徒パウロがその生涯の最後にローマの 獄中より、愛する同労者・若きテモテにあてて書き送った手紙です。特にこの手紙は西暦68年、パウ ロの殉教の死の数ヵ月前に書かれたものです。そのためでしょうか、この手紙の全体に伝道者たるパウ ロの祈りと情熱が漲り溢れているのです。とりわけ今朝お読みした4章1節から8節までの御言葉は、 伝道の労苦を最後まで忠実に担い続けてくれた同労者テモテに対する老使徒パウロの懇ろな勧めと共に、 教会の唯一のかしらにして全人類の贖い主なる主イエス・キリストの御業に対する限りなき感謝と讃美 が満ち溢れているのです。  さて、この手紙の受取人であるテモテなる人物について、私たちは聖書の御言葉から、彼がガラテヤ 州のリストラの出身であったこと、ギリシヤ人を父としユダヤ人を母として、敬虔な信仰を持った母方 の祖母ロイスのもとで信仰の賜物を受け継いだ青年であったことを知ることができます。特にそのこと は、この手紙の1章3節以下にパウロがこのように記していることでわかります。「わたしは、日夜、 祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝し ている。わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願ってい る。また、あなたがいだいている偽りのない信仰を思い起こしている。この信仰は、まずあなたの祖母 ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っていると、わたしは確信して いる。  さらにパウロはこう語っています。「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内 にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆す る霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをするこ とや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力に支えら れて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって 召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、ま た、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの 救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである」。  ここにパウロはテモテの信仰を「偽りのない信仰」と呼んでいます。これは直訳すれば「裏表がない」 という言葉です。テモテの生活のどこを切り取っても、そこには“キリストの僕”としての姿が見える、 そのような信仰の賜物をあなたは受け継いでいると、パウロはテモテに語るのです。そして同時にパウ ロは、いま自分がローマの獄中にいることによって伝道の働きが停滞してはならない「むしろ、神の力 に支えられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」とテモテに勧めています。それは7 節にあるように「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」だからで す。福音宣教のわざは少しも私たちの能力や資格によるものではなく、ただ神が御子イエス・キリスト において与えて下さった、測り知れない救いの出来事による「神の賜物」なのだと力強く語っているの です。  さて、テモテという人は、性格的にたいへん穏やかな、物静かな人であったようです。その性格の穏 やか過ぎることがコリントの教会で問題視されたことがあったほどでした。厳しい伝道の戦いに相応し くないと考える人もいたのです。しかしパウロはテモテが内に秘めたる伝道への燃えるような情熱を見 抜いていました。使徒行伝14章19節を見ますと、パウロが第2回伝道旅行のおりルステラで迫害を受 けたとき、パウロを自宅に招き入れて傷の手当てをしたのがテモテの一家でした。それがもとになって テモテの一家全員がパウロから洗礼を受けたのです。当時まだ少年であったテモテは、やがてパウロの 伝道を助ける忠実な同労者となり、マケドニアからコリント、コリントからエペソ、エペソからガラテ ヤへと、厳しい伝道旅行の全行程をパウロと共に歩み、その「偽りのない信仰」によってキリストの愛 と恵みを証しし、神の御言葉のみを宣べ伝え、あらゆる苦難を耐え忍び、私生活においては3章10節 にあるように、常にパウロの「教え、歩み、こころざし、信仰、寛容、忍耐」に倣い、その全生涯を人々 の救いのために神の僕として献げ抜いたのでした。そして使徒パウロの殉教ののちエペソ教会の初代監 督となり、さらに22年にわたる伝道者としての働きののちに、西暦90年ドミティアヌス帝の迫害のも と62歳で殉教の死をとげたと伝えられているのです。  さて、そこで今朝の4章1節以下の御言葉ですが、特に5節までの大切な勧めの言葉において、パウ ロはテモテにこのように語っています。「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリス ト・イエスのまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。 時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々 が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせ て教師たちを呼び集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」。  この御言葉は、今日においてこそ私たちが襟を正して聴くべき御言葉です。ここにパウロは「神の御 前に」という言葉を用いています。これはラテン語で申しますと「コーラム・デオ」という言葉です。 宗教改革者カルヴァンが大切にしたキリスト者の基本的な姿勢です。教会は、そして教会に連なる私た ちは、いつも「神の御前に」喜んで生きる群れであり続けねばなりません。私たちの本当の自由と平安 と喜びはただ「神の御前に」のみあるのです。そして同時に、ここでパウロが熱心に勧める「神の御前 に」おけるキリスト者の生活は、すでにそのこと自体が私たちの救いであり、平安であることがわかる のです。なぜなら、そこには十字架の主イエス・キリストの恵みがあるからです。私たちは神の御前に あるどころか、神から遠く離れて生きていた存在でした。神の御前に立ちえざる者でした。その私たち が、十字架の主イエス・キリストによる罪の贖いにより「神の御前に」生きる真の喜びと自由と平安を 「神の賜物」として戴いていること、それこそいま私たちに与えられている救いの出来事です。まさに 「インマヌエル」(神われらと共にいます)出来事が、ご降誕と十字架と復活の主イエス・キリストによ って、全ての者の救いとして現われたのです。  だからこそパウロは4章1節において「生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスの みまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる」と語るのです。この「キリストの 出現」とは、神が御子イエス・キリストにおいて私たちに完全にご自分を現わして下さった恵みをさし ています。さらに言えばクリスマスの出来事を現しています。この罪の世界に現された「キリストの出 現」の恵みこそ、全ての人を救う福音そのものなのです。主は私たちの罪と死のただ中に救いを現わし て下さいました。主は救いの恵みを教会において全ての者に与えて下さる御心なのです。だからキリス トの出現こそ、罪と死の力さえも打ち砕いて、罪に囚われた私たちを甦らせたもう救いの出来事なので す。  私たちの信仰の生命は十字架と復活の主イエス・キリストにあります。言いかえるなら、私たちの信 仰生活の中心は主の御身体なる主の教会にあるのです。聖書のどこを見ても信仰生活の中心はキリスト であり教会であって、私たちの個人的な経験や熱心さではありません。言い換えるなら、私たちの救い の確かさは、私たちのために人となり、十字架にかかられ、復活されたキリストの恵みの確かさなので す。それこそ「キリストの出現」の確かさが私たちの救いの確かさです。そして教会は(礼拝は)聖霊と 御言葉による「キリストの出現」の恵みが全ての人に現される場所なのです。ですから、キリスト者と して生きることは、私たちが聖人君子になることではありません。私たち自身を顧みるなら、数え切れ ないほど欠点があり、弱さがあり、破れがあるのです。しかしそのような私たちが、そのあるがままに、 キリストを信じ、キリストに従うのです。そのとき、私たちの人生の全体が「キリストの出現」の恵み に満たされたものになるのです。礼拝はこの恵みに生きる私たちの神への感謝の応答です。この「偽り のない信仰」に生き、喜びと感謝をもって礼拝の群れを形造るなら、初めて礼拝に出席した人にも、大 きな深い印象を与えることができるでしょう。「ここには、世の中のいかなるものも与ええない本物の救 いがある」との思いを抱くことでしょう。そのとき、私たちのこの礼拝そのものが「キリストの出現」 を物語るものとされているのです。「神のみまえに」生きる私たちとされているのです。  パウロは今朝の6節以下におきまして、自分の殉教の時が近づいていることを予感しつつ、しかしそ こにキリストの僕として「神の御前に」生きる者とされた神の恵みの確かさを讃美しています。「わたし は、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに 戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばか りである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではな く、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。パウロは、否、私たちは、 この確信と喜びに満たされているのではないでしょうか。この「義の冠」とは、贖い主キリストの救い の恵みそのものです。それが罪人のかしらなる私たちのために備えられている。それならば、神はその 「義の冠」を主の出現(キリストによる救い)を待ち望んでいた全ての人にも授けて下さるであろう。パ ウロは自分の過ぎこし旅路を顧みるとき、それは全て、自分の罪を贖い、新たになして用いて下さった キリストの恵みの御業であったことを思い、主を讃美し感謝しつつ、主の御手に自分の全てを委ねてい るのです。  思えばテモテよ、あの険しかった山々、あの深い谷を行くときにも、焼け付く砂漠の旅路も、荒れ狂 う海を越えたことも、全てを主は祝福に変えて導いて下さった。この私たちの地上の旅路は、私たちを 待つ永遠の御国、朽ちぬ生命へと、私たちを導くかけがえのない旅路です。そのことを思いつつ、主よ、 たとえ今日あなたのみもとに召されましょうとも、私は限りなき讃美と感謝を献げつつ参ります、その ようにパウロは、テモテは、私たちは、歌いつつ、主を讃美しつつ「神の御前に」生きる者とされてい る。その祝福は永遠に変わることはないではないか。あなたも、あなたも、いま「キリストの出現」の 恵みに満たされているではないか。その幸いと喜びと感謝を、私たちは今朝の御言葉を通して、鮮やか にまた確かに、知らしめられているのです。祈りましょう。