説     教    ヨシュア記13章1節  ピレモン書8〜20節

「最大難問への福音」

2015・09・20(説教15381608)  旧約聖書・ヨシュア記13章1節にこうございます。「ヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言 われた、『あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている』」。この「取るべき地」 とは人間の魂のことです。「目を上げて観なさい」と主は言われるのです。まことの神を知らず、魂の 闇をさ迷っている人がどんなに多いことか。それこそ「(あなたが)取るべき地」(御言葉を宣べ伝える べき人々)は数多く残っているではないか。「だから」と主は言われます。「あなたは、ひるんではなら ない。たじろいではならない。行って御言葉を宣べ伝え『取るべき地』を主なる神にお返ししなさい。 一人でも多くの魂に福音による救いと喜びと祝福を宣べ伝えなさい」と。  主イエス・キリストは人間の魂を、神が御言葉の種をお播きになる土地に喩えられました。ある種 は「道ばた」に落ち、ある種は「土の薄い石地」に、またある種は「いばらの中に」、そしてある種は 「良い地に」落ちたのです。その中で「良い地」に落ちた種だけが成長して、限りなく豊かな実を結 ぶのです。これは、そのような4つの土地のような4種類の人間がいるという意味ではありません。 むしろ私たち一人びとりの中に同時に「道ばた」「土の薄い石地」「いばらの中」という魂の状況が存 在するのです。だからのような人であっても「み言葉を聞いて信じる」なら、その人は「良い地」に 変えられるのです。御言葉はその人の内に豊かに根を張り、成長し、やがて「三十倍、六十倍、百倍」 もの実りをもたらすのです。  だから明確なことは、私たちをそのような「良い地」に変えて下さるのはただ主イエス・キリスト だということです。私たちに求められているのは「御言葉を聴いて信じること」だけです。大切なこ とは「あなたは主イエス・キリストを信じますか?」(イエス・キリストのご訪問を喜んでいますか?) ということだけなのです。「取るべき地は、なお多く残っている」とは、主がそれだけ多くの人々を訪 問しておられるからです。主が働いておられるのに、私たちが無関心で良いはずはありません。まさ に「収穫は多いが、働き人が少ない」のです。だから「収穫の主に祈りなさい」そして「あなたがそ の働き人になりなさい」と、主が私たちを御業に招いておられるのです。  この信仰の志に満たされて、いま使徒パウロは、愛する同労者でありコロサイ教会の長老であった ピレモンという人物に対して「ピレモンへの手紙」を書き送っているのです。ことの経緯はこうでし た。あるときピレモンの家から使用人であった「オネシモ」という名の若い奴隷が逃亡して、獄中の 使徒パウロのもとに保護を求めたのです。オネシモは獄中のパウロのもとで福音を聴いてキリストを 信じる者になり、パウロから洗礼を受け、さらには獄中にいるパウロの伝道を助け、主の教会に仕え る立派なキリストの僕に成長したのでした。この経緯を愛する兄弟ピレモンに伝え、またこの逃亡奴 隷オネシモをピレモンのもとに送り返すにあたり、パウロはこのこの手紙に自らの見解を述べ、どう かオネシモを「奴隷以上のもの、愛する兄弟として」迎え入れて欲しい「もしわたしをあなたの信仰 の友と思ってくれるなら、わたし同様に彼を受けいれてほしい」と願っているのです。それが今朝お 読みしたピレモン書8節以下です。  「ローマ帝国衰亡史」の著者・歴史家ギボンは、古代ローマ帝国における奴隷制度の特異性に注目 しています。ギボンは奴隷制度こそローマ帝国滅亡の最大原因であったと語っています。ローマ帝国 は奴隷制の上に成り立っていました。つまり生産者である奴隷の働きの上に消費者であるローマ市民 (公民)の生活権を成り立たしむるという歪な国家体制であったわけです。それを根底から打ち破った のがキリスト教でした。とまれ、私たちは「奴隷」と聴くと、鎖で繋がれた人の姿を思い描きますが、 ローマ帝国における奴隷は外見上は自由人と全く区別がつきませんでした。否むしろ知識人や技術者 や教師や法律家など、知的職業に従事する人々に奴隷階級の者が多かったのです。しかしその奴隷が主人 (つまり所有者)のもとから逃亡したとなると話は別でした。その奴隷にはたちまち「逃亡奴隷」とい う犯罪の烙印が押され、円形劇場の剣闘士に売り飛ばされるなど厳しく処罰されたばかりでなく、理 由次第では死刑になることも珍しくなかったのです。言い換えるなら、奴隷が主人のもとから逃亡す るには、よほどの理由があったとも言えるのです。  そこで、このピレモン書を改めて読みますと、この逃亡奴隷オネシモはまだ十代の少年と言っても 良い若者であったらしい。もちろん専門技術者などではなく、主人ピレモンのもとで下働きをしてい た若者でした。このオネシモがどういう理由でかはよくわかりませんが、とにかく主人ピレモンのも とから逃亡して、遠くローマの獄中にいるパウロのもとに庇護を求めたわけです。それはおそらく、 オネシモは使徒パウロと主人ピレモンの家で面識があったためでしょう。たぶんオネシモはパウロを 通して福音を既に聴いていたに違いありません。そのことがオネシモを獄中のパウロのもとに走らせ る契機になったと推測できるのです。ただひとつ困ったことに、オネシモは主人ピレモンから幾ばく かのお金を盗んで逃亡したらしいのです。コロサイからローマまでは相当の距離がありますから、道 中の路銀にするつもりだったのかもしれません。しかしこのことは当時のローマの法律によれば、死 刑になっても仕方のない罪でした。  こうした経緯をふまえて、パウロはこの手紙の11節にオネシモについて「彼は以前は、あなたに とって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者になった」と語っています。 これはオネシモという名がギリシヤ語で「有益な者」という意味であったことにかけているのです。 オネシモは主人ピレモンのもとからお金を盗んで逃亡したという意味では「無益な者」です。しかし いまやパウロから洗礼を受けてキリスト者となり、伝道の助け手(キリストの僕)として立派な主の僕 =すなわち「有益な者」になったのだということを、パウロはピレモンに訴えているわけです。もと もとパウロは伝道の同労者を選ぶのに安易な妥協をしなかった人です。使徒行伝15章36節以下には、 マケドニアへの伝道に出発するに際し、マルコという名の弟子が一度だけ主の御業に不忠実であった ことを理由に同行を許さず、その処遇を巡ってバルナバと物別れになったとさえ記されています。そ のようなパウロがあだやお世辞で「彼(オネシモ)はわたしの心である」(12節)または「わたしは彼(オ ネシモ)を身近に引きとめておいて、わたしが福音のために捕われている間、あなたに代わって仕えて もらいたかったのである」(13節)と語ったはずはないのです。つまり、パウロをして「彼はわたしの 心である」と言わしめるほど真実なキリストの僕へとオネシモは成長したのです。主にありて文字ど おり「有益な者」(オネシモ)となったのです。そのことをパウロはピレモンに訴えているのです。  パウロはそこで、改めてピレモンに願っています。これはパウロの熱き祈りでもありました。この 世の法律や社会通念でオネシモを審くのではなく、主にあって、キリストに贖われ新しい者(有益な者) となったオネシモを、どうか「わたし同様に受けいれてほしい」と願うのです。「キリストにある愛の ゆえに」「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として」オネシモを迎えて欲しい と懇願するのです。18節を見ますと「もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何 か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい」とまで語っています。「このパウロが手ず からしるす。わたしがそれを返済する」。そして「この際、あなた(ピレモン)が、あなた自身をわたし に負うていることについては、何も言うまい」と語っています。つまり、ピレモンもパウロによって キリストに導かれた人であった。同じようにオネシモも、今はキリスト者になったのであるから、も はや彼は逃亡奴隷などではなく、主にある「愛する兄弟」ではないかと訴えているのです。  これはオネシモだけではない。パウロもピレモンも、そして私たちもまた、十字架の主イエス・キ リストの贖いによって救われ、教会に加えられるまでは、神の御前に「無益な者」つまり「罪人のか しら」にすぎなかったのです。私たちは一人の例外もなく、主かお播きになった御言葉の種に対して 「道ばた」「石地」「いばらの中」でありました。その意味で私たちこそ「無益な者」なのです。その 私たちを主は御国の民として下さった。私たちのために十字架にかかられ、祝福の永遠の生命に連な らせて下さったのです。死せる者に永遠の生命(死に打ち勝つまことの生命)を与えて下さったので す。「無益な者」を「有益な者」として下さるために、主は十字架におかかり下さり永遠の贖いとなら れたのです。そして私たち全ての者を、御言葉を聴いて信じる「良い地」に変えて下さったのです。  この恵みを宣べ伝える者として、パウロはさらに今朝の御言葉の15節において、実に驚くべきこ とを語っています。「彼(オネシモ)がしばらくの間あなたから離れていたのは、あなたが彼をいつまで も留めておくためであったかもしれない」。これは新約聖書の中でも特に翻訳が難しい言葉です。あえ て直訳するならこうなるでしょう。「彼(オネシモ)がしばらくの間あなた(ピレモン)から離れていたの は、あなたが彼(オネシモ)を奴隷としてではなく、主にある兄弟として、永遠に留めておくための神 のご配慮であった」。私たちは思いがけない出来事に遭遇したとき、信仰も何もかも忘れて混乱し狼狽 し、神以外のものに解決を委ねてしまうことがあります。自分にも社会にも、苛立ちしか感じなくな る時がある。そのような私たちにこそ、今朝のピレモン書は、御言葉を聴いて生きる者にのみ約束さ れた、本当の自由と幸いを告げているのです。あなたは御言葉に全てを委ねて生きることができる。 キリストの変わらぬご支配の内に進むべき本当の道を見いだすことができる。そう告げているのがピ レモン書です。ですからピレモン書はただ単に一人の逃亡奴隷の成長の記録ではない。単なる回心の 物語でもない。ここに告げられているのは、死すべき私たちに現われた新しい創造の御業であり、御 言葉と御霊によって新たにされ、造り変えられた者の永遠に変わらぬ祝福なのです。それは人間の内 なる可能性の延長にある救いなどではなく、罪と死という決定的な限界のただ中に、ただキリストに よって与えられた確かな救いの音信であり永遠の生命の輝きなのです。  だからこそ、使徒パウロはコロサイ書3章11節に「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人割礼 と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべての もののうちにいますのである」と語っています。「主によって召された奴隷は、主によって自由人とさ れた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷」なのです。私たちにも、同じ恵みがいつも 豊かに与えられているのです。キリストに結ばれ、贖われた者として、私たちは主にある兄弟姉妹た ちなのです。いま私たち一人びとりが主の訪れを受けています。すでにその恵みにおいて私たちもま た「良き地」「有益な者」とされています。限りない実りが、人生全体の祝福が、私たち一人びとりに 豊かに現れているではないか。いつもキリストの愛と導きの内を歩む者とされているではないか。そ れは決して、変わることはないではないか。主ははっきりと、今朝のみ言葉を通して私たちに語って いて下さるのです。