説    教    イザヤ書6章1〜8節  ルカ福音書22章42節

「預言者の祈り」

2015・09・13(説教15371607)  「人形の家」を書いたノルウェーの劇作家イプセンの戯曲に「ブラン」という作品があります。1866 年ですから今から150年ほど前に書かれた叙事詩的戯曲です。主人公のブランは牧師です。この作品の 背景として19世紀ノルウェーにおける教会の国家統合政策、つまりルーテル教会に対する国教会化(教 会の国家への従属化)政策に対する反対運動がありました。教会は国家に従属する機関であってはなら ない。教会のかしらは主キリストのみであり、信仰告白に基づく自主独立の教会(キリストの共同体) であらねばならない。そのような自由教会の理念は今日のスカンジナビアのプロテスタント教会に受け 継がれた信仰の基本姿勢であり、キェルケゴールの教会観にも色濃く現れているものです。とまれ、こ の作品においてイプセンが主人公ブランを通して伝えようとしていることは、私たちの「祈り」が本当 に神に献げられる真実の「祈り」になっているだろうか、という厳しい問いなのです。  もしかしたら私たちは「祈り」に名を借りた自己主張(自己保全)の罪をおかしてはいないであろう か。教会の屋台骨である信仰告白が国家の庇護下にある法制度に過ぎなくなる危険はないであろうか。 なによりもこれは「祈り」の問題なのだとイプセンは語るのです。教会の「祈り」こそこの世界に神の 御業を現す祝福の器である。私たちの祈りはそのようなものになっているだろうかと問うのです。それ は端的に申しますなら、私たちの献げる「祈り」が神の御前に自分が“死ぬ”ものになっているだろう かという問いです。祈りにおいて神の御前に“死ぬ”とは、聖なる神の現臨と御言葉の前に自分が打ち 砕かれた者になることです。その意味で真の「祈り」は真の礼拝に繋がるのです。それだけがこの世界 に真の自由と平和と平等をもたらすものだ。イプセンが「ブラン」を通して語っているのはそういうこ とです。  今朝イザヤ書6章1節から8節の御言葉を与えられました。預言者イザヤは、今まさに聖なる神の御 前に立たしめられています。そこでイザヤは「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と申しま す。ここを宗教改革者ルターは「わたしは無に帰するだけだ」と訳しました。フェアニヒテルンという ドイツ語が用いられています。「わたしはニヒツ(虚無)に帰すべき存在だ」という告白です。イザヤの 「祈り」は真の悔改めと真の礼拝へと向かう「祈り」です。いまイザヤは聖所において「聖なるかな、 聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」という天使の讃栄を聴いています。そこからイザヤは自分の罪の 大きさを知り、まことの悔改めへと導かれるのです。すなわちイザヤはこう告白します。「わたしは汚れ たくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見た のだから」。  わが国のすぐれた哲学者である森有正が「古いものと新しいもの」という講演集の中でこのように語 っています。「現代における信仰の意義」という講演の一節です。『人間の状態は…状態である以上は一 つの状態から他の状態へと移ってゆく、…それは時間という言葉に代表される。人間における時間とい うのは、人間の経験ということです。つまり最後は死に向かって進んで行くということ、いちばん最後 の目標は、キリストどころではなくて死なのです。それは人間の経験なのです。これはもう動かすこと のできない目標です。他のいかなる嘘があってもこれだけは嘘にならない…けれども…経験の終わりが 死だという時に、いちばん大きな問題は、どうも私どもはなかなか死ぬことはできない、ということな のです。死ねれば、それは大いに結構です。ところが、死ぬことができないものが残ってしまったらど うなるか、ということが、問題なのです。それは言うまでもなく人間が持っている神の前における罪の 問題です。罪があったら人間死ぬことができないですよ。罪が解決しないでどうして死ぬことができる か、という問題、つまり死は経験の終わりですから、経験の終わってしまった時に罪が解決できないで いたら、その罪は永遠に残るわけです』。  イザヤの祈り、イザヤの告白は、神の御前における罪の告白であると同時に、人間経験の中では絶対 に解決できない、罪の赦し(贖い)を求める祈りへと繋がるのです。そうならざるをえないのです。な ぜならイザヤが告白した「わたしは無に帰する」とは、罪の問題を解決するために自分の経験(自分の 存在)は完全に無力だということだからです。ですからこの罪の問題の解決はただ神の側から一方的に もたらされる恵みです。すなわち6節をご覧下さい「この時セラピムのひとりが火ばしを持って、祭壇 の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、わたしの口に触れて、言った、 『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた』」。  預言者イザヤにとって「祈り」とは“自分が御前に立つことのできない聖なるかたの前になおも立つ こと”でした。それならば“罪の赦し”とは“自分が御前に立つことのできない聖なるかたの前に立つ ことを赦される”恵みです。ですから「祈り」とは、罪によって死ぬべき、死の支配のもとにある私た ちが、活ける聖なる神の御前に、罪あるがままにいま立つことを赦されているということ。それが私た ちを「祈り」へと導く恵みなのです。私たちはみずからの経験の終わりとして死を迎えるほかない存在 です。しかも死によってさえ逃れえない罪の支配が私たちを「死んでも死にきれない」存在にしていま す。それならば、私たちが「祈り」の幸いに導かれているということは、そういう人間存在の限界を超 えた神の恵み(また人間の経験を完成させ、死を超えた真の生命を与えたもう神の恵み)の中に私たちの 生活の中心を据える幸いです。「祈り」とはそのような、私たちを死から生命へと甦らせたもう十字架の 主イエス・キリストのご支配のただ中に、私たち人間の存在と経験を超えた神の確かな祝福の中に、私 たちの人生の基礎を据えることです。  そのような「祈り」に生きるとき、私たちはどのような幸いと自由へと招かれているのでしょうか。 私たちの心は今朝の8節へと導かれます。「わたしはまた主の言われる声を聴いた、『わたしはだれをつ かわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおりま す。わたしをおつかわしください』と」。私たちの「祈り」の生活は礼拝者の生活です。礼拝の最後は祝 福(祝祷)ですね。私たちは十字架の主イエス・キリストにより、私たちの罪を贖って下さった神の愛と 恵みのもと、新しいキリスト者の自由、キリスト者の生活へと遣わされてゆくのです。神への感謝に生 きる新しい生活が始まるのです。「だれがわれわれのために行くだろうか」と複数形で語られているのは “天上の会議”という旧約の思想が背景にありますが、そこには父・御子・聖霊なる三位一体の神が示 されています。私たちが罪の赦しと贖いに生かされることは、三位一体なる神の永遠の祝福の内に教会 によって招き入れられた新しい人生を生きる幸いです。人生そのもの、存在そのものの意味と目的が明 らかになるのです。死の支配を打ち破る新たな生が始まるのです。  ですから、原文のヘブライ語の「ここにわたしがおります」とは決して自分を立てる返事ではなく、 端的に「はい」という従順の言葉です。神の赦しと真実に対して、その赦し真実の中でこそ自分はいま 立つ者とされている、その恵みに対する「アーメン」という返事なのです。「祈り」において自分に死ん だイザヤは、まさにその罪の破れのただ中で、自分のいっさいを神の御手に明け渡しているのです。自 分を立てるのではなく、立ち上がらせて下さる神の御手に、自分の全てを委ねているのです。だからイ ザヤは「わたしは誰をつかわそうか」と語りたもう神に対して「はい」(アーメン)と応えました。然り を然りとなす以外にないのです。自分の中の何を否定しようとも、独子イエス・キリストを世に与えた もうたほどに私たちを愛し、私たちを救って下さった神の真実に対して「はい」(アーメン)と答える以 外にないのです。  そこで私たちのまなざしは、主イエスの「ゲツセマネの祈り」へと向かうのではないでしょうか。ゲ ツセマネにおいて主は祈られました「…しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてく ださい」と。先日、あるかたが私に質問をなさいました。このゲツセマネの祈りについて、主イエスは どうしてこんなにも苦しんで祈られたのでしょうかと問われたのです。私はそのかたにこうお答えしま した。私たちは愛する自分の家族の一人が病気になってさえ心の底から心配し、その人の苦しみや悲し みや辛さを共にしようと心砕くでしょう。それならば、全ての人を限りなく愛し、全ての人の罪を一身 に担われて十字架におかかりになった主イエスの御苦しみはどんなに大きかったことでしょうか。主イ エスは「わたしの思いではなく(神の)みこころが成りますように」と祈られたのです。ほかならぬこ の私に、まさにこの私の存在に、御父よあなたの御心が成就しますようにと祈られたのです。それが測 り知れない御苦しみであることを知りつつ、私たちのために苦難の杯をお受け下さったのです。主イエ スは私たちの永遠の救いと贖いのために、ご自分の全てを献げて父なる神に執成しをして下さったので す。  今朝のマルコ伝14章32節以下の並行箇所であるルカ伝22章44節を見ますと「イエスは苦しみもだ えて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」と記されています。 この「ますます切に祈られた」とはギリシヤ語のアオリスト(未完了過去形)です。つまり主イエスは、 ただあるとき夜通し祈られたというだけではない。とどまることなくいつまでも、不断にこの祈りを献 げ続けて下さる救い主として私たちと共におられるのです。私たちの罪の矢面に立たれるのです。この かたのみが肉を裂き血を流したもうて私たちを贖い、全世界の救いのためにご自分の全てを献げ尽くし て下いました。ですから私たちの日々の「祈り」の生活、真の神との真の交わりに生きる礼拝生活は、 まさにこの主イエスのゲツセマネの祈りによって、いつも満たされ支えられているのです。なぜなら、 主イエスのみが私たちのために十字架におかかりになり、罪の贖いと限りない赦しを与えて下さったか らです。私たちの「祈り」はいつもキリストの贖いの恵みに支えられているのです。  だからこそ私たちは、いつも「祈り」を(礼拝を)絶やさず生きる者とされているのです。いつも神 の御前に、喜びと平安をもって立つ者とされているのです。祈りにおいていつも、古き自分を神の御手 に明け渡す僕とされているのです。私たちを御業のためにお招きになる神に対して「はい」(わたしがこ こにおります=アーメン)と応える者とされているのです。この祈りの生活から、キリスト・イエスに おける神の愛から、私たちを引き離しうる力は存在しません。キリストが主であられる、勇気と確信と 希望と平和に満ちた新しい人生の歩みへと、私たち一人びとりが、主の教会によって招き入れられてい ることを覚え、心を高く上げて信仰の道を歩んで参りましょう。  最後にひとつのことを申します。本当の祈りの生活は、神に私たちを明け渡す生活ですから、祈りが 聴かれないということはないのです。私たちは自分が願うままに祈りが聴かれなければ、その祈りは聴 かれなかったのだと考えがちです。しかしそうではありません。祈りによって私たちが神に自分を明け 渡すとき、祈りは必ず聴かれるのです。その時その場では聴かれなかったように見える祈りでも、実は 祈りが聴かれなかったのではなく、私たちの思いを超えた仕方で(神が最も良しとしたもう仕方で)必ず 聴かれるのです。だから私たちは目覚めていようではありませんか。やがて主が来たりたもうその日「わ たしがここにおります」と健やかにお応えできる信仰の生活を、私たちは倦まず弛まず努めて参りたい と思います。