説    教   エゼキエル書9章3〜4節  ガラテヤ書6章17〜18節

「イエスの焼印」

2015・09・06(説教15361166)  パウロは今朝のガラテヤ書6章17節、つまりガラテヤ書の終わりにおいてこのように語っています。 「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだ から」。この言葉は手紙の末尾を飾るものとしては極めて異例のものと言えるでしょう。その少し前の6 章11節にも異例の表現が見られます。すなわちパウロは「ごらんなさい、わたし自身いま筆をとって、 こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを」と申しています。既に目の病に侵されていたパ ウロは、手紙の末尾のサインを記すにあたり「こんなに大きい字」でしか書けなかったのです。「こんな にも不格好な署名になってしまったが、どうか許してほしい」と、ガラテヤの教会の人々に理解を求め ているのです。  さらに15節を見るとこのように記されています。「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造 られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。 また、神のイスラエルの上にあるように」。これは大変な言葉です。異邦人キリスト者とユダヤ人キリス ト者双方の争いと分裂の問題を解決するためにこのガラテヤ書を書いたパウロでした。そのパウロが今、 異邦人キリスト者の上にもユダヤ人キリスト者の上にも、同じ主の限りない祝福と恵みがあるようにと 祈り求めているのです。両者は割礼の問題を巡って対立し分裂したけれども、いま私は宣言する、その 両者ともに同じキリストの贖いの恵みによって結ばれ、祝福の器とされているではないか。どうかキリ ストの福音に立ち帰って、神の栄光を現わす教会へと成長してほしい。これがガラテヤ書全体の締め括 りであり、パウロの説教の要点でした。  こうした大きな祝福の出来事を告げつつ、パウロ敢えて手紙の最後に今朝の17節をも書き記してい るのです。「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びて いるのだから」。祈りをもって手紙を書き始め、祈りを豊かに適えて下さる神の導きを信じ、ただ主の御 手に委ねて手紙を書き終えたパウロでした。手紙の中で、激しい口調で悔改めを迫り、虚心坦懐かつ大 胆に訴えもしました。しかしいまパウロは全てを主の御手に委ね、真の教会形成の課題を必ず神が実現 させて下さることを確信して筆を置こうとしています。争いと分裂を重ねたガラテヤ教会の人々が必ず 恵みの福音に堅く立つことを信じて「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい」と言ったので す。それは「もう二度と面倒をかけないで欲しい」と突き放したのではなく、主がガラテヤ教会に御業 を現わして下さることを確信しての一言でした。  主なる神が成し遂げて下さる教会形成のわざに全幅の信頼をよせること、この当然のことを私たちは 忘れやすいのではないでしょうか。日常の生活の中でも、祈りをもって始め、祈りつつ事に当たり、祈 りをもって終えようと心掛けながらも、果たして祈りが聞かれるかどうか、あんがい私たちは疑ってい ることが多いのではないでしょうか。パウロがもし、ガラテヤの人々の悔改めを期待できずにいたのな ら、そしてなお心痛むことが続くだろうと恐れていたなら、それこそ祈りを聞きたもう神への不信仰と なっていたでしょう。福音を正しく理解して欲しいと願ったパウロは、必ずや理解してくれると信じて 手紙を書き終えようとしているのです。  だからこそパウロは、この主にある確信の上に立ってこそ、そこで「わたしは、イエスの焼き印を身 に帯びている」と語ることができました。それは「私はキリストのもの、キリストの奴隷であり、また キリストの使徒である」という恵みの事実を明確に伝えていることです。思えばパウロは、エルサレム から来た偽教師たちの策謀によって使徒性(キリストの使徒であることの正当性)を疑われ、律法主義者 たちから誹謗中傷され、キリストの十字架と復活を語ったために迫害を受け、その傷を身に受けていま した。その傷をパウロはいま「イエスの焼印」と表現しているのです。  「焼き印=スティグマ」とは、文字どおり動物や奴隷に対して、所有者の印を焼き付けることでした。 パウロは本来は屈辱的なその言葉を自分に当てはめ、自分は主イエスの僕、すなわちキリストの奴隷で あること、主イエスご自身の所有とされた「使徒」であることを明確に言い表したのです。しかもここ でパウロが「焼印」という場合、それは「スティグマタ」という複数形です。これはパウロが迫害によ って数多くの傷を身に受けていたことを示しています。まさにその数々の傷こそ「イエスの焼き印」を 戴いた恵みであり、主イエスの所有とされた「印」であると言うのです。この「焼き印」を帯びている パウロの(ガラテヤの教会の)働きの主体は主イエスであり、所有者である主イエスご自身が結果を与え て下さることをパウロは確信していました。パウロは主への全き信頼をもって、主の御手に全てを委ね つつ、伝道と牧会(教会形成)のわざに全力で励んだのです。  迫害によって受けた傷跡はパウロに日夜さまざまな苦痛を与え、病気を引き起こす原因ともなり、そ れこそ伝道の足を引張る「とげ」となっていました。事実パウロはルステラでは石投げの刑を受け、そ の傷を見た人々は誰もが「パウロは死んだ」と思い、パウロは町の門の外に「死体」として引きずり出 されたと記されています(使徒14:19)。こうした迫害の傷跡は枚挙にいとまがありません。例えば第二 コリント書11章22節以下には「苦難のリスト」と呼ばれる聖句があります。「死に面したこともしばし ばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたこと が三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ 兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さ に凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心 配ごとがある」。  こうした数々の傷跡が、まさしく「イエスの焼き印=スティグマタ」としてパウロの身体に刻印され ていました。それを目にするたび、パウロは主イエス・キリストご自身の十字架を仰ぎました。主が私 たち全ての者の罪のために十字架におかかり下さったこと、ただ主の御傷によって私たちの罪が赦され たこと、神の恵みと憐れみによっていま生かされていること、キリストの僕としてキリストのものとさ れ「使徒」として遣わされていること、今ある自分の幸いと自由と責任と務めを思い、いっそう心熱く 主に仕える僕とされたのです。ですからパウロにとって「焼き印」とは、苦しみや痛みや恥辱の印では なく、幸い、喜び、自由、そして勝利と希望を心に漲らせる主の恵みの「印」でした。これ以上「焼き 印」を身に帯びたくないどころか、今後も恐れず「使徒」として進み行きたいと願うパウロでした。そ の思いをこめて、最後に祝祷をもって手紙を閉じているのです。  18節です。「兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるよう に。アァメン」。私たちもいま、この祝福を生活の中で受継ぐ主の僕とされているのではないでしょうか?。 そして私たちは忘れてはならないと思います。実は私たちの身にも「イエスの焼き印」が押されている のです。その第一は洗礼の恵みです。キリストを主と告白して洗礼を受け、教会の枝とされたことは、 私たちが紛れもなく「イエスの焼き印」を身に帯びさせて戴いたことです。第二は、私たちが日々の生 活の中から繰返し礼拝者としてここに集められていることです。礼拝に初めて来た人たちはここで何を 見るのか?。それこそ「イエスの焼き印」を嬉々として身に帯びているキリスト者の姿ではないでしょ うか。屈辱の十字架が祝福と平和と救いの印となったように、いま「イエスの焼き印」は世界に対する 救いの印となったのです。第三に、私たちもまたパウロと同じように、肉体の病気を受けることがあり ます。病気に苦しむことがあります。その時、私たちは思い起こしたいのです。「イエスの焼き印」を自 分も身に帯びさせて戴いていることを。そしてパウロと共に十字架の主イエスを仰ぐ者とされたいので す。  私たちは十字架の主イエス・キリストを信じたことによって、いま確かに「キリストのもの」とされ ているのです。目に見える「焼き印」はないかもしれない。しかし目には見えずとも霊の「焼き印」を 私たちも受けています(ヨハネ黙示録14:1、22:3〜4)。その意味で私たちの人生は、この世で自分のも のでありながら、全責任は主イエス・キリストが負って下さるものなのです。十字架のキリストを仰ぎ 見、復活のキリストの生命に生かされていることを信じて生きるなら、私たちもまた確かに「イエスの 焼き印」を押されているのです。私たちの歩みは神によって天の御国に至るまで導かれる歩みです。こ の世で自分中心にだけ生きるのではなく、天の御国に至る人生をキリストを信じて歩ませて戴けるのは、 まことに幸いであり感謝であります。キリストの所有とされた者の歩みは、キリストが共に歩んで下さ る確かなものとなっているからです。どうか私たち一人びとりが、主にある幸いな人生を歩む僕となり たいと思います。