説     教    ハバクク書2章4節   ガラテヤ書2章15〜16節

「キリストの義によりて」

2015・08・30(説教15351165)  今朝拝読しましたガラテヤ書2章15節において、使徒パウロは当時のユダヤ人全てが抱いていた根 強い民族的「誇り」を明らかにしています。それは「生まれながらのユダヤ人は、異邦人なる罪人では ない」という選民意識であり、パウロ自身が“パリサイ人サウロ”であった時に誰よりも強く抱いてい た「律法による義」でした。同じことをパウロはピリピ書3章5節以下に次のように語っています。「わ たしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、へブル人の中の ヘブル人、律法の上ではパリサイ人、……(そして)律法の義については落度のない者であった」。イエス・ キリストによる真の救いの喜びと確信を知る以前は、これらの民族的「誇り」が自分の全てであったと 語っているのです。  ユダヤ人は子供(特に男子)が生まれると八日目に割礼を受けさせ、十二部族ごとに名前を登録して、 契約の民(選ばれた救いの民)の一員と見做しました。しかしその反面ユダヤ人ではない「異邦人」につ いては、割礼なき呪われた者、神を知らぬ偶像崇拝者、汚れた「地の民」と見做し、救いに値せぬ「罪 人」であると考えたのです。先ほどのガラテヤ書2章15節にある「異邦人なる罪人」という言葉は「律 法による義を持たぬ者たち」という意味です。ユダヤ人にとって「異邦人」は「罪人」と同義語でした。 異邦人と食事を共にすること、一緒に道を歩くことさえ忌み嫌ったのです。主イエスに接したパリサイ 人(律法学者)らが最も驚いたことは、主イエスが平然と異邦人たちと同じ食卓で食事をされたことでし た。彼らは弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、異邦人などと食卓を共にするのか」と訝しんだの です。イエスが“神の子”であるなら、そうした穢れた輩とは交際などしないはずだと思い込んでいた のです。  そこで実は、こうした民族的「誇り」は何も、ユダヤ人だけのものではありませんでした。聖書はも うひとつギリシヤ人にも、彼らなりの「誇り」があったことを伝えています。パウロは第一コリント書 1章22節において「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字 架につけられたキリストを宣べ伝える」と語っています。十字架の福音をさえ拒絶するギリシヤ人の「誇 り」とは「知恵」と「知識」と「文明」でした。彼らはギリシヤ哲学の知恵、そしてヘレニズム文明を 誇りとし、ヘレニズム文明の外殻にあった他民族を「未開人」(バルバロイ)と呼んで蔑み、自分たちこ そ世界の支配者であると自負していました。その点では、ユダヤ人の「誇り」に負けぬ強烈な自意識が ギリシヤ人にもあったのです。  さて、このようなユダヤ人とギリシヤ人双方の根強い民族的「誇り」は、ユダヤ教から改宗してキリ スト者になったユダヤ人、あるいはギリシヤ人であって洗礼を受けたいわゆる「異邦人キリスト者」の 中にもなお残っていました。実は初代教会における混乱や分裂の危機のほとんどが、この2つの民族の 「誇り」による対立と審き合いに原因を持っていたと申して過言ではありません。とりわけユダヤ人キ リスト者らにとって、主イエス・キリストもまた自分たちユダヤ人だけの救い主だという意識がありま した。彼らによれば、ギリシヤ人などの「異邦人」は洗礼を受けただけでは救われず、まず割礼を受け てユダヤ人にならねばならない。ユダヤ人として受ける洗礼だけが救いの根拠であると主張したのです。 これがいわゆる「ユダヤ人キリスト者」の問題でした。  これは端的に申しますなら、私たち人間が救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じて教会に 連なることによるのではなく、割礼を受けてユダヤ人になることによるのだと主張したことです。つま り人間の救いはキリストにではなく律法にあるのだと主張したわけです。洗礼よりも割礼が人間を救う のだと主張したのです。このような一部の「ユダヤ人キリスト者」たちの頑迷な主張に対して使徒パウ ロは、救いはただイエス・キリストにのみあるのであって、割礼の有無などは全く問題にならないとい うことを、今朝の御言葉において明らかにしているわけです。すなわちパウロは今朝の16節以下にお いて、律法によっては誰も救われず、割礼は空しい「律法の義」にすぎないことを明らかにしています。 「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを 認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キ リストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義 とされることがないからである」。  主なる神は深い摂理の御手をもって「律法の義」に最も熱心であったパリサイ人・ユダヤ人サウロを 選んでキリストの使徒パウロとなし、ユダヤ人と異邦人双方に対する福音の使徒としてガラテヤにお遣 わしになりました。そして幾多の困難の末、ガラテヤには有力な教会が建設されたのです。しかしガラ テヤ教会は地域的な特質として、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在する教会でした。問題 をさらに複雑にしたのはエルサレムのユダヤ人キリスト者たちでした。彼らは信じがたいことに、パウ ロの伝道の妨害をはじめたのです。すなわちガラテヤ地方の諸教会に「偽教師」を送りこみ、パウロに 対する誹謗中傷を言い広めたのでした。パウロは本当の使徒ではなく、その教えには権威がないと、信 徒たちに言い触らしたのです。誕生して間もないガラテヤの教会は、この偽教師らの誹謗中傷合戦によ って大きな混乱に陥りました。「割礼」が必要だと主張していたユダヤ人キリスト者たちにしてみれば「そ うれ見たことか、我々の主張が正しいことが証明されただろう」と勢い付き、それに対して「いやそう ではない、救いはキリストのみにあり、洗礼だけが救いの条件である」と主張する異邦人キリスト者が 対立して、ここにガラテヤ教会は深刻な教会分裂の危機に直面したのです。  この深刻な事態を受けてパウロは、このガラテヤ書3章1節において「ああ、物わかりのわるいガラ テヤ人よ、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いった い、だれがあなたがたを惑わしたのか」と厳しく問うています。あなたがたが救われたのは、律法によ ってではなく、キリストによってではなかったか。それなら、聖霊によって始めた教会形成を、なぜ今 になって律法で仕上げようとするのかと、鋭く問うているのです。これらのことは二千年前の、ガラテ ヤ教会だけの問題でしょうか?。そうではないと思うのでます。まさにここには今日の私たちが自ら顧 みて立ち帰るべき信仰の、また教会形成の根本的な問題が示されているのではないでしょうか。十字架 の主イエス・キリストから離れて、目に見える安直な救いに頼ろうとする誘惑は、ガラテヤの教会と同 様、今日の私たちにもあるからです。パウロが「物わかりのわるい」と言うのはまさに信仰の問題です。 なるほどユダヤ人には「律法の義」があり、ギリシヤ人には「知恵」と「知識」と「文明」があるかも しれない。しかしそうしたものが人間を救うのではなく、救いはただ十字架の主イエス・キリストの福 音にのみあることをパウロは明らかにしています。  なによりも既に私たちのただ中に、十字架にかかられた主イエス・キリストが臨在しておられるので す。教会生活とはそういうことです。キリストの恵みの臨在のもとに生きる新しい生活。その幸いと喜 びと自由を知るはずのあなたがたが、なおそこで自分の正しさ(律法の義や知恵や知識)に固執して兄弟 たちを審くならば、それは「聖霊によって始められた教会形成を、律法によって仕上げる」ことに等し いとパウロは言うのです。だから、ここにはっきり現れているのは「信仰の問題」です。十字架の主イ エス・キリストのみを仰ぐ信仰こそ、空しいものを誇りとし、それに拠り頼み、他者を審こうとする私 たちを、真に自由なキリストの僕となすのです。だからこそパウロは同じガラテヤ書3章6節に、いさ さか唐突な印象でアブラハムのことを語っています。「このように、アブラハムは『神を信じた。それに よって、彼は義と認められた』のである」。  信仰のないところにこそ、空しい「誇り」が私たちを支配するのです。アブラハムは何の可能性もな いところで、ただ主なる神を信じて御言葉に従いました。その信仰によって彼は「義と認められた」の です。この「義と認められる」とは、神の恵みによって救われ、贖われ、新たに生きる者となることで す。キリストの復活の生命に連なる僕とされることです。そこに真の教会が形成されてゆきます。各人 が心をひとつにして教会に仕え、喜びをもって礼拝者となるとき、伝道のわざはその地域において思い を超えて前進してゆくのです。私たちがいま、そのようなキリストの臨在したもう群れに連なる僕らと されている。その絶大な救いの恵みをしっかりと見据えるあなたでありなさいと、今朝のガラテヤ書は 語っています。私たちはいつも心をひとつにして主に仕え、教会を大切にし、真の礼拝者として生きる、 そのような「キリストの義」に生きる群れであり続けたいのです。  パウロはこのガラテヤ書2章15,16節において、人はただ「信仰によってのみ義とされる」という福 音を、何者をも恐れず、神のみを畏れる真の勇気と喜びをもって宣言しています。これは宗教改革者た ちによって強調されたことであり、私たち改革長老教会の基本的な福音理解の根幹をなすものです。ル カ伝18章9節以下に、主イエスは2人の人の祈りを取りあげ「神からの義」のみが人を救うことを明 らかになさいました。あるところに2人の人がいて同じ時刻に神殿で祈りを献げたのです。一人はパリ サイ人、もう一人は罪人である取税人でした。パリサイ人は立って自分を誇り、取税人を蔑む祈りをし ます。かたや取税人は目を天に向けることもできぬまま、ただ呻くように「主よ、罪人のわれを赦した まえ」と祈ったのです。主イエスは宣言されます。「神に義とされて家に帰ったのは、あの取税人であっ て、パリサイ人ではなかった」と。理由は明白です。パリサイ人は自分の義(正しさ)に拠り頼み、神の 義(神の恵み)に拠り頼んでいなかったからです。モーセの十戒も「わたしはあなたの神、主であって、 あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という、一方的な救いの宣言によって始ま っています。つまり律法は、神の民として贖われた人々に与えられた、新しい自由の生活の道しるべで あり、大切なことは、神(キリスト)の救いの恵みが先にあるという事実です。ただそれだけが大切なの です。私たち罪人のかしらを贖うために、主がまず呪いの十字架にかかって死んで下さった。その救い の事実によってのみ、私たちはいっさいの罪を贖われ、新たな者とされ、キリストの義に生かされるの です。  漢字の「義」という字は古代中国語で傷なき羊を神前に献げる姿を現していると言われますが、これ を信仰的・聖書的に読み解きますなら、義という漢字は「我」の上に「神の子羊」(すなわちキリスト) を戴いている姿を現すものです。この字が示すように、私たちは自分の上に(つまり自分の生活を支える 根本として)まず神の子羊・十字架の主イエス・キリストを信じ、主の建てたまいし教会に連なり、御言 葉の養いのもと礼拝者として歩むことにおいて「神の義」(キリストの義)に生きる僕とされるのです。 そこにはなんの差別もありません。  私たちはいま、教会に結ばれて、自分の空しい義をかなぐり捨て、神の永遠の子羊なる十字架の主キ リストと共に、キリストの恵みの内を、永遠に変わることなく歩む者とならせて戴いています。取税人 が義とされたのは、ただこのキリストの義のみが、死すべき自分を生かすことを信じたからです。私た ちも同じです。そしてパウロも同じです。先にはパリサイ人としての「誇り」が自分の全てであった。 しかしキリスト・イエスの絶大な恵みを知る喜びのゆえに、自分はいまやそれらのものを「塵芥」のよ うに見なして顧みない、その幸いと自由に生きるパウロと共に、私たちも教会を大切にし、礼拝者たる 歩みを貫くものでありましょう。全ての人のために十字架に死なれ、墓に葬られ、甦りたまいしキリス トの恵みのみが、罪に死せるサウロをして、神の使徒たるパウロとなしたように、私たち一人びとりも また、そのキリストの義によって生かしめられている幸いに、新しい一週間も支えられつつ歩んで参り たいと思います。