説    教   出エジプト記16章13〜16節  ヨハネ福音書4章31〜34節
                   

「まことの食物」

2015・08・23(説教15341164)  私たち人間にとって、何が最も大切な食物なのでしょうか?。何が私たちを本当に活かす「日用の糧」 なのでしょうか?。そのことをご一緒に、今朝のヨハネ伝の御言葉を通して聴いて参りたいと思います。  何よりも、今朝のヨハネ伝4章31節以下の御言葉から、私たちを本当に生かす“まことの糧”が何で あるかを学び取りましょう。場所はサマリヤのスカルの町はずれにあるヤコブの井戸のかたわらです。主 イエスの弟子たちが町に食物を買いに行っている間、そこで一人の女性と主イエスとの「生ける水」をめ ぐる対話が繰り拡げられました。その事情を知らずに戻って来た弟子たちが、主イエスに食物を差し出し 「先生、召し上がってください」と申しますと、主イエスはそれに答えて「わたしには、あなたがたの知 らない食物がある」と言われたのです。  この時の弟子たちの対応は、キリストの弟子たるに相応しからぬものでした。彼らは主イエスに「その 食物とは何ですか?」とお訊ねすべきでありましたのに、福音の絶大な富に「あずかる」べきでありまし たのに、かえって互いに議論を始め「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのだろうか」と 言い合ったのです。つまり、この時の弟子たちには肉体を養う食物のことしか眼中になかったのです。弟 子たちの言う「だれか」とはおそらく、水瓶を置いたまま急いで町に去っていったサマリヤの女性のこと であったでしょう。「あの女性が自分たちの留守中に、先生に何か食物を持ってきて差し上げたのだろう か」と思ったのです。  そこで主は弟子たちに、その御言葉の意味を説き明かして下さいます。それが今朝の34節の御言葉で す。「イエスは彼らに言われた、『わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、 そのみわざをなし遂げることである』」。「わたしをつかわされたかた」とは、主イエスの父なる神のことで す。主イエスは神の永遠の独り子、御父と本質を同じくなし給うかたです。それゆえ、主イエスがこの世 界においでになったということは、永遠なる神ご自身が歴史の中に介入されたことです。無限にして聖な るかたが限定された人として私たちのもとに来られたのです。それは何ゆえにかと申しますと、私たちを 罪から贖い、救いと生命を与え、真の人間たらしめるためです。私たちはみな誰一人として例外なく、神 の御前に罪ある存在です。罪とは単に道徳的な悪や、法律に反することだけを言うのではありません。も しそれだけの意味であれば「自分には罪はない」と言える人も全くいなくはないでしょう。しかし聖書は 「義人なし、一人だになし」と宣言しています。それは「犯罪者はいない」という意味ではなく「神に義 とされる人は一人もいない」という意味です。たとえ人の前には義人でありえても、神の御前に義とされ うる人は一人もいないのです。  17世紀の哲学者パスカルは、人間の罪の問題を深く考えた人ですが、パスカルによれば、実は大切な罪 の問題ほど人間にとってわかりにくい事柄はない、しかしもし人間に罪なしとすれば、人間はいっそう不 可解であると申しています。わが国の哲学者で改革長老教会の牧師の家庭に生まれた森有正も、国際社会 において21世紀の人類が最も真剣に取り組まねばならない問題は「罪の問題」であると述べています。 しかもその最も大切な問題が、最も軽んじられている現実があるのではないかと問うのです。まさにパス カルが言うように、罪の問題ほどわかりにくいものはないからです。問題の深刻さが巧妙に隠されてしま うからです。  まさしく人間に、神に対する罪があるからこそ、今日の世界はかくも深く病んでいるのではないでしょ うか。新聞紙面に人間の罪の結果が報告されない日は一日もありません。新聞もテレビもまさに「人間の 罪の回覧板」の様相を呈しています。主イエスのエルサレム入場の日、ホサナ、ホサナと、主イエスを歓 呼して迎えた群衆が、わずか数日後には主イエスを呪い「十字架にかけよ」と絶叫するに至りました。そ れと全く同じ罪を私たちもおかし続けているのではないでしょうか。西行法師に「たそがれに往き来の人 の影絶へて道はかどらぬ越の長浜」という歌がありますが、千年一日のごとく遅々として進歩せず、孤独 の内に黄昏へと向かって歩んでゆく人類の姿が、実は全ての人間の実相なのではないでしょうか。それは 「願わくは花の下にて春死なむ」という自然回帰などでは決して解決できない、神の御前における問題な のです。  「罪」とはひと言でいうなら、私たちが神の外に出てしまったということです。私たちはロケットで地 球の表面からほんの僅か宇宙に出ただけで大騒ぎをしますが、この宇宙万物の創造主なる神から全人類が 出てしまった「罪」の事実に対しては驚くほど鈍感です。罪に対してかくも鈍感な私たちを贖い救うため に、神の御子イエス・キリストは人となられて十字架への道を歩まれ、私たち全ての者のために生命を献 げて下さったのです。言い換えるなら、神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が神の外に 出て下さったのです。神が神でないものになられたのです。それが十字架の主イエス・キリストの御姿で す。永遠にして無限なる神が、死ぬべき有限者になられたのです。イエス・キリストにおいて永遠が歴史 に突入したのです。私たちの罪のどん底のその遥かどん底にまで主はお降りになって、私たち自身さえ伺 い知りえなかった私たちの罪を、十字架の死によって打ち滅ぼして下さったのです。  主はまさに罪人なる私たちを極みまでも愛して、十字架への道をまっしぐらに歩んで下さいました。そ して主はまさに、そのご自分の十字架への歩みを、ご自分が父なる神から賜わった十字架の主としての歩 みの全てを、今朝の御言葉において「わたしの食物」と呼んで下さったのです。「わたしの食物というのは、 わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と語って下さったの です。主イエスは私たちに対する限りなき愛のゆえに「罪人のかしら」でしかありえぬ私たちを救うため に、ご自分の全てを十字架上に犠牲として献げて下さいました。永遠なる神が、罪人の呪われた死を、私 たちの身代わりに死んで下さった。その死によりて私たちを滅びから救い、復活の永遠の生命を与えて下 さったのです。義とされえぬ私たちに、ご自分の永遠の義を与えて下さったのです。それこそ聖書が全て の人に語っている主イエス・キリストの恵みであり、私たちが受けるべき「まことの食物」です。  教会をあらわす万国共通語はエクレシアとコイノニアです。エクレシアとは「神に呼び出され召された 者たちの共同体」という意味であり、コイノニアとは「主イエスが賜るまことの糧にあずかる者たちの集 い」という意味です。そこでコイノニアの元々のギリシヤ語コイノーとは「唯一の糧に共にあずかる」と いう意味です。その唯一の糧こそ十字架の主イエス・キリストなのです。教会とは何かと言いますと、教 会とは「十字架の主イエス・キリストを唯一の“まことの糧”として共にあずかる者たちの集い」であり ます。そこから使徒信条の「聖徒の交わり」という信仰告白が生まれ、私たちは礼拝において「聖なる公 同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白する群れです。  そうすると、私たちはいま、この礼拝によって、主イエスの御手から「まことの糧」を受けているので す。私たちを真に生かしめる唯一の「まことの糧」を、いま御言葉と聖霊によって現臨したもう主イエス の御手より豊かに受け、その御糧に養われつつ新しい一週間の旅路へと遣わされてゆく僕らとされている のです。教会は十字架のキリストの恵みに共にあずかることによって、全ての人々にキリストのみをさし 示し、キリストの救いの御業を宣べ伝える群れであります。  それゆえ、今朝の御言葉を、さらに深く心に留めたいと思います。主は弟子たちに、否、私たちに明言 したまいました。「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。気をつけて下さい。主はこの食物は 「あなたがたの知らない」食物であると言われました。この「知らない」とは「私たちがイエス・キリス トをほかにして、世界のどこにも見出すことはできない食物」という意味です。私たちは、私たちを本当 に罪から救い、人間として健やかに生かしめる「まことの糧」を、イエス・キリストをほかにして世界の どこにも見出すことはできないのです。それは逆に言うなら、こういうことです。たとえ私たちが人間と してはどんなに弱く、脆く、欠けの多い「土の器」にすぎなくても、もし私たちが十字架の主を信じ「イ エスは主なり」と告白して、教会に連なって生きるならば、そのとき私たちは無条件に何の値もなきまま に、この唯一の御糧に確かにあずかる者とされているのです。  私たちの資格や条件や能力や業績は何一つとして主の御前に問われないのです。ただキリストを信ずる 信仰のみが問われているのです。私たちのために生命を献げて下さった十字架のキリストを、全世界の主 にある民と共に、また、天にある贖われ全うされた聖徒らと共に、わが救い主・わが贖い主として告白す る信仰です。この信仰において一つに結ばれ、堅固な群れとなり、神の賜わるキリストの御糧に豊かにあ ずかってゆく時にのみ、私たちはここに、このピスガ台に、本当のキリストの揺るがぬ教会を形成し、福 音の旗印を高く掲げてゆく群れとされるのです。  私たちは、ご自分を「つかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げ」て下さった主が、 私たちをも御業のためにお用い下さり、私たちの内に始めて下さった良きわざを主の日までに完成して下 さることを信じるものです。そのような確信のもとに立つ群れとして、主イエスの御糧に豊かに養われ、 この礼拝の場からそれぞれの持ち場へと、主にある慰めと喜びの福音を携えつつ、遣わされて参りたいと 思います。