説    教    詩篇11篇1〜3節  マルコ福音書14章32〜42節

「ゲツセマネの祈り」

2015・08・16(説教15331163)  「ゲツセマネ」とは、ユダヤの都エルサレムの東に位置する小高い山(オリブ山)の中腹にあった 園(オリーブ畑)の名称です。そこからはエルサレムの街を一望に見下ろすことができました。「ゲツ セマネ」とはヘブライ語で「油絞りの場所」という意味です。まさにその言葉の示すごとく、主イエ スは私たちの罪のため十字架にかかられる前日、そこで血の汗を流され、激しい祈りの時を過ごされ ました。特に今朝のマルコ伝14章32節以下は息詰まるような厳しい場面の連続です。時は「最後の 晩餐」の直後でした。既にユダの裏切りがあり、弟子ペテロの離反の予告が主の御口よりなされまし た。だから弟子たちにとっても、ゲツセマネへの道は重い足どりでした。しかも主イエスはそこで8 人を離れた場所に残らせ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけをお連れになって、園の奥へと入って 行かれたのです。  34節以下には主イエスの御言葉とお姿が次のように記されています。まず主は「わたしは悲しみの あまり死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい」と3人の弟子たちにお命じにな りました。「目を覚ましていなさい」とは「堅く信仰に立ち続けなさい」という意味です。主は私たち に信仰による祈りを熱くするよう求めておられるのです。そしてさらにこう記されています。「そして 少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り つづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯を わたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってくださ い』」。  よく、聖書のこの場面が日本人には(日本人でなくとも)わかりにくいと言われます。古今東西、歴 史上の偉人たちの多くは、非業の死にあたっても従容として自らの運命に従いました。ソクラテスは 弟子たちの前で平然と毒杯を仰ぎ、吉田松陰は安政の大獄にあたり「留魂録」を獄卒の手に託して粛 然と死に赴きました。それに較べると主イエスはどうであられたか。主イエスは死を恐れ「潔くない」 ように見えるかもしれません。そこが武士道的伝統を尊ぶ日本人にわかりづらい所以です。ひとつの 例は芥川龍之介の短編小説「おしの」です。時は安土桃山時代、大阪夏の陣で戦死した侍の未亡人「お しの」が切支丹伴天連のもとに息子の病の癒しを求めてやって来ます。伴天連は彼女を聖堂に案内し、 キリストの御生涯を説き聞かせます。最初は神妙に聞いていたおしのでしたが、伴天連の話がゲツセ マネの祈りに及ぶや否や、一転して軽蔑の表情をあらわし、死を前にして脅えるなど侍の風上にも置 けぬうつけ者、かような弱卒にいかでわが子を託せようぞ、そう言い捨てて聖堂を立ち去るのです。  では、教会に連なっている私たち、キリスト者である私たちには、ゲツセマネの祈りは少しも「わ かりづらいものではない」と言い切れるのでしょうか。現代の人間であり、またキリスト者である私 たちにとっても「おしの」と同様、やはりゲツセマネの祈りはわかりづらいもの、時に「つまずき」 でさえありうるのではないでしょうか。それは、この「ゲツセマネの祈り」における主の御苦しみが 余りにも凄まじく、ある意味で非英雄的な主のお姿があるからです。もともと、神は苦しまないから 神であるという思想がイスラエルの人々にはありました。言い換えるなら、神は苦しみや死や悩みと は無縁であるからこそ「神」なのだと考えられていました。ゲツセマネで血の汗を流し、悲しみの余 り死ぬほどであると言われ、壮絶な祈りを献げられた神の御子は、ユダヤ的な「苦しまない神」とは 正反対のものなのです。  私たちはまさに「ゲツセマネの祈り」にこそ、福音の本質が現れていることを知らねばなりません。 そこには私たちの思いや計画を遥かに超えた神の救いの確かさが輝いているのです。そもそも、キリ ストの十字架の死とはいかなる死であったのでしょうか。旧約聖書によれば、十字架の死は神に遺棄 されること、永遠の呪い(永遠の死)を意味しました。そこで、私たちはそのような永遠の死を直視で きるかと言うと、そうではないのです。私たちは死の本当の姿を(本当の怖さを)知らずに過ごしてい ます。その意味で私たちは「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」なのです。  私は先日、古書店から石原謙全集を入手しまた。その中に会報があり、白井常女史による印象ぶか い文章がありました。石原謙は死の直前に白井女史に「死は本当に恐ろしい厳粛なものなのです」と 言われた。「生ける聖なる神の前に立たしめられることは、実に恐ろしいことです」と言われたそうで す。いろいろなやりとりがありまして、白井女史が「十字架の主にお委ねする以外ないのではござい ませんか」と申しますと「さよう、それを聴きたかったのです。十字架の主のみが人間の救いである」 と言われ、ついに平安の内に天に召されたというのです。もし私たちがこうしたことに疎いとすれば、 私たちこそ「いまだ生を知らず」と言わざるをえない者です。私たちの「罪」をひとことで言うなら、 それは神との交わりの外に出てしまうことです。神と無関係な存在として生きることです。しかし、 それほど重大なことなのに私たちはそれを自覚しないのです。神から離れ、神との交わりを失ってい ながら、なお自覚できずにいる存在、それが人間なのです。そこに人間存在の根本的な矛盾があるの です。  キリストはまことの神のまことの独子です。言い換えるなら、キリストのご生涯と御言葉には全世 界に対する神の御心が余すところなく現れているのです。キリストのご生涯は最初から終わりまで、 全てが私たちの救いと祝福のための贖いのご生涯です。主は私たちのために十字架にかかられ、罪の 贖いを成し遂げて下さったのです。まことの神は私たちを限りなく愛し、一人を罪から贖うために、 ご自分の全てを献げて下さるかたなのです。ごく単純なことを考えてみましょう。私たちは愛する者 が病気になったとき、心配で居ても立ってもおれなくなります。まことの神はなおさらでしょう。私 たちの「死に至る病」(罪)の現実を一身に担いたもう主の御心の内には、人知を遥かに超えた御苦し みと御悲しみが溢れたのです。いま、ゲツセマネで祈りたもう主の上に、その全ての苦しみ悲しみが のしかかっているのです。それが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と主が弟子たちに言わ れたことの意味なのです。だからこそ主は父なる神に祈られました。「アバ、父よ、あなたには、でき ないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いで はなく、みこころのままになさってください」。だからこそ主は十字架上において「わが神、わが神、 なにぞ我を見棄てたまひし」と祈って下さいました。  これは本来は、神に遺棄されるべき私たちが祈らねばならなかった祈りです。私たちにのみ相応し い祈りです。しかしそれを、滅びもろともに主が十字架上で担い取って下さったのです。だからここ には、全世界に対する唯一永遠の確かな救いが告げられているのです。「わが神、わが神、なにぞ我を 見棄てたまひし」。この十字架の主の祈りに触れるたびごとに、私たちは救いの確かさに感謝しようで はありませんか。  主イエスは十字架の上で、私たちの誰もが直視することすらできない、罪人たる者の永遠の滅びと しての死を身代わりに担い取って下さったのです。ただ主イエスだけが、十字架という「杯」を飲み 尽くして下さったのです。私たちが滅びずして、永遠の生命を得るために。私たちが神との交わりを 回復し、神の義を戴いて、新たな生命に甦るように、主はご自分の一身に、全世界の人々の「まこと の死」を担い取って下さったのです。神の外に出てしまった私たちを救い、まことの永遠の生命(ま ことの神との永遠の交わり)を回復して下さるために、神みずからがイエス・キリストによって神の 外に出て下さったのです。それが十字架による罪の贖いなのです。だからこそ主は祈って下さいまし た。「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。父なる神の御心に全く従順に、 十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。  まさに私たちは、この十字架のキリストによって全ての罪を贖われ、キリストの義を戴いて、新た な永遠の生命に生きる者とされました。その目に見える証拠がこの教会生活です。ゲツセマネの祈り によって示されたキリストの御姿を、私たちは堅く心に刻みつつ、ただ十字架の主のみを仰ぎ、主の 御跡に従う、新しい喜びの生活を造って参りたいと思います。そして主のお建てになった教会に連な り、礼拝者として生きる歩みにおいて、忠実かつ熱心な者であり続けたいと思います。