説     教     イザヤ書11章1〜9節  マルコ福音書1章14〜15節

「 主は来たりたもう 」

2015・08・09(説教15321162)  アイルランドの作家サミュエル・ベケットの作品に「ゴドーを待ちつつ」という戯曲があります。1956 年に発表されたフランス語で書かれた作品です。ある田舎道で、エストラゴンとヴラディミールという2 人の男が、ゴドーという男が約束の時に訪れるのを待ちながら会話を交わしている…ただそれだけの単純 な設定です。この作品の中でベケットは、混迷した現代という時代において、希望の根拠となる「なにか」 を待ち望まずにはおれない現代人の切なる願望を見事に描いています。特に印象的な部分はヴラディミー ルがエストラゴンに、「(ゴドーが来たら)私たち救われるのだ」と語る場面です。なぜ、どうして救われ るのか、よくわからないのですが、とにかく“ゴドーの到来”によって、この世界と人生の意味が一変す るほどの「救い」が起こる。その「待ち望み」の一方的な希望が、この作品を観る者の心を捕らえるので す。現代人の希望にそもそも論理的整合性などあるのかという鋭い問いを、この作品は投げかけているの です。  少し季節はずれですが、私たちの教会の三大節のひとつ、クリスマスを迎える前に「待降節」(アドヴェ ント)という時期があります。これはもともと「アドヴェニレ」(こちらに来る、来たりたもう)というラ テン語から来た言葉です。そこから「冒険」を意味する英語の「アドヴェンチャー」フランス語の「アヴ ァンチュール」という言語が生まれました。これはしかし、論理的整合性のない「待ち望み」などではな いのです。そこには主なる神がおられるのです。明確な主体があるのです。それは、私たちの主イエス・ キリストが、私たちの救いのためにこの世界に(この歴史の中に)来て下さったという事実です。主イエ ス・キリストにおいてご自身を現わしたもう真の神は「来たりたもう主」にほかならないのです。  森有正というわが国の優れた哲学者が、この「アドヴェント」の反対の言葉として「アスィミレーショ ン」という言葉を挙げています。「同化」「融合」「統合」と訳されますが、それは要するに自己拡大です。 「アドヴェント」が「冒険」にも喩えられるほどの神の驚くべき“救いの御業”であるのに対して「アス ィミレーション」とは自分を拡大してゆく虚しいわざです。自分の欲望を伸ばし自己実現してゆくことで す。私たちがしていることはほとんどそれなのです。そして、そこで拡大されてゆく自分というものは、 実は神無しの虚しい自分に過ぎません。自分をどんなに拡大しても虚しさだけが大きくなるのです。だか らそれは失望に終わるほかはないのです。決して「救い」とはなりえないのです。先ほどのベケットの作 品の「問い」が私たちの心を捕らえるのは、そこには少しの「論理性」も無いけれど、2人の男の滑稽な までに素朴な対話の中に、ただ外なる救いを「待ち望む」信仰者の姿勢が貫かれているからです。そこに しか現代人の「救い」はありえないのだという、明確なメッセージを私たちに物語っているからなのです。  そこで、今朝の御言葉であるイザヤ書11章1節から9節において預言者イザヤは、まさにその「外な る救い」(私たちのためになされた神の驚くべき冒険)の内容を告知しています。これは「よく考えて、理 解したら受け入れなさい」という「論理の言葉」などではありません。そうではなく、今ここに生きる私 たち一人びとりが聴いて信ずるべき「福音の言葉」として与えられているものです。私たちはこの御言葉 を「待ち望む」者として、いまここに集められているのです。まず1節に「エッサイの株から一つの芽が 出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」とあるのは、主イエス・キリ ストのことをさしています。切り倒されてしまった木の株は一見虚しくしか見えません。しかしそこに一 つのひこばえ「一つの芽」が萌え出でて成長し、実を結び、主の霊がその上にとどまるのです。これは主 なる神が、御子イエス・キリストにおいて、私たち全ての者の救いのために、この歴史の中に「来たりた もう主」となって下さった事実を現わしています。主イエスのご降誕とご生涯、そしてご苦難と十字架の 死と、葬りと復活と昇天の出来事です。私たちのために主がなして下さった御業の全てがここに告げられ ているのです。  このような「来たりたもう主」である主イエスの上に「とどまった霊」とは2節によれば「主を知る知 識と主を恐れる霊」です。私たちが意外な感じを受けますのは、どうして「主」であられるキリストがな おその上に「主を恐れる霊」(主を信ずる霊)を受けねばならなかったのかということです。それは、キリ ストは“まことの人”として私たちのもとに来て下さったからです。最初の人アダムの罪は私たち自身の 罪です。それこそ森有正の言葉で言うなら「アスィミレーション」(自己拡大)の罪です。自分を拡張して ゆくことが人生の目的だと考える傲慢の罪です。それならば、キリストはそれとは全く逆の歩みをなさっ て、最初の人アダムの罪を(すなわち私たちの罪を)完全に贖われるために「神の聖と義にかたどられた 新しき人」として十字架への全き従順の歩みを貫いて下さったのです。そのことが3節に記されています。 大切な御言葉です。「彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、 その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの、 柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺 す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる」。  主イエスはヨハネ伝の4章10節に「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているの ではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」と言われました。また、あの ゲツセマネの祈りにおいては「父よ、願わくはこの杯(十字架)をわれより離れさらしめたまえ。されど わが思いにあらで、御心のままをなしたまえ」と祈られました。主は永遠の神の御子であられるにもかか わらず、この歴史の中に「来たりたもう主」となられて、“まことの人”として御父に全き従順の歩みを献 げたもうたのです。それはすなわち、使徒パウロがピリピ書2章6節以下にこう語っているとおりです。 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、お のれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くし て、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。  それならば、主イエスが私たちのためになさって下さった救いの御業とは、主イエスご自身を十字架上 に献げて下さったことです。ここに「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」とありますが、こ の「固守する」という言葉は「ハルパゲモス」というギリシヤ語なのですが、それを英訳すると「アスィ ミレーション」(自己拡大)になるのです。主イエスはそれと全く正反対の歩みを私たちのために献げて下 さいました。すなわち、私たち「神の外に出てしまった者たち」の救いのためにご自身がまず神の外に出 て下さったのです。それが「固守なさらなかった」ということです。そればかりではありません。その主 イエスの従順は「十字架の死に至る」ほどの全き従順の歩みであったのです。  罪の本質は神に背き神から離れることです。そして自分の栄光を求め他を押しのけてまで自分を拡張し てゆくことです。私たちは造られたる僕に過ぎないにもかかわらず、無限に自己を拡張してゆき、そして 「神と等しい者に」なろうとする罪をおかすのです。キリストはそれとは全く反対でした。キリストは永 遠の神の唯一の御子であられるにもかかわらず、私たちを極みまでも愛して、私たちのためにご自分の全 てを空しくし、十字架の死に至るまで従順であられた。私たちのためにご自分の全てを献げ尽くして下さ いました。呪われたる罪人の永遠の死を十字架において担い尽くして下さったのです。それこそが主が飲 まれた「杯」なのです。私たちは自然的な肉体の死にさえ耐えられない存在です。しかし主は永遠の滅び としての絶対の死をすらご自分に引き受けて下さいました。そのことによって私たちの罪を死もろともに 撃ち滅ぼして下さったのです。  まさに、その主イエスの十字架による救いの御業が、今朝のイザヤ書11章においては「さばきをなす」 または「定めをなす」または「撃ち殺す」という言葉であらわされているわけです。すなわち主は、私た ちを限りなく愛したもうその愛のゆえに、私たちを罪と死の支配の下に決して留めておきたまわない。私 たちを放置なさらないのです。まさに私たちを救うために、この歴史の現実の世界に「来たりたもう主」 とおなりになったのです。まさしく主イエスはガリラヤにおける宣教の第一声を「時は満ちた、神の国は 近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ伝1:15)との御言葉で始めたまいました。この「神の国は 近づいた」とは、「あなたのために、いま神の恵みの永遠のご支配が来ている」という意味です。「神の国」 とは「神の永遠のご支配」という意味です。今までの私たちは罪と死の縄目のもとにあった。しかしキリ ストを信じ告白して、教会に連なり、礼拝者として歩みはじめるとき、私たちはもはやキリストの永遠の 恵みのご支配のもとにあるのです、もはや決して罪と死は私たちを脅かすことはできないのです。  終わりに、今朝の御言葉の6節以下は全体の結論、神の祝福の約束、未来の救いの完成です。「おおか みは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわ らべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、…」。これは現実には起こりえ ない、単なる理想の世界を描いているのでしょうか。そうではないのです。イザヤはここでもただ十字架 の主のみを見上げて御言葉を語り告げています。これは主の御約束なのです。対立しかありえないところ、 限りなく自分のみを拡張してゆく世界の現実の中にあって、ただ十字架の主イエス・キリストによっての み本当の永遠の平和と自由がこの歴史の中に実現するのです。「主は来りたもう」真の信仰に生きる私たち でありたいと思います。