説   教   エゼキエル書18章30〜32節  ヨハネ福音書4章46〜54節

「 御言葉を信じて 」

2015・08・02(説教15311601)  今朝の御言葉・ヨハネ伝4章46節に「イエスは、またガリラヤのカナに行かれた」と記されていま す。続けてヨハネは「そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である」と但し書きを記しています。 「ガリラヤのカナ」という町で主イエスは、水をぶどう酒に変えられるという奇跡を現され、人々に神 の栄光をお示しになりました。ところがその奇跡を見た人々、実際にぶどう酒を飲んだ大勢の人々の中 で、主イエスを神の子・救い主(キリスト)と信じた人は本当に僅かでした。大多数の人々は主イエス をキリストと信じることなく、ただぶどう酒だけを飲み、肉体を養う糧のみに満足して、主のもとから 離れ去って行ったのです。  これと対照的なのが、今朝の御言葉の直前4章1節から42節までに記されたサマリヤのスカルとい う町の人々です。スカルの町はずれにある井戸の傍らで、主イエスはひとりの女性と出会いたまい、彼 女を「活ける水」をめぐる対話へと導かれ、彼女の飢え渇く魂を潤して下さいました。この女性がスカ ルの町中の人々に主イエスのことを告げ知らせます。人々は急いで主イエスのもとに集まり、そして主 イエスの語られる福音の御言葉を聴いて、主イエスを「神の子・救い主」と信じたのでした。4章42 節を見ますと、スカルの町の人々は女性にこう語っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが 話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わ かったからである」。    サマリヤのスカルの人々は、主イエスの奇跡を見たわけでも、肉体を養う糧を受けたわけでもありま せん。彼らはただ主イエスの語られる福音の御言葉を聴き、ただ御言葉によってのみ、主イエスをキリ ストと信じ告白したのです。スカルの町中こぞって主イエスから神の言葉という「活ける水」を戴いた のです。ここに、ガリラヤのカナの人々とサマリヤのスカルの人々との決定的な違いがありました。イ エスの故郷の人々、つまりガリラヤの人々のほうが不信仰であったのです。その反対に、神の救いから 最も遠いと思われていたサマリヤの人々が、率先して「イエスはキリストなり」と信じ告白する者とさ れたのです。  このことは何を意味しているのでしょうか。それは、主イエスは御言葉によってのみ私たちと完全に 共にいて下さるという事実です。言い換えるなら、私たちは御言葉を抜きにして主イエスと共にあるこ とはできない。御言葉を抜きにして「自分はキリストの近くにいる」と思うのは間違いなのです。それ はこうも言えるでしょう、私たちは自然現象や人間のわざ、歴史の出来事や印象深い体験などを、キリ ストと同列に並べることはできないということです。主は全ての人を等しく御言葉による唯一の救いへ と招いておられるのです。ときどき「私も昔は教会に通っていたんですよ」という人に出会うことがあ ります。それはひとつの思い出であって、大切なことは「では現在、あなたはキリストを信じて教会に 連なっていますか?」ということです。私たちは主イエスとの関係を過去にではなく現在において持た ねばなりません。過去の思い出や経験ではなく、いま現在の礼拝者たる歩み(御言葉を信ずる生活)が 大切なのです。その自覚をより鮮明にする私たちでありたいと思います。  さて、今朝の御言葉にひとりのガリラヤ人が登場して参ります。人々の不信仰が渦巻いているように 見えるガリラヤのカナに、同じガリラヤのカペナウムに住む一人の男性が主イエスのもとにやって来て、 病気で死にかかっている息子をどうにか癒して戴きたいとしきりに主に願ったのでした。この男性は46 節に「ある役人」と記されていますが、ほかの福音書を見ますとローマの「百卒長」であったことがわ かります。百卒長というのはユダヤ駐留のローマの軍隊の士官です。愛国心に満ちたユダヤの人々から は蛇蠍のごとく嫌われていた存在です。ましてや神を信ずる者ではありません。その百卒長が主イエス を訪ねて、自分の愛する息子をどうか癒して戴きたいと願いました。  この百卒長に主イエスはお答えになります。48節です「そこで、イエスは彼に言われた、『あなたが たは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう』」。ずいぶん厳しい御言葉です。普通なら そこで引き下がるところです。「わかりました、ここに来たのは間違いでした」と言って立ち去るのが普 通でしょう。ところがこの百卒長は諦めなかった。「あなたは…決して信じないであろう」と突き放され た、まさにその御言葉の前に必死になって食い下がるのです。「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにき て下さい」と願うのです。ヤボクの渡しにおけるヤコブと天使の格闘を思わせる場面です。  主イエスがご指摘になったように、実は最初はこの百卒長の信仰も「しるしと奇跡」を求める偽りの 信仰にすぎませんでした。それはキリストを信じる信仰ではなく、キリストが下さる(であろう)「しる しと奇跡」を期待する態度にすぎません。それで良いのかと、主は真正面から問われるのです。それが 48節の御言葉なのです。あなたの信仰は過去のものであって良いだろうかと主は言われるのです。「し るしと奇跡」を見たから信ずるのか?。救いはあなた自身の内側にあるのではなく、父なる神にのみあ るのではないか。それならば、あなたはどうして神に全てを委ねないのか。主がこの百卒長に問うてお られるのは、まさにそのことです。  そういえば、この百卒長は主イエスのもとに来て、息子の病気を「なおしていただきたい」と願いま した。しかし「なおす」というのは、本来ある肉体の機能の回復にすぎません。元々持っていたものを 正常化することが「なおす」ことです。だからそれは「救い」ではありません。死に打ち勝つ永遠の生 命ではないのです。つまりこの百卒長は、自分の判断で「これが救いだ」というイメージを作り上げて いて、そのイメージに合致した救い(自分のメガネに適う救い)を主イエスに期待していただけなので す。主イエスに求めているようでいて、実は自分の中に「救い」を作り出しているのです。主イエスは まさに彼のその「罪」を鋭く指摘されたのです。「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して 信じないだろう」とはそういう御言葉なのです。この御言葉の前に、百卒長ははじめて我に返ります。 自分の間違いに気がつくのです。そして改めて主に願います。自分が作り上げていた救いのイメージで はなく、まさに主イエス・キリストが与えて下さる唯一の救いに、キリストの主権に、自らと愛する息 子を委ねるのです。  そこでこそ百卒長は主に申します。49節です「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」と。 これが百卒長の信仰告白でした。悠長なことを言い、あなたの救いを疑っていた私の「罪」をお赦し下 さいと申したのです。どうか今すぐに、私の家にいらして下さい。あなたがおいて下されば、息子は必 ず救われます。あなたがいらして下さらなければ、息子は滅びるのです。だから主よ、どうかいらして 下さいと、心を尽くして必死になって願うのです。救いはただ十字架の主イエス・キリストにのみあり ます。今そのことを信じ告白する者として、この百卒長ははじめて「しるしや奇跡」を求める者ではな く、御言葉を聴いて信ずる神の僕に変えられてゆくのです。この信仰告白を受けて今朝の50節に主は 明確にお答えになりました。「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。百卒長はただその御言葉 だけを携えて、息子と家族の待つ家に帰ってゆくのです。そこには主イエスが肉体によって共におられ たわけではありません。ただ主が与えて下さった御言葉だけがありました。しかしそれだけを聴いて、 それだけを携え信じて家路につく彼のもとに、家から来た「僕たち」が出会います。その僕たちが「そ の子が助かったことを告げた」のです。その助かった時刻を聞きますと、それはまさに主イエスが「あ なたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻「きのうの午後一時」でありました。  ここに何が起こったのでしょうか?。神の御言葉が宣べ伝えられ、それが真実に聴かれるとき、そこ に人間の本当の「救い」が起こるのです。ある哲学者が「人間の歴史は死の流れの中にある」と語りま した。全ての人間に共通して例外のない事実は「彼もまた死んで葬られたり」という事実のみです。そ してそれ以上に「人間の歴史は罪の流れの中にある」のです。人類史は罪の発展史にほかなりません。 死が全ての人間に必然である以上に、罪の支配が全人類の歴史に呪いの影を投げかけています。その流 れに逆らいうる者は一人もいません。今日の世界は、私たち人間の罪と、その結果である混乱の中で病 み衰えています。しかしまさに、この「罪」の流れの歴史のただ中に神の御子イエス・キリストがまっ しぐらに来臨して下さいました。誰も逆らいえなかった罪の支配を、主は十字架において受け止め、打 ち滅ぼすために、十字架に死なれ、墓に葬られ、三日目に甦って下さったのです。主の十字架と復活に のみ、罪と死の支配に対する永遠の終止符があります。ここに、十字架の主の愛と恵みのもとでこそ、 罪と死の流れは終わりを告げ、新生への逆転が始まったのです。死の流れを食い止めて永遠の生命へと 引き戻して下さるかたが、神の子イエス・キリストが、私たちと共にいて下さるのです。  まさに、そのような救い主キリストを信じ告白する者へと、この百卒長は変えられていったのです。 御言葉を聴いて信ずる者とされたのです。その喜びと幸いが今朝の御言葉の最後53節に「彼自身もそ の家族一同も信じた」と現されています。私たちは今日の複雑かつ多様化する社会の中で何を切に求め ているのでしょうか。また何をいちばん大切なこととしているのでしょうか?。もし肉体の健康と「な おること」だけが人間の最大の目的であるのなら、その世界は罪と死にの流れに対して全く無力な世界 であるにすぎません。いかなる人間のわざも「罪」の流れに対して無力です。主イエスに対して「しる しと奇跡」を見せてくれと求めたカナの人々の姿は、同時に今日の世界人類の姿でもあるのではないか。 その私たちの真の姿を、主イエスだけがご存じでいて下さいます。主のまなざしには、私たちが全て「養 う者のない羊の群れのような」滅びに瀕した存在であることが明らです。そこでこそ、主は私たちに本 当に必要な、唯一の福音の御言葉を語って下さるのです。あなたも、あなたも、あなたも、神の御言葉 によって、御言葉を信じて、生命を得る人になりなさいと、主は私たちに告げておられるのです。  「預言者は故郷では敬われない」。この御言葉はそのまま現代社会の姿です。神が永遠の目的をもって 創造された世界にある私たちが、その神から遣わされた御子イエスを信じることなく、その御言葉を聴 こうともしない現実の中にこそ、主は十字架を担って悲しみの道を登って下さいました。いま私たちこ そ「主よ、どうぞ、子供が死なないうちに来て下さい」と、十字架の主に心から伏し願わなくてはなり ません。そして、故郷では敬われることのない主を、私たちの間では敬わなければなりません。真の預 言者、神の御言葉そのものであられる主イエスを、地上の故郷は敬わなかった。しかし、主がご自分の 生命を注いで建てて下さった、霊の故郷であるこの教会においてこそ、主にふさわしい讃美と栄光が帰 せられねばなりません。ここに連なる私たちは、主を敬い、讃美し、主に仕える僕とされている群れな のです。  私たちは、いついかなる時にも、主の御言葉を聴いて生きるのです。御言葉が告げられるところ、そ こに私たちの、また全ての人の救いが起こるからです。立ち上がりえなかった者が立ち上がり、讃美し えなかった者が讃美の歌声を上げ、絶望と孤独の淵にあった者がキリストの限りない愛に生かされ、キ リストと共に歩む新しい人生を歩ましめられてゆくのです。ここに連なる私たち一人びとりに、そして まだ主を知らない全ての人々にも、主は御言葉を語りたまい、救いの御手を差し伸べていて下さる。そ して主の御業は必ず、この世界と歴史において成就するのです。