説    教   イザヤ書43章10節  マルコ福音書3章13〜19a節

「主の弟子への選び」

2015・07・26(説教15301600)  京都の竜安寺は石庭で名高い臨済宗の寺院です。その庭は「枯山水」と申しまして、砂の上 に15個の石を配した簡素なものです。さして広くない空間にもかかわらず、実際に観るとと ても広く感じる不思議な庭です。そこで、この15個の石は特別なものだろうと思うのですが、 住職に訊きましたら特別なものでも何でもない、京都周辺の山の中に普通に転がっている「鴨 川石」という石にすぎないとのことでした。しかしこの普通の石が、選ばれて枯山水の一部と なったとき、そこには特別な意味と価値が生じてくるのです。  そこで、石についてさえそういうことが言えますなら、ましてや人間においてはなおさらで はないでしょうか。今日でもヨーロッパの教会に参りますと「安息日の正装」ということが当 然のように言われます。華美な服装をするのではありません。礼拝は主なる神に招かれて(選 ばれて)神の御前に集う、限りない喜びと祝福の時ですから、そこで相応しい服装を整えて、 感謝をもって礼拝に出席するのです。私たちの人生の最も深い厳粛な意味は、それが“神によ って招かれた(選ばれた)人生である”という事実にあるのです。  古代教会の時代以来、私たちの教会のことを「招かれた者たちの集い」を意味する“エクレ シア”というギリシヤ語で表現しました。私たちは教会に連なって生きるとき、それこそ生き るにも死ぬにも、ただ十字架のキリストに堅く結ばれた者として、かけがえのない唯一絶対の 存在(汝)とならせて戴いている。礼拝を中心として生きる私たちの生活は、いつどこにあっ ても、神によって選ばれ招かれた者として生きる、かけがえのない“遣わされた者”としての 生活です。  主イエス・キリストに関する噂が広く世に伝わるにつれ、ユダヤやガリラヤの地方、しいて は遠く諸外国からも、大勢の群集が主イエスのもとに押し寄せるようになりました。マタイ伝 9章36節によれば、主はこれらの群集が「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているの をごらんになって、彼らを深くあわれまれた」と記されています。そして、かたわらにいたペ テロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人に対して「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、 収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」と命じたも うたのです。なによりも、それは主イエスご自身の祈りでした。なぜならそのすぐ後、マタイ 伝で申しますなら10章1節、今朝のマルコ伝では3章13節以下において、主イエスみずから 12人の弟子たちをお選びになった(お招きになった)出来事が告げられているからです。しか も、同じ御言葉を伝えているルカ伝6章12節以下を見ますと「このころ、イエスは祈るため に山へ行き、夜を徹して神に祈られた」と記されています。この徹夜の祈りののち、夜が明け ると同時に、主は弟子たちを呼び寄せられ、その中から12名をお選びになって「これに使徒 という名をお与えになった」のであります。  そうでありますなら、今朝の13節にあるように、主イエスが山に登られたのはまさしく「夜 を徹して」祈りの時を過ごされるためでした。私たちが主イエスに選ばれ招かれるために、こ の“徹夜の祈り”があったことを忘れてはならないのです。私たちは普通、主イエスほどのか たが弟子をお選びになるのなら、大勢の群集の中からそれこそ、他に抜きん出て能力のある人、 誰よりも立派な人をお選びになるのが当然であろうと考えます。主イエスの選抜試験に勝ち抜 いた人は、それこそ選りすぐりの人材のはずだと、私たちは当然のごとく思うのではないでし ょうか。しかし事実は全く違いました。むしろ、主イエスの献げたもうた「徹夜の祈り」こそ、 弟子たちの選びのただ一つの根拠であり、使徒たるべき招きの始まりであったのです。それこ そ「鴨川石」のような普通の石を、主はお選びになったのです。  だから私たちは今朝の13節「さて、イエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び 寄せられた」というこの単純な御言葉の中に、いかに測り知れぬ主イエスの祈りと恵みの選び が現されているかを読み落としてはなりません。そもそも主イエスの弟子とされた12名は、 いかなる根拠、いかなる理由で、主イエスの選び(御招き)にあずかりえたのでしょうか。そ れこそ、実は「みこころにかなった者たち」という今朝の13節の御言葉の意味を知ることで す。主イエスの「みこころにかなう」とは、いったいどのようなことなのでしょうか?。もし 私たちが真正面からあるがままに、主なる神の前に「相応しさ」を問われるなら、神の御前に 立ちうる者(選びに相応しい者)は一人もおりますまい。あの預言者イザヤでさえ、聖なる神 のご臨在の一端に触れただけで「ああ、われ滅びるばかりなり」と、自分が全く神の選びに相 応からぬ者であることを嘆いたのです。まして私たちはなおさらではないでしょうか。  こで、主に選ばれた十二弟子たちのことを、少し詳しく見て参りたいと思います、今朝の16 節以下、十二弟子たちのリストを丁寧に見て参りましょう。まず、シモンと呼ばれたペテロと その兄弟アンデレ、そして同じくガリラヤのカペナウム出身のヤコブとヨハネの兄弟です。こ の4人はこの世の尺度で言うなら、本当にどこにでもいる庶民の一人にすぎませんでした。彼 らはガリラヤ湖の漁師でした。また彼らの友人であったピリポとバルトロマイも、同じくガリ ラヤ湖の漁師でした。魚を獲ることにかけてはプロですが、それ以外にはどんな資格や地位や 学問や名誉も、何もなかった人たちです。特に最初の4人は「ボアネルゲ」(雷の子)という 渾名で呼ばれていたということから、漁師特有の塩辛声の、ある種野性味のある人格を想像す ることができるのです。  十二弟子の中で多少とも学問があったと思しきはマタイという人です。マタイはしかし、ユ ダヤ人から蛇蝎のごとく嫌われ、罪人の代名詞のように蔑まれていた取税人の出身でした。当 時のユダヤはローマの支配の下にある植民地で、そのローマのために人頭税を徴収する役であ ったのが取税人です。ですから「取税人」は即ち「売国奴」を意味しました。そうかと思えば 主イエスは同じ十二弟子の中に、そうした売国奴を暗殺することを使命としていた熱心党のシ モンを選んでおられます。これも私たちの思いを遥かに超えています。同じ十二弟子の中に、 政治的思想的に犬猿の仲であった両極端の人間がいたのです。  それなら、残りの4人はどうでしょうか。トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、そしてイ スカリオテのユダです。これらの人たちもみな同じように、貧しく名もなき庶民の出身でした。 地位も身分も財産も業績もなく、律法学者でも祭司でもなく、誇りとすべきものを何ひとつ持 っていなかった人たちです。では主イエスは彼らを、他の人々よりも性格が良かったから、人 柄が信頼できたから、お選びになったのでしょうか?…私たち日本人には聖徳太子の十七条の 憲法以来「和を以って尊しとなす」という価値観があります。グループの和を重んじます。た とえ個々人に実力がなくても、グループが強調して力を合わせれば、思わぬ能力を発揮するこ とがあるのです。しかし、それもまた違うと言わざるをえません。  私たちは、たとえばペテロなど、どんなに多くの性格的な欠点を持ち、協調性を欠き、失敗 の連続であったかを知っています。他の弟子たちも同じでした。彼らはしばしば些細なことで 対立し、言い争い、仲間割れを起こしています。自分の出世を願って抜け駆けのようなことま でしています。それこそ「ボアネルゲ」(雷の子)と呼ばれた所以です。協調性など微塵も見 られないのです。それならば、主イエスが十二弟子をお選びになった理由として、考えられる 最後の可能性として、キリストに対する忠誠心があったのではないか。たとえ弟子たちに学問 や能力がなく、人柄の良さも協調性もなかったとしても、彼らには主イエスに対する「忠誠心」 だけはあったのではないか…。ほかに何の取柄がなくても、主イエスに対する燃えるがごとき 忠誠心があればこそ、主イエスは彼らをお選びになったのではないか。  しかし実は、この最後の問いさえ、実は違うと言わさるをえないのです。と申しますのは、 弟子たちの筆頭格を自認していたペテロでさえ、十字架を目前にして、主イエスの御名を3度 も拒んだのでした。「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、あなたを知らないな どとは決して申しません」と誓い、他の弟子たちも同じことを申したのに、いざ十字架を目の 前にすると、みな蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのでした。何よりも、この十二人の中に 「イスカリオテのユダ」の名があります。主イエスを裏切ったユダの罪は、他の弟子たちも同 様のものであり、それは同時に私たち自身の罪でもあります。このように考えますとき、私た ちは、主イエスの「みこころにかなう」いかなる外的な条件も、弟子たちの中には見出せない と結論せざるをえないのです。  それでは、今朝の御言葉に告げられている「みここにかなう」とは、どういうことなのでし ょうか。私たちはここで改めて13節の御言葉を心に留めたいのです。「さてイエスは山に登り、 みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた」。これはただ、私た ち相応しからぬ者たち(神の御前に立ちえざる者たち)に対する、限りないキリストの「選び の恵み」だけを語っているのです。私たちに対する測り知れない「愛と恵み」だけを告げてい るのです。ただそれだけが、キリストの「選びの恵み」だけが、私たちを「相応しい者」「み こころにかなった者」として下さった。それ以外のいかなる理由もないのです。そこには私た ちの側の条件や資格は何も問われていません。私たちがキリストの選びにあずかり、主の御身 体なる教会の一員とされているのは、ただキリストの限りない「選びの恵み」によるのです。  私たちはパウロが告げているように「義とされえぬ罪人」です。私たちの心の中にこそ「イ スカリオテのユダ」が存在します。それならば、その私たちの中のユダをも含めて、キリスト は限りない「愛と恵み」により、十字架の贖いの恵みによって、私たちをあるがままに選び取 って下さいました。主を裏切り十字架につけた私たちの罪を、その滅びと呪いもろともに、全 てを十字架において贖って下さったのです。その十字架の真実によってのみ、私たちは選ばれ 招かれて、ここに主の御栄えのみを現わすまことの教会(エクレシア)を形成しているのです。 そこにのみ、主が言われる「みこころにかなった者」が存在するのです。私たちは、ただキリ ストの義に生かされた者たちです。主に選ばれし僕たちなのです。  この無上の恵みを思うとき、私たちは限りない感謝と讃美を主に献げるほかはありません。 全く相応しからぬ私たちをあるがままに「みこころにかなう者」となして下さった主の真実に 献げまつるに相応しいもの、それはただ信仰以外のなにものでもありません。十字架の主イエ ス・キリストを永遠のわが主・救い主と告白する信仰です。そして主の御身体なる教会に連な り、教会に仕え、教会によって真の礼拝者として、私たちの全存在(全生涯)を御前に「生き た聖なる供え物として」献げることです。この十字架の恵みによって、主は弟子たちを、私た ちを、14節にあるように「彼らをご自分のそばに置くため」にお選び下さったのです。この「ご 自分のそばに置くため」とは、私たちがそのあるがままに、キリストにお仕えして生きる者と なる幸いです。主は恵みによって選ばれた私たちを、かけがえのない神の国の働き人としてお 用い下さいます。私たちの力ではなく、聖霊なる神の御力によって、私たち一人びとりがキリ ストの使徒(遣わされたる者)とされています。たとえ日々の戦いがどんなに激しくとも、私 たちは勝利の主の御手に永遠に支えられている者として、最後まで「みこころにかなう者たち」 とされているのです。主がそのように、私たちを選んで下さったのです。