説     教    詩篇46篇1節   マタイ福音書11章28〜30節

「疲れたる者われに来たれ」

2015・07・19(説教15291599)  人間は誰でも、苦労は嫌なものです。しかし私たちの人生には、意思に反して様々な苦労が あります。意図せず重荷を負うことがあります。人間関係のストレスに悩むこともあります。 仕事上での様々な苦労もあります。病気や怪我に苦しむこともあります。家庭の中に思わぬ問 題が起こることもあります。信頼していた人に裏切られることもあります。数え上げるならき りがないでしょう。そのような様々な苦労の中で、私たちは言いようのない“疲れ”を覚えて います。現代社会を象徴する重要なキーワードは「疲れ」です。かつては疲れても回復する手 立てがありました。休めば良かったのです。しかし現代は十分な休みすら得られない厳しい状 況が社会に蔓延しています。ただ「疲れ」だけが積み重なってゆく現実の中で、だからこそ全 ての人は本当の「休み」を求めてやみません。現代はかつてなかったほどに、人間が本当の「休 み」を求めている時代なのです。  主イエス・キリストは言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのも とにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。これは主イエスが全ての人に語っておられ る無条件の招きの言葉です。「すべて重荷を負うて苦労している者は」と主は言われました。 主が愛し招きたもうのは苦労の無い人ではない。そうではなく、日々「重荷を負うて苦労して」 いるあなたこそ、私のもとに来なさい。そして「休み」を得なさいと主は招いておられるので す。この言葉は聖書の中で最も有名なもののひとつです。そこで私たちは、この御言葉を表面 だけで理解していないでしょうか。続く29節をよく見ますと「わたしのくびきを負うて、わ たしに学びなさい」と主は仰せになっておられる。「くびき」という言葉じたい今日では絶滅 言語かもしれません。かつては日本でも、牛や馬に「くびき」を付けて田畑を耕す風景が見ら れました。そのように「くびき」とは牛や馬に鋤を引かせるための道具です。すると、それは むしろ苦労の象徴なのではないでしょうか。主イエスは「あなたがたを休ませてあげよう」と 言われたのに、すぐ後では「わたしのくびきを負いなさい」と命じておられる。私たちはこれ をどう理解したら良いのでしょうか。  なぜ主イエスは、ここに敢えて「くびき」という言葉をお用いになったのでしょうか。「わ たしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられ る。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と主は言われたのです。こ こに「わたしのくびき」とあるからには、この「くびき」は「主イエスのくびき」であること がわかります。言い換えるなら、主が私たちと共に担って下さる「くびき」のことです。人生 はある意味で否応なしに「くびき」を負う旅路のようなものですが、その「くびき」の片方は 主イエスが共に担って下さる「くびき」なのだと告げられているのです。そこで、この御言葉 を聴いた当時のユダヤの人々は体感的に理解できたでしょう。それはこの「くびき」とは2頭 の家畜が曳く「くびき」のことだということです。するとどうなるのか。主イエスが私たちの 人生と言う名の重い「くびき」の片棒を担いで下さる。主イエスが私たちと共にひとつの「く びき」に繋がれて下さる。そのとき、その「くびき」は「負いやすく、軽いくびき」となって、 私たちの人生に真の休みを与えるものになるのだ。そういうことが、当時のユダヤの人々には 身体的に理解できたのです。  私たちは人生の「くびき」を苦労として担うとき、この「くびき」さえなかったら、自分の 人生はどんなに楽だろうか。この「くびき」あるがために、自分はいかに不幸であることか、 そのように感じるのです。そこでは「くびき」とは“あらずもがなのもの”です。私たちを束 縛し、苦しめ、疲れさせるものが「くびき」です。私たちはみなそう思っています。仮に「く びき」という言葉を「苦労」「失敗」「病気」「挫折」「悩み」「辛さ」という言葉に置き換えて みればよくわかります。そうした「くびき」のない人生を、どんなに私たちは願っていること でしょうか。そのような私たちに、今朝のこのマタイ伝11章28節以下は、実に驚くべき福音 を語っているのです。主イエスは全ての人々に真実の「休み」(平安)を与えると約束して下 さいました。しかも、それは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」という御招き とひとつのものなのです。私たちは「くびき」の無いところにこそ「休み」があると思ってい る。しかし主イエスは違うのです。本当の「休み」は「わたしのくびき」すなわち“主イエス のくびき”を担うところにあるのです。改めて学びましょう。“主イエスのくびき”とは「主 イエスと共に担うくびき」という意味であり、主イエスが私たちの人生の重荷(くびき)を共 に担って下さる恵みを告げているのです。言い換えるなら、私たちの存在(人生)そのものを、 主イエスは共に担って下さる。それを主が「わたしのくびき」として下さるのです。  そうすると、もはやその「くびき」とは、ただ私たちの「苦労」や「悩み」だけの問題では ありません。主イエスの御眼には、私たちの「疲れ」の本質が見えておられるのです。私たち のあるがままの姿、偽らざる人間の魂の状態が、主イエスの御目には白日のごとく明らかです。 それを主は「養う者を失った羊の群れ」と言われました。全ての人間がそういう孤独の内にあ ることを、主のまなざしは見抜いておられるのです。そこにこそ、私たちが途方に暮れるしか ない「疲れ」の本当の姿があるのです。それこそ聖書が「罪」と呼んでいる、全ての人間の心 の最奥に潜む「重荷」なのです。私たちは神に限りなく愛されている存在であるにもかかわら ず、生命の源なる神から離れ、神に叛き、「養う者を失った羊の群れ」のような状態になって しまったことです。 今から1500年前に生きたアウグスティヌスという人は、まことの神を 求めてさ迷い続けた自分の若き日の経験を綴った「告白」という本の最初のページにこのよう に記しました。「神よ、あなたは私たちを、ただあなたに向けてお造りになった。それゆえ、 あなたのもとに憩うまでは、私たちは決して、真の休みを得ることはないのである」。ここに 「あなたに向けて」とあるのは「神の愛に応えて生きる存在として」という意味です。私たち は神の愛の中でのみ、人間として健やかな、本当の歩みを回復することができるのです。人間 として最も不幸な「くびき」は、この「神の愛」を知らずに生きることです。それこそ「養う 者を失った羊の群れ」になってしまうことです。  主なる神から離れたままで、私たち人間にはいかなる真の「休み」もありえません。神との 生きた関係を失ったままで、この世のどのような富や人間関係も、仕事も趣味や娯楽も、魂の 孤独と疲れを癒す手立てとなりえません。魂の疲れは全ての人の魂の内に厳然として存在する のです。ただイエス・キリストのみが、失われた私たちを見いだし、父なる神のもとに回復し て下さる唯一の救い主です。このかたのみが私たちに真の永遠の生命を与えて下さり、私たち の癒されえぬ「疲れ」を根底から癒し、真の「休み」を与えて下さるのです。現代社会の人間 のあらゆる問題と悲惨は、ただ十字架の主のもとにのみ根本解決があるのです。だからこそ主 は言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたが たを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負 うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わた しのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。  どうか思い起こしましょう。この「くびき」は2頭の家畜が曳くものです。主イエスがここ に「わたしのくびき」と言われるとき、それは私たちの人生そのもの、否、私たちの存在その ものを、その測り知れぬ罪の重みもろともに、主イエスが共に担って下さるという一方的な恵 みの宣言なのです。主はそれを「わたしのくびき」と呼んで下さるのです。そして告げておら れます。重く、辛く、苦しい人生の「くびき」に疲れている人は誰でも、どんな人でも、いま 私のもとに来なさい。あなたの「くびき」のいっさいを私に委ねなさい。そのとき「あなたの 魂に休みが与えられる」。あなたが負いきれず、打ちひしがれていた、その重い「くびき」は、 私が共に担う「負いやすく、軽やかなくびき」となるのだ。私はあなたと共に、あなたの全存 在を最後まで、死を超えてまで共に担う。そのように主ははっきりと告げていて下さるのです。  言い換えるなら、こういうことです。主は「私はあなたの『くびき』を『わたしのくびき』 とする」と宣言して下さるのです。わたしがあなたの「くびき」をあなたと共に曳く。他の誰 でもない、私があなたと「くびき」を共にする。そのとき、それはもはや、あなたの存在を押 し潰す「重荷」であることをやめて、あなたに真の「休み」(平安)を与える祝福の生命(限 りない神の恵み)となって、あなたを根底から支える。そのように主ははっきり約束して下さ るのです。それは主イエスの十字架を指し示している出来事です。救いの出来事なのです。永 遠の神の御子キリストが、私たちの存在の重みを、測り知れぬ罪あるがままに根底から担い取 って下さったこと、それがあの十字架であり贖いです。そのようにして、まさにご自身の十字 架の贖いを通して、主は私たちの「くびき」をご自身の「くびき」として下さいました。だか らこそ、私たちの魂に本当の「休み」が、救いの喜びが、いま与えられると約束して下さった のです。私たちはもはや、自分の人生にまつわる数々の苦労を、悩みを、そのあるがままに、 主イエスの御手に委ねる者とされているのです。その私たちの平安を奪いうるものはなにもな いと、主は約束して下さったのです。「くびき」を負う2頭の家畜が決して離れることがない ように、主イエスは私たちと決して離れたもうことはない、私たちの贖い主であられるのです。  更に大きな恵みが私たちに示されています。この「くびき」を本当に担っておられるのは、 実は主イエスお一人なのです。私たちはと言えば、私たちはその「くびき」にぶら下がってい るだけです。力なく、うなだれて、絶望して、疲れ果てて、私たちは「くびき」を担う力など ありません。しかしそのような私たちの人生という重い「くびき」を主イエスが一方的に担っ て歩んで下さる。あなたはそこに繋がっているだけで良い。それが私のこの教会だ。あなたは 「わたしのくびき」に手をかけているだけで良い。それがこの礼拝であり信仰告白だ。そのよ うに主は明確に告げていて下さるのです。そこに手をかけているならば、私たちはそこでこそ 本当の「休み」を与えられて、主イエスと共に、主イエスの愛と祝福の内を、勇気と慰めをも って歩んでゆくことができる。そのために主はご自分の全てを、私たちの罪の贖いとして献げ 尽くして下さった。十字架を負うて下さった。「あなたの罪は、わたしが贖った」と宣言して 下さったのです。「わが子よ、汝の罪は赦されたり」と告げていて下さるのです。  このかたが、私たちを招いておられるゆえに、私たちはいまここに、心からの従順(信仰) をもって、主にお従いする者たちです。今日の主の御声を、私たちは人生の全ての道において 聴く幸いに生きるのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。 あなたがたを休ませてあげよう」。