説    教   ヨブ記38章41節  マルコ福音書6章30〜44節

「汝らの手にて」

2015・07・12(説教15281598)  今朝のマルコ伝6章30節以下には、主イエスが五千人もの群集を「五つのパンと二匹の魚」 で養われた奇跡の出来事が記されています。この御言葉は大きく3つの部分に分けることがで きます。順を追って見て参りましょう。最初の場面は伝道に派遣された十二弟子が主イエスの もとに帰ってきた場面、30節以下です。「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自 分たちがしたことや教えたことを、みな報告した」。この弟子たちに対して主イエスは「さあ、 あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。福音書 記者マルコはその理由として「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」 と記しています。  主イエスは弟子たちに(私たちに)忙しい時にこそ、祈りを(礼拝の生活を)大切にするよ うにお教えになったのです。宗教改革者ルターはあるとき「私は今日2時間は祈らねばならな かったほど忙しかった」と語りました。私たちは逆に忙しさを祈らない理由とし、教会生活を さえ蔑ろにしてしまうのではないでしょうか。そのような私たちに対して主イエスは、弟子た ちが忙しい時にこそ「祈りの生活」(礼拝を中心とした生活)が大切であることを明確に示さ れたのです。何よりも同じマルコ伝1章35節によれば「朝はやく、夜の明けるよほど前に、 イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあるように、主イエスご自身 の生活が絶えざる祈りの生活でした。私たちの真の休息は「祈り」(礼拝)を通して神から新 しい生命の糧を戴くことにあるのです。  そこで、主イエスから「寂しい所」で祈るように勧められた弟子たちは、主イエスと共に舟 に乗ってガリラヤ湖の対岸の「人里離れた場所」に出かけて行きました。そこに予期せぬ第2 の場面が現れるのです。それは今朝の33節に「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行く のを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、いっせいに駆けつけ、彼らより先に着いた」 とあることです。ガリラヤ周辺の町々村々から夥しい群集が、主イエスと弟子たちの行き先に 先回りして待ち構えていた。群集の激しい魂の飢え渇きが伝わってくる場面です。そこで主イ エスは34節にあるように「舟から上がって大ぜいの群集をごらんになり、飼う者のない羊の ようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた」とあります。  主イエスにとって真の休息とは、神の言葉を余すところなく宣べ伝え、一人でも多くの人々 を神に立ち帰らせることでした。主イエスの御目には夥しい群集の姿が「飼う者のない羊のよ うなさま」としてはっきり捉えられていたからです。羊飼いを失った羊の群れは、やがて猛獣 の餌食になるか、飢えて死ぬほかはないのです。それがこの現代世界の全ての人間の状況であ り、世界の真相であることを、主イエスははっきりと見抜いておられる。「いろいろと教えは じめられた」というのは、主がこの群集に神の言葉を(福音を)宣べ伝えられたということで す。彼らの飢え渇きを見過ごしになさらず、必要な真の生命の糧を全ての人に与えたもうたの です。この「飼う者のない羊のような有様」という御言葉には、旧約聖書において神とイスラ エルの関係を羊飼いと羊の群れに喩えている背景があります。主なる神はこの世界と全ての人 を限りなく愛したまい、救いと祝福に招いておられるのです。私たちに対する神の愛は熾烈な 愛です。ご自身の独子イエスをさえ私たちの罪の贖いのためにお与えになったアガペーの愛で す。親にとって子を与えることは、自分を与える以上のことです。つまり私たちのこの世界は、 神がその独子を賜わったほどに神の愛したもう世界なのです。  神は「飼う者のいない羊の群れ」のような有様のこの世界と全ての人々を絶対に見過ごしに なさらない。真に人を愛するとは、その人を生かすために自分の生命を与えることです。主イ エスは測り知れない罪人である私たちのために、ご自分の生命(存在)の全てを与え尽くして 下さったかたです。だからキリスト(唯一の救い主)と呼ばれるのです。マイナスの価値しか ない私たちのために、まさに「飼う者のない羊のような」私たちを永遠の生命(神との真の交 わり)に生かしめるために、主は十字架への道を歩んで下さったのです。  ところが、この期に及んでも弟子たちには事の真相が見えていない。信仰のまなざしが暗い ままです。つまり弟子たちは今朝の35節にあるように「ここは寂しい所でもあり、もう時も おそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べるものを買いに、まわりの部落や 村々へ行かせて下さい」と主イエスに願ったのです。弟子たちの関心事は肉体の食物のことだ けであった。主イエスが群集に福音を語っておられる間、弟子たちは「ああもうすぐ日が暮れ る。この群集は着のみ着のままで何も食べものがない。周囲には人家も店もない。このままで はみんな飢えてしまう。早く何とかしなければ」と、そういう思いが主イエスへの注文となっ て現れたのです。  この弟子たちに、主イエスはまことに意外なことを言われます。37節です「イエスは答えて 言われた、『あなたがたの手で食物をやりなさい』」。弟子たちは本当に驚いたことでした。驚 き慌てて主イエスに不平不満を申しました。「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、 みんなに食べさせるのですか?」。群集は男だけで五千人もいるのです。女性と子どもを含め れば一万人以上はいたのです。こんなに大勢の人たちの空腹を満たすパンを、私たちに買わせ るおつもりですか?。「二百デナリ」というのは今日の金額で150万円ほどです。そんな大金 が私たちに「あるはずないでしょう」。仮にあったとしても、パンを売る店なんか「どこにも ないではありませんか」と文句を言ったのです。  これは人ごとではないのです。私たちこそ、主イエスに不平を漏らすだけのことがいかに多 いことでありましょうか。主の御言葉に真剣に聴き従おうとせず、人生の大切な場面で、まず 自分の経験や価値観に基づいて物事を決めてしまう、そういう私たちの姿があるのではないか。 言い換えるなら、私たちは人生の旅路において、主イエスよりも自分を賢い(正しい)と考え るのです。少なくともこの世の知恵や経験においては自分だけが頼りだと考えはじめるのです。 危険な罪の罠に陥るのです。自分が御言葉を判断する主になる罪をおかすのです。まさにその ような不従順の罪を、私たち全ての者がおかしているのではないでしょうか。  まさに、そのような私たち一人びとりに、主は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言 われます。「汝らの手にて与えよ」と命じたもうのです。ここからが今朝の御言葉の第3の場 面です。たとえ弟子たちが常識の線からいかに反発しようとも、主の御目にはこの群集の飢え 渇きこそが中心でした。この群集が自分たちの力で魂の飢え渇きを解決できるのであれば、湖 を先回りしてまで押し寄せては来ないのです。彼らの飢え渇きを満たしうるパンは、ただ神の 御言葉(真の礼拝)のみなのです。それをわからない弟子たちは、パンの問題を「めいめい」 の責任にしましょうと提言します。私たちの知ったことではないと言うのです。ただでさえ休 暇を犠牲にして群集の相手をしてやったのだ。それ以上のことは知るものか、そういう傲慢な 思いが弟子たちにはあったのです。  このような、私たちの霊的に貧しい(罪の)現実の中でこそ、主イエスは私たちが立ち生き るべき福音の原点を明確に示して下さいます。「人はパンのみにて生くるにあらず。神の御口 より出ずる一つひとつの言葉によるなり」。この御言葉こそ、世界を新たになしうる唯一の福 音であることを改めて示したもうのです。まさしく現実に目の前にいる、魂の真の糧を必要と す人々の飢え渇きを救うこと、それにまさる大切なことはないからです。弟子たちは、私たち は、この主イエスに従う弟子とされているのではないでしょうか。  だからこそ主は言われます「パンは幾つあるか。見てきなさい」。弟子たちは「五つありま す。それに魚が二匹」と答えました。それが彼らの持つ食物の全てでした。主イエスはそれで 充分だと言われます。大切なことは、私たちがそれを喜んで主にお献げすることです。主イエ スは群集を、あるいは五十人ずつ、あるいは百人ずつの組に分けて座らせたまい、その「五つ のパンと二匹の魚」を手にお取りになって、それを祝福され、手ずからお裂きになって、弟子 たちに配られ、それを群集に頒ち与えるように命じたもうたのです。私たちの教会で聖餐のと きに、配餐する長老が会衆席までパンとぶどう酒を運ぶのはここから来ていることです。「パ ンを裂き」「讃美の祈りを唱え」「配らせ」「分配する」。これは、他の福音書の同じ記事からも 読み取れるように、聖餐の姿そのものです。  そういたしますと、ここで主イエスが自ら祝福され、弟子たちに命じて群衆に配られた糧は、 主の十字架の贖いの御業を基礎とした、あの聖餐の始まりであったことがわかるのです。する とここで語られていることは、主イエスがなさった全ての奇跡が、いつでも罪の赦しと救いの 確かな「しるし」であったのと同じように、ここでも主はご自身の十字架の死と復活と昇天に よる、永遠に確かな救いを全ての人々にお示しになったのです。すなわち主が私たちの罪の贖 いのために死なれたこと、そして復活されたこと、その主イエスの恵みに教会を通してあずか ることによって、全ての者が確かな永遠の救いを与えられ、また、主の復活にあずかって、新 しい生命を与えられることの「しるし」であったということがわかるのです。  この群衆の中に、否、今日この御言葉が宣べ伝えられる私たちの内に、十字架と復活の主は 現臨しておられます。この主イエスこそ、私たち一人びとりの救いのために、ご自身の肉を裂 かれ、血を流したもうて、永遠の贖いを成遂げて下さったかたなのです。それは私たち全ての 者のために、永遠の神の国の祝宴を(贖われ、救いを全うされた聖徒らの幸いを)先取りさせ て下さることです。いまここに私たち一人びとりの内に、神の恵みのご支配は現わされている のです。いま私たちがその恵みの内に生かしめられているのです。  だからこそ、主は私たちに言われます。「あなたがたの手で食物をやりなさい」と。私たち はその「食物」を知らない者ではないからです。十字架の主イエス・キリストの恵みを知る者 として、聖なる公同の使徒的なる教会、キリストの御身体なる教会に連なる者として、いま主 の恵みに生かされ、永遠の生命(神との永遠の交わり)を与えられている私たちなのです。そ の私たちは「五つのパンと二匹の魚」を喜んで主にお献げする幸いと喜びに生きる群れとされ ています。「自分にはこれしかない」と思うかもしれません。しかし私たちが持てるものを主 の御用のために大胆にお献げするとき、主はそれを受け入れ、祝して用いて下さり、そこに真 の教会を建て、霊の御糧をもって人々の魂の飢え渇きを満たして下さるのです。そのとき、も はや私たちの人生は、この世界は「飼う者のなき羊の群れ」などではない。主が生命を注いで 愛し祝福し贖って下さった、そのような人生と世界の歴史を、心を高く上げて主と共に歩む私 たちとされているのです。「罪人のかしら」なるこの私たちをも救いたもうた主こそ、全ての 人の贖い主であられるからです。