説    教    ホセア書2章19〜20節  エペソ書1章20〜23節

「キリストの御身体」

2015・07・05(説教15271597)  今朝与えられたエペソ書の1章22節に「かしら」という素晴らしい言葉が出て参ります。「そ して、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」と あることです。これが今朝最初の福音の喜びの告知です。十字架と復活の主イエス・キリスト のみが、私たちの(私たちの教会の)変わらぬ唯一の「かしら」であられるのです。  神は私たち全ての者を測り知れない罪から(滅びから)救うために、絶大な救いの御力を「キ リストのうちに働かせ」たまい、イエス・キリストを唯一の救いの御名(救いの完全な権威) として「きたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれた」のです。神が与え て下さったこの「救いの御名」(キリストの御業)こそ、この世界と歴史を救い、全ての人を 祝福する永遠の「救いの権威」です。その絶大な「救いの権威」のもとに、私たちはいま、主 の御身体なる教会によって招き入れられているのです。  ですから、すぐ後の23節にはこう告げられています。「この教会はキリストのからだであっ て、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほ かならない」。これこそエペソ書の全体を貫く最も大切な音信(おとずれ)です。「教会はキリ ストの御身体である」という事実は、全世界と全ての人々に対する大いなる救いと祝福の宣言 だからです。  さて、人間の身体には「かしら」が不可欠です。もし身体と「かしら」(頭)が分離するな ら、その身体は死ぬほかありません。つい先日ロシアで、難病の患者が自分の首から上を脳死 状態の人の身体に移植する手術を受けることが決まったという新聞記事を読みました。とても 難しい手術で、チームの医師看護師は150名、手術時間は36時間、費用は12億円かかるそう です。成功すれば人類史上初の快挙です。しかし、私たちはそれに遥かにまさる快挙を(奇跡 的な救いを)戴いているのではないでしょうか。それは、私たちの死ぬべき罪の身体がキリス トという唯一の「かしら」を戴くものとされたことです。そこでこそ、私たちは本当の祝福の 生命に生きる者とされたのです。それが私たちの教会です。  この喜びと幸いを告げるために、宗教改革者ルターは世界最初のドイツ語聖書において今朝 の「かしら」という言葉を「第一のもの」(Haupt)と訳しました。それは私たちが主の教会 に連なることによって、私たち一人びとりが、主の復活の生命に甦る第二、第三、第四…の者 とされるからです。「キリストの復活の生命に(全てにまさる救いの喜びに)この私も第二、 第三、第四、第五…の者としてあずからせて戴いている」という喜びの告白、それが今朝のエ ペソ書2章20節以下を貫いている「福音」(喜びの報せ)なのです。  これと同じことをパウロは、第一コリント書15章20節において、キリストは私たちのため に「初穂」となられたと語っています。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、 死人の中からよみがえられたのである」。この「初穂」とは神に献げられた新しい生命(新し い人生)という意味です。今までは罪に支配されていた私たちの身体であった。しかしこれか らはキリストのみを唯一の「かしら」とするキリストの御身体なる教会に結ばれて、私たちは 新しい復活(救い)の「初穂」とならせて戴いている。その確かな保障として、まずキリスト ご自身が復活の生命を現わして下さったのです。その復活の生命を全ての人にお与えになるた めに、主みずからご自身の“御身体なる教会”をお建てになり、そこに私たちを、何の値もな くして招き入れて下さったのです。  改めて今朝の20節を心に留めましょう。「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死 人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、 権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あら ゆる名の上におかれたのである」。主の教会に連なることは、私たちが既に罪の支配のもとか ら、キリストの恵みのご支配のもとに移されたことを意味します。いかなる「支配、権威、権 力、権勢」も、罪と死の力さえも、キリストの恵みの力の前には無力です。私たちは教会に結 ばれることによって、キリストのみを唯一の「頭」とする肢体(枝)とされて、第一コリント 書15章58節が告げている新しい生活の幸いに生きるのです。「だから、愛する兄弟たちよ。 堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたが たの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。  7年前に天に召された大阪の永井修先生が「伝道者の愛」ということをよく語られました。 「伝道愛」という表現も用いておられました。「伝道とは即ち愛である」。考えてみれば本当に そうなのではないでしょうか。それは牧師のロマンチックな感想などではありません。伝道と は、私たちが自分の最も大切なものを相手に与えること(伝えること)だからです。私たちの 最も大切なものとは何でしょうか?。それこそ、私たちのために十字架に死んで下さったイエ ス・キリストの御名(十字架の主の御業)ではないでしょうか。そして実はそのことは、まず キリストご自身が私たちを限りなく愛して下さった、そのキリストの愛に私たちが生かされる ことなのです。実はそこに「教会はキリストの御身体である」ということの意味があると思う のです。その愛には「からだ」が伴なうからです。教会はキリストの愛が世に注がれる「キリ ストの御身体」なのです。  この世界は(また私たちの人生は)多くの人々にとって、自分たちの「自己実現の場」であ るかのように考えられています。自分の思い、自分の計画、自分の願い、自分の要求、そうい う自分中心の求めがいかに大きく実現するかによって、人生の幸福度が計られるのだと多くの 人が考えています。しかし本当にそうなのでしょうか?。人間がみな自己実現に突き進んで、 それで本当に幸いで平和な平等の世界が実現するのでしょうか?。そうではないと思います。 そこに現れるのは弱肉強食の競争原理が支配する世界であり、結局は「自己破壊」の世界でし かないからです。人生において最も大切なものは「自己実現」などではありません。人生にお いて最も大切なものは「神の御心の実現」であり「キリストの愛の実現」ではないでしょうか。  ある歌謡曲(J-Popと言うのでしょうか?)の歌詞に「ナンバーワンではなく、オンリーワ ン」というものがあります。ナンバーワン(自分が第一)ではなく、オンリーワン(かけがえ のない汝)になること。そこに私たちの本当の幸いと自由があるのです。そしてここに大切な ことがあります。それは「オンリーワン」としての人生が現実に本当に成り立つためには、そ れを絶対の価値として認めて下さる「主」がおられなければ無意味なのです。すなわち教会の 唯一の「かしら」であられるイエス・キリスト無しには「オンリーワン」の人生は成り立たな いのです。さらに言うなら、私たちがキリストのみを唯一の「かしら」とする「主の身体なる 教会」に連なることによってのみ「オンリーワン」の人生が成り立つのです。あらゆる相対的 評価を超えた絶対的評価がそこに成り立つからです。  それはこういうことです。ある小学校の理科の問題に「氷が溶けたら何になりますか?」と いう問題が出ました。理科の問題ですから、答えはもちろん「水になる」です。ところが一人 の女の子が「春になります」という答えを書いた。もちろんこれは不正解なのですが、担任の 先生はテストの用紙に「すばらしい」と書いたそうです。これは相対的評価を超えた、唯一の 価値に対する絶対的な評価です。この女の子の瑞々しい感性を「すばらしい」と評価できた、 その教師は実に立派な教育者であると私は思います。それならば、神はなおさらではないでし ょうか。  神は私たちに対して、絶対的評価しかなさいません。他と比較して序列を決めるような評価 (相対的評価)を神は決してなさらない。たとえば親にとってわが子は「かけがえのない」唯 一のわが子です。同じように、神にとって私たち一人びとりはみな「かけがえのない」絶対の 愛の対象でありオンリーワンの存在なのです。だから伝道とは、ひとことで言うなら「あなた は神の前にかけがえのない存在とされています」というメッセージを全ての人に伝えることで す。あなたをかけがえのない唯一絶対の存在として主は愛して下さった。その愛によって、主 はあなたのために十字架にかかって死んで下さった。教会はそのキリストの愛の満ち溢れる御 身体です。そこにあなたは招かれている。かけがえのない存在とされている。その喜びと幸い を伝える伝道こそ、まことに「愛のわざ」なのではないでしょうか。  聖書はこのキリストの愛を「アガペー」という言葉で表します。それは相手の価値に応じて 変化する価値追求的な愛(エロース)に対して、無条件の愛によって私たちにかけがえのない 価値を与える価値創造的な愛です。ですから主イエス・キリストが「教会のかしら」であられ るという事実は、そのキリストの無限の愛が、全ての人を活かす神の祝福として教会を通して 世に注がれていることです。その愛は身体を持たない愛ではない。具体的に、いまここにおい て,あなたを活かす祝福の生命として、ここに「キリストの御身体なる教会」が存在するので す。まさに「伝道の愛」に生きる私たちのわざもそこに始まるのです。だから、使徒パウロは エペソの教会の信徒たちに語りかけています。教会に連なる生きた信仰の歩みを失わないよう にしよう。教会に仕える幸いに、主にお仕えする幸いと自由に、私たちは共に生きる僕になろ うではないか。4章12節「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのから だを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致と に到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るためである」。 信仰に具体的な身体があるように、愛にも具体的な身体があるのです。それはキリストを唯一 の「頭」とするキリストの御身体、すなわち聖なる公同の使徒的なる教会です。ここに連なる 私たちは、いまキリストの復活の生命に満たされ、死を超える生命に、死に打ち勝つ唯一の生 命に満たされ、かけがえのない存在として生きる僕とされているのです。  教会の唯一の「頭」はキリストです。教会に連なることは、キリストに結ばれることです。 そこでこそ私たちは、あるがままに、キリストの復活の生命に結ばれた新しい歩みを始めてゆ きます。もはや自分の願いや欲望を主とするのではない。神の御心に喜び仕える僕(キリスト の愛の証人)としての人生を歩む者とされるのです。そこに本当に人を活かす自由と幸いがあ ります。私たちの存在と生涯を通して、キリストの限りない愛が輝く幸いと祝福に、いま私た ちは共に招かれ、生かされていることを覚え、唯一の主の御名を崇めましょう。  最後にもう一度、今朝の23節の御言葉を心に留めたいと思います。「この教会はキリストの からだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちてい るものに、ほかならない」。私たちはいまこの「キリストの御身体」に連なっているのです。