説    教    ホセア書2章20〜22節  エフェソ書1章20〜23節

「キリストの御身体」

 御殿場教会にて 2015・06・28(説教15261596)  今朝私たちに与えられたエフェソ書の1章22節に「頭」(かしら)という素晴らしい言葉が出て参 ります。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある 頭として教会にお与えになりました」。これが今朝最初の福音の告知です。イエス・キリストのみが私 たちの変わらぬ唯一の「頭」であられるのです。  神は私たち全ての者を測り知れない罪(滅び)から救うために、絶大な救いの御力を「キリストの うちに働かせ」たまい、イエス・キリストを唯一の救いの御名(救いの権威)として「来たるべき世 にも唱えられるあらゆる名の上に置かれ」たのです。神が与えて下さったこの救いの御名こそ、この 世界と歴史を救い全ての人を祝福する永遠の救いの権威です。その絶大な「救いの権威」のもとに私 たちはいま、主の御身体なる教会によって招き入れられているのです。  ですから、すぐ後の23節にはこう告げられています。「教会はキリストの体であり、すべてにおい てすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」。これこそエフェソ書の全体を貫く最も大切な 音信(おとずれ)です。「教会はキリストの御身体である」という事実は、全世界と全ての人々に対す る大いなる救いと祝福の宣言だからです。  人間の身体には「頭」が不可欠です。もし身体と「頭」が分離するなら、その身体は死ぬほかはな いからです。つい先日ロシアで、重症の病気の患者さんが、自分の首を(首から上を)脳死状態の他 の人の身体に移植する手術を受けることが決まったという新聞記事を読みました。とても難しい手術 で、チームの医師看護師は150名、手術時間は36時間、費用は12億円かかるそうです。成功すれば 人類史上初の快挙です。しかし、もしこれが大きな驚きならば、私たちはそれに遥かにまさる奇跡的 な救いを戴いているのではないでしょうか。それは、私たちの死ぬべき罪の身体がキリストという唯 一の「頭」を戴くものとされたことです。そこでこそ、私たちは本当の祝福の生命に生きる者とされ たのです。それが私たちの教会です。  この喜びと幸いを告げるために、宗教改革者ルターは世界最初のドイツ語聖書において今朝の「頭」 という言葉を「第一のもの」(Haupt)と訳しました。それは私たちが主の教会に連なることによっ て、私たち一人びとりが、主の復活の生命に甦る第二、第三、第四…の者とされるからです。「キリス トの復活の生命に(全てにまさる救いの喜びに)この私も第二、第三、第四、第五…の者としてあず からせて戴いている」という喜びの告白、それが今朝のエフェソ書2章20節以下を貫いている「福 音」(喜びの報せ)なのです。  これと同じことをパウロは、第一コリント書15章20節において、キリストは私たちのために「初 穂」となられたと語っています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人た ちの初穂となられました」。この「初穂」とは神に献げられた新しい生命(新しい人生)という意味で す。今までは罪に支配されていた私たちの身体であった。しかしこれからはキリストのみを「頭」と するキリストの御身体なる教会に結ばれて、私たちは新しい復活(救い)の「初穂」とならせて戴い ている。その確かな保障として、まずキリストご自身が復活の生命を現わして下さったのです。その 復活の生命を全ての人にお与えになるために、主自らご自身の“御身体なる教会”をお建てになり、 そこに私たちを、何の値もなくして招き入れて下さったのです。  改めて今朝の20節を心に留めましょう。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の 中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、 今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。主の教会に連なる ことは、私たちが既に罪の支配のもとから、キリストの恵みのご支配のもとに移されたことを意味し ます。いかなる「権威、勢力、主権」も、罪と死の力さえも、キリストの恵みの力の前には無力なの です。私たちは教会に結ばれることによって、キリストのみを唯一の「頭」とする肢体(枝)とされ て、第一コリント書15章58節が告げている新しい生活の幸いに生きるのです。「わたしの愛する兄 弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に 結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずで す」。  先日、電話で中島先生と、今日のこの講壇交換の準備についてお話をしました。話の流れの中で中 島先生が突然「先生、伝道とは愛ですよね」と言われました。私はその言葉に心打たれました。天に 召された大阪の永井修先生も同じことを語っておられました。ロマンチックな牧師の感想などではあ りません。「伝道とは愛である」それは、私たちが自分の最も大切なものを相手に与えること(伝える こと)だからです。私たちの最も大切なものとは何でしょうか?。それこそ、私たちのために十字架 に死んで下さったイエス・キリストの御名(キリストによる本当の救い)ではないでしょうか。そし て実はそのことは(中島先生もその意味で語っておられましたが)まずキリストご自身が私たちを限 りなく愛して下さった、そのキリストの愛に私たちが生かされることなのです。実はそこに「教会は キリストの御身体である」ということの意味があると思うのです。  この世界は(また私たちの人生は)多くの人々にとって、自分たちの「自己実現の場」であるかの ように考えられています。自分の思い、自分の計画、自分の願い、自分の要求、そういう自分中心の 求めがいかに大きく実現するかによって、人生の幸福度が計られるのだと多くの人が考えています。 しかし本当にそうなのでしょうか?。人間がみな自己実現に突き進んで、それで本当に幸いで平和な 平等の世界が実現するのでしょうか?。そうではないと思います。そこに現れるのは弱肉強食の競争 原理が支配する世界であり、結局は「自己破壊」の世界でしかないからです。人生において最も大切 なものは「自己実現」などではありません。人生において最も大切なものは「神の御心の実現」であ り「キリストの愛の実現」ではないでしょうか。  ある歌謡曲(J-Popと言うのでしょうか?)の歌詞に「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と いうものがありました。ナンバーワンではなく、オンリーワンになること。そこに私たちの本当の幸 いと自由があるのです。そしてここに大切なことがあります。それは「オンリーワン」としての人生 が現実に成り立つためには、それを絶対の価値として認めて下さる「主」がおられなければ無意味な のです。すなわち教会の唯一の「頭」であられるイエス・キリストなしには「オンリーワン」の人生 は成り立たないのです。さらに言うならば、私たちがキリストのみを唯一の「頭」とする「主の身体 なる教会」に連なることによってのみ「オンリーワン」の人生が成り立つのです。あらゆる相対的評 価を超えた絶対的評価がそこに成り立つからです。  それはこういうことです。ある小学校の理科の問題に「氷が溶けたら何になりますか?」という問 題が出ました。理科の問題ですから、答えはもちろん「水になる」です。ところがある女の子が「春 になります」という答えを書いた。もちろんこれは不正解なのですが、担任の先生はテストの用紙に 「すばらしい」と書いたそうです。これは相対的評価を超えた、唯一の価値に対する絶対的な評価で す。この女の子の瑞々しい感性を「すばらしい」と評価できた、その教師は実に立派な教育者である と私は思います。それならば、神はなおさらではないでしょうか。  神は私たちに対して、絶対的評価しかなさいません。他と比較して序列を決めるような評価(相対 的評価)を神は決してなさらない。たとえば親にとってわが子は「かけがえのない」唯一のわが子で す。同じように、神にとって私たち一人びとりはみな「かけがえのない」絶対の愛の対象でありオン リーワンの存在なのです。だから伝道とは、ひとことで言うなら「あなたは神の前にオンリーワンの 存在です」というメッセージを全ての人に伝えることです。あなたをかけがえのない唯一絶対の存在 として主は愛して下さった。その愛によって、主はあなたのために十字架にかかって死んで下さった。 教会はそのキリストの愛の満ち溢れる御身体です。そこにあなたは招かれている。かけがえのない存 在とされている。その喜びと幸いを伝える伝道こそ、まことに「愛のわざ」なのではないでしょうか。  聖書はこのキリストの愛を「アガペー」という言葉で表します。それは相手の価値に応じて変化す る価値追求的な愛(エロース)に対して、無条件の愛によって私たちにかけがえのない価値を与える 価値創造的な愛です。ですから主イエス・キリストが「教会の頭」であられるという事実は、そのキ リストの無限の愛が、全ての人を活かす神の祝福として教会を通して世に注がれていることです。そ の愛は身体を持たない愛ではない。具体的に、いまここにおいて,あなたを活かす祝福の生命として、 ここに「キリストの御身体なる教会」が存在するのです。まさに「伝道の愛」に生きる私たちのわざ もそこに始まるのです。だから、使徒パウロはエフェソの教会の信徒たちに語りかけています。教会 に連なる生きた信仰の歩みを失わないようにしよう。教会に仕える幸いに、主にお仕えする幸いと自 由に、私たちは共に生きる僕になろうではないか。信仰に具体的な身体があるように、愛にも具体的 な身体があるのです。それはキリストを唯一の「頭」とするキリストの御身体、すなわち聖なる公同 の使徒的なる教会です。ここに連なる私たちは、いまキリストの復活の生命に満たされ、死を超える 生命に、死に打ち勝つ唯一の生命に満たされ、かけがえのないオンリーワンの存在として生きる僕と されているのです。  教会の唯一の「頭」はキリストです。教会に連なることは、キリストに結ばれることです。そこで こそ私たちは、あるがままに、キリストの復活の生命に結ばれた新しい歩みを始めてゆきます。もは や自分の願いや欲望を主とするのではない。神の御心に喜び仕える僕(キリストの愛の証人)として の人生を歩む者とされるのです。そこに本当に人を活かす自由と幸いがあります。私たちの存在と生 涯を通して、キリストの限りない愛が輝く幸いと祝福に、いま私たちは共に招かれ、生かされている ことを覚え、唯一の主の御名を崇めましょう。  最後にもう一度、今朝の23節の御言葉を心に留めたいと思います。「教会はキリストの体であり、 すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場所です」。