説    教   イザヤ書56章7節   マルコ福音書11章12〜23節

「枯れた無花果の意味」

2015・06・21(説教15251595)  福音書の中には主イエスがなさった数々の奇跡が記されておりますが、それらはみな病気の癒し、 嵐の鎮め、パンの奇跡、死人の甦りなど、神の祝福と愛の確かさを感じさせるものばかりです。しか し今朝のマルコ伝11章12節以下はどうも様子が違います。ここには主イエスが「いちじくの木」を 呪われたところ、その木が翌日には枯れてしまったということが記されているのです。私たちはこの 御言葉を読むとき正直困惑してしまうのではないか。一体どのようにこの御言葉を理解したら良いの か。ここにどのような福音を読み取るべきなのか。「よくわからない」というのが本音なのではないで しょうか。  そこで、まず12節から14節を読んでみましょう。主イエスは十字架の死までの最後の一週間をエ ルサレムで過ごされましたが、夜は少し離れたベタニヤという村に泊っておられました。ですから今 朝の12節に「彼らがベタニヤから出かけてきたとき」とあるのは、主イエスと十二弟子たちがいつ ものようにベタニヤからエルサレムに向かう途中で…という意味です。その距離はおよそ3キロでし た。その道の途中に一本の「いちじくの木」があったのです。おりしも主イエスは空腹を覚えられ、 その「いちじくの木」に実がないかと近づかれたところ、葉ばかりが繁っていて実がひとつも見当た らなかった。今朝の13節には「葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったか らである」と記されています。ところが主イエスは、そのいちじくの木に向かって「今から後いつま でも、おまえの実を食べる者がないように」と言われたのでした。主はその「いちじくの木」を呪い たもうたのです。「弟子たちはこれを聞いていた」と14節には記されています。ある意味で弟子たち にとっても、この時の主の言葉は不思議なものに聞こえたのです。  それは私たちにも簡単にわかることです。実のなる季節でない時にいくら実を求めたとしても、そ れは無理難題というものでしょう。その無理難題(理不尽なこと)を主イエスは求めておられると弟 子たちは感じたのです。そこで古今東西、聖書の様々な注解の中で、この無理難題の謎を解き明かそ うと様々な解釈が試みられてきました。そうした解釈のひとつとして、主イエスは「しいな」と呼ば れる一種の“季節はずれの実”を求められたのだという説があります。しかし今朝の御言葉を読むと き、それはあまり説得力ある解釈とは思えません。マルコ伝がここで問題にしているのは、あくまで も「主イエスが求めたもうたその時に、いちじくの実が無かった」という点にあるからです。それが 私たちの目に理不尽に見えるか否かは今朝の御言葉の中心ではないのです。  そこで、改めて私たちが心にとめたいことは、この「いちじくの木」が当時のエルサレム神殿(ひ いてはパリサイ人を代表とする律法学者)の象徴であったという事実です。預言者エレミヤの言葉の とおり、パリサイ人らは「主の神殿、主の神殿」と口先で唱え律法に拘るだけで、真の神を信じ敬う 精神(真の信仰)を失っていました。エレミヤは語ります。実際にはあなたがた(律法学者)は、盗 み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香を焚いているではないか。それなのにこの神殿に来て、 自分たちは「救われた」と言っている(エレミヤ7:4〜11)。だとすればこれほど大きな神聖冒涜はな いのです。葉ばかりが繁って実の無いいちじくの木は、まさにこの律法学者らの不信仰(そして私た ちの不信仰)を現わしているのです。  それならば、ここでこそ改めて私たちは、今朝の御言葉で主イエスが「空腹をおぼえられた」と明 確に記されていることに心をとめねばなりません。激しい飢え渇きにも似た切なる思い(祈り)をも って、主は私たちを(私たちの救いを)求めておられるのです。だから、私たちが結ぶべき実、主が 私たちに求めておられる果実は、私たちが神に立ち帰り、救われた主の僕として生きることです。そ の「実」をこそ主は私たちに求めたもうのです。「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要と しない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、天にある」(ルカ15:7)のです。そして ヨハネ伝3:16以下を覚えましょう。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り 子を信ずる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、 世を審くためではなく、御子によって世が救われるためである」。主が私たちに求めておられる「実」 とは、私たちが主に立ち帰り、礼拝者として歩むことです。主を救い主(キリスト)と信じ告白し、 主の御身体なる教会に連なり、礼拝者としてその生涯を忠実に生きることです。すなわち、主は信仰 という「実」を私たちに求めておられるのです。  このことを心に留めつつ、次に私たちは今朝の13節以下の「宮きよめ」の記事へと進みましょう。 エルサレム神殿の広い境内にたくさんの屋台(両替商や生贄の鳩を売る商売人たちの店)が出ていま した。神聖な神礼拝の場であるべき神殿が、いつのまにか商売の場(人間中心の利益追求の場)とな っていたのです。しかも神殿の祭司たちはこれらの商売人たちから賄賂を受けていました。だから、 主イエスがこれらの屋台を追い払われたというのは、私たちの普通の考えからすれば、商売人たちと 祭司たちとの癒着構造を改革しようとされたのだと考えることができます。しかしそれだけなのでし ょうか?。もしそれだけなら、主イエスのこの「宮きよめ」の行為も歴史上の一事件に過ぎません。 屋台の商人たちは一時は逃げて、またすぐ戻って来たに違いないからです。翌日になれば何事もなか ったようにいつもの光景が繰り広げられたことでしょう。神殿の境内、異邦人の中庭では、こうした ことが祭司らの権威によって認可されていたからです。  主イエスの「宮きよめ」のわざは、この世の構造改革と同一平面のものなどではありません。かつ てフランス革命の急進派ロベスピエールは、聖書のこの記事を暴力革命の根拠としましたが、それは 見当違いな解釈です。そうではなくて、主イエスの「宮きよめ」は旧約聖書のマラキ書3章に基づい て、神から遣わされた全世界の救い主(キリスト)がいまここに来ておられることを示す「力あるわ ざ」でした。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが 求めるところの主は、たちまちその宮に来られる。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万 軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。 このような主・歴史の救い主が、いま私たちのただ中に立ちたもうのです。その恵みの力をもって私 たちの罪を贖い、世界を新たにして下さるために、主は私たちのもとにいま来ておられる。主は言わ れます「『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではない か。それなのに、あなたがたは、それを強盗の巣にしてしまった」。この「強盗の巣」とは「強盗の隠 れ家」という意味です。私たちは罪を犯しても神に立ち帰ることをせず、逆にその罪を隠蔽するため に、自分の中に「隠れ家」を持つ存在なのです。神の目の届かぬところがあると思い、そこに「隠れ 家」を持てば自分は安全だと思い違いをするのです。  私たちの救いと平安は、いつでも主なる神の御前にしかありません。「その来る日には、だれが耐え 得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう」。まさに神の御前に立ちえざる私たちを、主はご 自身の生命をもって贖い、その全ての罪を赦し、御前に健やかに立つ者として下さったのです。ヨハ ネ伝2章18節以下を見ますと、なぜこんなことをするのかと問う律法学者らに対して、主は「この 神殿を壊してみよ、三日で建て直すであろう」と言われました。それはご自身の十字架による全世界 の罪の贖いと、復活による真の生命に基づく新しい「神の宮」(教会)を現わしているのですが、人々 はこれを神殿に対する冒涜であるとして、主イエスの十字架刑の直接の原因となりました。このこと からもわかるように、主イエスが「宮きよめ」をなさった意味は、本来は神のものであるにもかかわ らず「強盗の巣」になってしまったエルサレム神殿(すなわち私たち)に対して、主イエスの来臨に よる真の審き(救い)の時が来たという宣言です。そして三日目に、すなわち主イエスの復活によっ て、人の手によらない本当の神殿(真の礼拝)が、主によって建てられるのです。  パウロは第一コリント書3章16節以下にこう語っています「あなたがたは神の宮であって、神の 御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人 を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだから である」。「強盗の巣」でしかなかった私たちがキリストの贖いによって「神の宮」とされること、そ れにまさる喜びがどこにあるでしょうか。私たちには復活の主が与えて下さった「神の御霊」(聖霊) が宿っているのです。私たちを導き、力を与え、信仰を強めて下さるかたは、聖霊なる神ご自身なの です。  さて、20節以下を見ますと例の「いちじくの木」は翌日、根元から枯れていました。ペテロも前日 の主の言葉を思い出して「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」(21 節)と申しました。ここで大切なのは、この「いちじくの木」は「根元から」枯れたということです。 葉は枯れてしまったけれど幹や根はまだ生きている、ということではなく、木の全体が枯れてしまっ た。ここに主イエスのご受難の意味が明らかにされているのです。エルサレム神殿を根元から完全に 終わらせ、新しい真の救いを私たちにお与えになるために、主イエスは十字架の上に完全に死なれた かたなのです。このことを、使徒パウロもローマ書3章21節以下にこう申しています「しかし今や、 神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・ キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはな んらの差別もない」。主が高らかに宣言なさった「時は満てり。神の国は近づけり。悔改めて福音を信 ぜよ」この御言葉を、ここで私たち自らへの限りない救いの音信として聴き取りましょう。キリスト を信じキリストに結ばれて生きる私たちは、もはや古き罪の支配を受けず、永遠にキリストの恵みの ご支配のもとに生かされているのです。御子イエス・キリストによって神が無償でお与え下さる全く 新しい完全な救いを、私たち一人びとりが心から信じ、その恵みにあずかり、キリストの復活の生命 に生かされて、まことの礼拝者として立ち続けてゆかねばなりません。  枯れたいちじくの木に関連して、22節以下には「祈り」について主の御教えが記されています。マ ルコは枯れたいちじくの木の出来事と「祈り」に関する主の御教えを結びつけて理解している、それ は同時に初代教会の人々が、そのように今朝の御言葉を読み取ったということです。ここに記されて いる御言葉の意味は、祈れば山でさえ動くのだという魔術的な事柄ではありません。あるいは祈りに よって何でも実現するということでもありません。そうではなく、ここでの主体は主なる神です。私 たちのただ中に、主なる神が、不可能なことを実現して下さったのです。罪に支配されていた私たち が、神に愛され、神の愛に答え、祈りうる存在とならせて戴いている。それこそ全てにまさる奇跡の 出来事です。まさに私たちのただ中に、主イエス・キリストによって、救いの御業が起こったのです。 死人の甦りが実現したのです。この罪の身体が贖われ、永遠に主のものとされたのです。それこそ山 が海に飛びこむより、はるかに大いなる出来事なのです。  主なる神は、まさにそのような救いを、私たち一人びとりに現わして下さいました。そして私たちをし て、信仰の「実」を結ぶ者として下さったのです。私たちを「実」を結ぶものとなすために、ご自身は十 字架の上に自らを献げて下さったのです。根元から枯れる無花果でしかありえない私たちの身代わりとな って、ご自分が贖いの犠牲として死んで下さったのです。ここに「枯れた無花果の意味」があるのです。