説    教    創世記37章1〜4節   ローマ書16章16節

「平安の挨拶−ヨセフ物語」

2015・06・14(説教15241594)  イギリスの作曲家エドワード・エルガーの作品に「愛の挨拶」という曲があります。有名なメロディ ですから、ご存じの方も多いと思います。エルガーは第一次世界大戦の惨禍の中、全世界の人たちが互 いに心から“愛による挨拶”を交し合う、そういう世界の実現を願ってこの曲を作曲したと伝えられて います。しかし現実には、私たちの人間社会はなお「愛の挨拶」からは程遠い現実にあるのではないで しょうか。  旧約聖書・創世記は37章から終わりの50章にかけて「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なドラマを展開 しています。このドラマの主人公であるヨセフは、イスラエルの族長ヤコブの末っ子として生まれ、父 ヤコブの寵愛を一身に受けて育ちます。持前の正義感も災いして、兄たちの不品行を父ヤコブに告げ口 したりしたものですから、兄たちの激しい嫉妬と反感を買いまして、ある日、父ヤコブの目の届かぬ荒 野でイシマエル人の隊商(キャラバン)に奴隷として売り飛ばされてしまうのです。  同じ血を分けた兄弟が兄弟(弟)を奴隷に売る。それは凄まじい憎悪の噴出であり人間関係の究極の 破綻を意味しました。「愛の挨拶」どころではない、憎悪による「呪いと破壊」が兄弟をさえ支配してし まうところに、私たち人間の罪の姿があるのです。しかも兄たちは父ヤコブに「ヨセフは野獣に噛み殺 されました」と犯罪の隠蔽工作をするのです。このあたり実に鬼気迫る場面でして、私たち人間の絶望 的な罪の様子が示されています。  さて、ヨセフを奴隷として買ったイシマエル人らは、さらにエジプトでヨセフを王(パロ)の側近で 侍従長であったポテパルなる人物に転売してしまいます。奴隷売買が行われたわけです。そのポテパル の家で、ヨセフはポテパル妻の讒言により無実の罪を着せられ、エジプトの牢獄に囚われの身になって しまいます。古代エジプトの牢獄は考えられる最悪の環境でした。普通ならここで物語は終わりのはず でした。ヨセフは数奇な短い生涯をエジプトの牢獄の中で終え、万事は闇に葬られて結末を迎えたはず でした。  しかし主なる神は、ヨセフの新しい生涯を、まさにその人間の罪(牢獄の闇)の中でこそ始めたもう のです。「人間のピリオド(終わり)は神のコンマ(始まり)である」という言葉があります。大きな苦 しみと試練の中で、なお神への揺るがぬ信仰に立ち、謙遜と勇気を培われたヨセフは、自分の人生が神 の求めたもう平和の使者として召されたものであることを信仰によって自覚してゆきます。数々の出来 事を経て数年後に牢獄から出たヨセフは、信仰による高潔な人格と知恵をパロに認められ、今日でいう 財務大臣の地位に引き立てられるのです。そしてヨセフが財務大臣になるや否や、腐敗堕落していたエ ジプトの政治は見違えるほどに立ち直り、人々はみなヨセフの徳のゆえに神を讃美したと告げられてい るのです。  さてそのころ、祖国イスラエルが酷い飢饉に見舞われたという報せがヨセフの耳に届きました。食料 が底を突き、かつて自分をイシマエル人に売った兄たちが、弟ヨセフがエジプトの財務大臣だとは知ら ずに食糧援助を求めて来たのです。その間さまざまなややりとりがありましたが、最も大切なことは何 かと申しますと、ヨセフはそこで兄たちと信仰による和解を果たすのです。「わたしはヨセフです、父上 はまだ達者ですか」と兄たちに告げるのです。驚き恐れる兄たちにヨセフは更に申しました。「恐れるに は及びません。私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、主なる神です。神はイスラエルを救わ れるために、まず私を和解の使者として、不思議な摂理の御手をもって、このエジプトへとお遣わしに なったのです」。  そこには分裂した神の家が、神の摂理の御手のもと再び一つになった喜びが告げられています。この ように、罪によって分裂した世界の「神の家」としての回復と平和がヨセフ物語の主題です。この主題 をドイツの作家トーマス・マン(北ドイツの改革派教会の敬虔な家庭に育った人ですが)は「ヨセフと その兄弟」において描きました。マンはヨセフ物語がまさに“荒廃した世界の回復と再生”の約束、つ まり“復活の福音”であることを読み取り「ヨセフ物語の主人公は十字架の主イエス・キリストご自身 である」と語っています。十字架の主による罪の贖いに生きる民、主の教会のみが、あらゆる荒廃と混 乱のただ中にあって、平和と和解の福音の使者として生き、復活の幸いを告げうる唯一の「神の家」な のです。十字架の主のもとでのみ「平安の挨拶」が回復されてゆくのです。  さて、もともと「ヨセフ物語」は、兄弟が兄弟に対して「平安の挨拶」を持ちえなくなったという人 間の罪の現実から始まりました。すなわち今朝の創世記37章4節に「兄たちは、父がどの兄弟よりも ヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」とあることです。こ の「穏やかに話せなくなった」という言葉の中に私たちは「平安の挨拶の喪失」としての人間の罪の姿 を見るのです。私たち自身の人生にもそういう経験があるのではないでしょうか。隣家の住人に挨拶を 無視された、たったそれだけの理由で病気になってしまった婦人がいました。挨拶を無視することはそ れ自体が一つの「呪い」です。ですから「穏やかに話せなくなった」とは、そういう「呪い」が私たち の人間関係の中に入りこんできたということ、そういう「呪い」が社会全体を支配するようになったと いうことなのです。  ここで「穏やか」と訳された元のヘブライ語は「シャローム」(神の平安)です。つまり「穏やかに話 せなくなった」とは、言い換えるなら「神の平安を語りえなくなった」ということです。だからこそ聖 書の中では「挨拶」という言葉が重要な意味を持つのです。それは単に人間関係の社交儀礼ではなく、 私たちがこの社会において、あらゆる人間のために神の祝福を語りうる者となる「祈り」の問題だから です。人間関係のあらゆる破れや「呪い」を超えて、それにもかかわらず、否、それゆえにこそ、自分 が相手のために「祈り」を献げうる、そういう存在たりえているかどうかという祝福の問題なのです。  主イエス・キリストはマタイ伝5章47節において「自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優 れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」と言われました。形 だけの社交儀礼としての「挨拶」なら、そこに「信仰」がなくても良いのです。そうではなく、主が私 たちに求めておられる「平安の挨拶」とは、まさに「穏やかに話すことができない」あらゆる人間関係 の罪と破れの中で、なお私たちが相手のために、神の祝福と平和を「祈る」者とされていること、平安 を語りうる者とされている恵みに生きることなのです。ですから聖書が告げる「挨拶」(祝福)とは、ま ず何よりも相手のために「神の平安」(救いと祝福)を祈ることです。  サムエル記上25章に、ダビデがカルメルの地方に行ったとき、そこで「カレブ人ナバル」という手 のつけられぬ乱暴者の一族に遭遇したことが記されています。そのときダビデは「あなたに平和、あな たの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように」と祈りました。この「挨拶」こそすなわ ち「祝福」です。実際にヘブライ語で「挨拶」を意味するベラーカーという言葉は「祝福」と訳される のです。「救い」とも訳されるのです。モーセの片腕であった「アロンの祝福」が民数記6章24節以下 に記されていますが、それは「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔をあなたに向 けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を 賜るように」という祈りです。  また、新約では使徒行伝7章に、初代エルサレム教会の執事・ステパノの殉教の様子が記されていま すが、そこでもステパノは、自分を死に至らしめた迫害者たちのために「祝福」と「罪の赦し」を祈り つつ死んでゆきました。そこにこそ、主イエスが言われる「兄弟だけにするのではない」挨拶がありま す。この「挨拶」は、自分が気に入った人に対する社会儀礼などではなく、相手の罪を主の御前に執り 成すことです。無視して相手を呪うこととは正反対の、祝福に生きる者(キリストの贖いの恵みに生か された者)の姿がそこにはあります。それこそが、聖書の語る「挨拶」(ベラーカー)の本当の意味なの です。  まさに「異邦人の挨拶」のみで生きようとする私たちを「平安の挨拶」に生きる神の民として下さる ために、主はゲツセマネで血の汗を流して祈られ、十字架への道を歩んで下さいました。私たちは誰か に酷いことをされたとき、相手に対して「許せない」という思いを抱くでしょう。しかし聖書はそのよ うな私たちにこう告げているのです。「あなたが許せない、その気持ちをも私の手に委ねなさい。そして その相手のために祝福を(神の救いを)祈る者になりなさい」。私たちはたとえ相手を許すことができな くても、その相手のために祈ることはできるのです。たとえ和解が成り立たなくとも、主は神を信ずる 者に最も良い道、幸いな道、生命の道を与えて下さいます。平安に生きえず、平安を語りえない私たち のために、主がまず罪の贖いとして、呪いの十字架にかかって下さったことを覚えましょう。そしてヨ ハネ福音書14章27節を改めて心に留めたいのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの 平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。 私たちはいま「主の平安」に生きる新しい群れとされているのです。  今朝のローマ書16章16節にも(実はローマ書全体がそうですが)パウロによる祝福の挨拶が記され ています。ここでも大切なことは「主語」は十字架のキリストなのです。キリストが祝福を与えて下さ る。まず私たちに祝福を与え、復活の生命をもって覆って下さった。そのキリストの祝福を、私たちも 他の人々に告げる器とならせて戴いているのです。主イエスは弟子たちを伝道に遣わされるにあたり「安 かれ、父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」と言われました。そ して「あなたがたは行って、人々に『天国は近づいた』と宣べ伝えなさい」そして「その家に入ったら、 まず平安を祈りなさい」と言われました。「神の国は近づいた」という喜びの音信と「平安の挨拶」はひ とつです。神の国はいまこの礼拝において、御言葉と聖霊において現臨されるキリストのもと、私たち のもとに実現しています。  私たちは教会に結ばれてキリストの生命にあずかり、神の国の喜びを歴史の中で先取りしつつ、キリ ストの平安のもとに生かされているのです。だからこそ使徒パウロはここに、共に教会に仕え、福音の 喜びを共有する全ての人々と共に、キリストの平安を、その喜びの挨拶(祝福)を、喜びと確信をもっ て告白しているのです。あなたの上にも、あなたの上にも、この人にも、あの人にも、主はご自身の平 安を与えて下さる。私たちはみな既にキリストにある「平安の挨拶」に生きる僕とされているではない か。そのような群れとして、今ここに立ち、世に遣わされているではないか。その喜びと幸いが、あな たの全存在、全生活を祝福しているではないか。いま私たち一人びとりがその祝福に与る者とされてい るのです。祈りましょう。