説    教   イザヤ書55章6〜9節  マルコ福音書8章27〜30節

「 神認識の根拠 」

 旧約聖書による講解説教 2015・06・07(説教15231593)  あるとき主イエスはピリポ・カイザリヤという村の近くで「人々は、わたしをだれだと言っているか」 と弟子たちにお訊ねになりました。そして対話の中でさらに「それでは、あなたがたはわたしをだれと 言うか」とお訊ねになったのです。これに対して、シモン・ペテロが弟子全員を代表してお答えしまし た。「あなたこそキリストです」。ここに私たちはマルコによる福音書の中心を見ます。否、ここにこそ 福音そのものの本質があると申しても過言ではないのです。  ピリポ・カイザリヤは都エルサレムから数百キロ離れた、いわば“辺境の地”でした。この辺境の地 で、しかも旅の途上で、主イエスは弟子たちに信仰告白を求められたのです。私たちは「信仰告白」と 申しますと、それはエルサレム神殿のような“目抜きの場所”つまり“神の臨在が確認できる場所”で されるものだと考えています。弟子たちもそういう考えでした。しかし主イエスが事もあろうに“異邦 人の地”と呼ばれるガリラヤのさらに北にある辺境の地、ピリポ・カイザリヤで信仰告白を求められた ことに、弟子たちは非常に驚いたのです。しかも旅の途上において、主イエスは「あなたがたはわたし をだれと言うか」と私たち一人びとりにお訊ねになるのです。  私たちが信仰を告白する場所は、教会の礼拝堂、または礼拝や集会の中で求められていることはもち ろんですが、実は主イエスは私たちの日常生活のただ中で、神やキリストや聖霊がことさらに問題とさ れないような日常生活のただ中で(日常生活という名の魂の辺境地帯で)「あなたがたはわたしをだれと 言うか」とお訊ねになっておられるのです。しかも私たちの人生という名の「旅」の途中でこそ(信仰 とは無関係に思われる場所でこそ)私たちは真実に「あなたこそキリストです」と告白する者であり続 けることが求められているのです。  さて、今朝の御言葉を見ますと、主イエスは私たちに「人々は、わたしをだれだと言っているか」と 訊ねたもうたすぐ後で「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と改めて訊ねておられます。 これはとても大切なことです。私たちは他人のことを無責任に批判し、また「みんながそう言っている」 など、世間の風評に無自覚無批判に追従しやすいのではないでしょうか。「あなたは巷で評判が悪い」な どと平気で言う罪をおかすのです。あるいは、あの人は信仰が有るとか無いとか、世間の人たちは(時 に家族でさえ)自分の信仰を少しも理解してくれないとか、そういうことは言いやすいのです。つまり 「人々が主イエスをどう思っているか」については、私たちは無責任かつ容易に語ることができる。し かし大切なことは「私たちが主イエスをどう告白しているか」ということです。人々が(世間が)キリ ストをどう評価するかではなく、私たち一人びとりが、いまキリストを信ずる者としていかに立ち、歩 み、遣わされているかが大切なのです。そのことだけが大切な唯一のことなのです。  そこで、私たちは改めて今朝の御言葉から、主イエスのご質問の意味をしかと心に留めねばなりませ ん。言い換えるなら、最初のお訊ねと2度目のお訊ねとの違いを明確に理解することが大切です。最初 のお訊ねに対して、弟子たちから様々な答えが出ました。今朝の28節にあるように、弟子たちは主イ エスに「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと 言っている者もあります」とお答えしたのです。これは相対的な事柄です。つまり「人々が主イエスを どう噂しているか」ということです。同じものを見ても解釈は人により千差万別ですから、もし百人の 人間がいれば百通りのキリスト解釈があるでしょう。しかし主イエスはそれでよしとなさいません。大 切なのは人々の噂ではなく、私たちが主イエスをいかなるかたとして告白しているかです。ここで求め られているのは様々な解釈ではなく、唯一の信仰告白なのです。いま私たち一人びとりが、御言葉と聖 霊によって現臨したもう主イエス・キリストに対して「あなたこそキリストです」と告白する群として 立つこと、それをいま主イエスは私たちに求めておられるのです。  それは同時に、私たちがいかにして神を知るか(いかにして神を認識するか)という大切な問題に繋 がって参ります。私たちは漠然と、神を知るための根拠は私たちの理性にあると考えています。たしか に理性も大切でしょう。しかし人間の理性を(知識や経験を)極限まで研ぎ澄ましてもそれで神を知り うるわけではないのです。そうではなく、神を知るための唯一の根拠は実は神ご自身にあるのです。神 の御言葉、神の御子イエス・キリストのみが、唯一の真の神を私たちに示したもうかたなのです。だか らキリスト抜きにはいかなる方法においても、私たちは神を知りえないのです。逆に言うなら、もし私 たちがキリストを正しく知る(告白する)なら、私たちはそのとき正しい神認識に導かれているのです。  洗礼を受ける前に、私たちの教会では洗礼志願者に対して「試問会」をします。そこでも洗礼志願者 に対して求められることは知識や経験ではありません。よく「自分はまだ聖書を十分に読んでいません」 とか「まだキリスト教について深い理解をもっていません」とか、自分の理性を基準にして受洗をため らう人がいます。私はそのようなとき、いつも「洗礼はキリストの招きに応えることであって、自分が キリストを招くことではありません」と申すことにしています。私たちは自分がキリストを招くホスト になりやすいのです。キリストに失礼な自分であってはならないと思うのです。気が付けばまだまだ掃 除が足りない。ここもあそこも、足りないことばかりだと感じて躊躇うのです。しかし、どうか忘れな いで下さい。洗礼もそうですし、日々の信仰の生活も同じです。それはキリストの招きにそのままに応 えることです。言い換えるなら「キリストの胸に飛びこむこと」です。それがキリスト者の歩みです。 ふさわしからぬ自分、欠けの多い自分、破れだらけの自分のままで良い。そのままにキリストの御手に 自分を明け渡すこと、それが私たちの信仰の歩みです。  それは同時に、自分がどう思うか(どう感じるか)が信仰の内容なのではない。私たちの信仰の内容 は使徒以来の(今朝の御言葉のペテロの信仰告白以来の)教会の信仰告白に連なることが大切なのです。 「私の信仰」ではなく「教会の信仰」が大切なのです。 このことを、いま少し詳しく顧みるなら、私 たちは長く信仰生活を続けているうちに、いつの間にか信仰の事柄や考えかたに悪い意味で手垢がつい て、なにかにつけて信仰の判断がこの世の判断に摺り変わり、神認識の根拠を自分という人間の内側に 持ってしまうことがないでしょうか。しかしそうした信仰は決して生きたものにはならず(つまり主の 御身体の共同体の信仰とはならず)個人的・主観的・体験的なものになります。そうすると、私たちの 語る信仰の言葉もまた、説得力のない観念の遊戯になってしまいます。キリストの祝福と導きを喜ぶ生 活から離れるとき、私たちの信仰はいつでも偽善になってしまうのです。  そのようにならないために、私たちはいつも、今朝のキリスト告白に正しく立ち続ける僕たちであら ねばなりません。「あなたこそキリストです」との生ける主の教会の信仰に、いつも連なり続けている私 たちでありたいのです。主は「わたしはまことのぶどうの樹、あなたがたはその枝である」と言われま した。どんなに立派に見える枝も、キリストという幹から離れたら枯れてしまうだけです。しかしどん なに弱々しい枝でも、キリストという幹に繋がっているなら「豊かに実を結び、その実はいつまでも失 われない」のです。どうか私たちは、世々の聖徒らが告白してきたキリスト告白に正しく立ち続け、い つもキリストの胸に飛びこむ生活を続けて参りたいものです。主の御手に自分を明け渡す信仰に生きて 参りたいと思います。私たちの真の生命(永遠の生命)は私たちにあるのではなく、ただ贖い主なるイ エス・キリストにのみあるのです。  私たちの教会では、全世界の主の聖なる公同の使徒的なる教会と等しくニカイア信条を告白します。 またわが国におけるニカイア信条の最も厳密な解釈であり、私たちが直接に連なる旧日本基督教会の信 仰告白として、私たちが実存をかけて採択し告白した「1890年日本基督教会信仰の告白」を告白します。 この2つの信仰告白の上に建つのが連合長老会です。それもみな全ては今朝の御言葉に根拠を持つので す。「あなたこそキリストです」この信仰を明白に掲げんがためです。  さて、今朝の御言葉は不思議な終わりかたをしています。それは30節に「するとイエスは、自分の ことをだれにも言ってはいけないと、彼らを(弟子たちを)戒められた」とあることです。「イエスはキ リストなり」という信仰告白(イエスは十字架の贖いによりて全世界の罪を贖いたもう唯一の救い主で あること)は、一人でも多くの人に語り伝えられるべき福音なのではないでしょうか。それなのに「自 分のことをだれにも言ってはいけない」と言われるのはどうしてなのでしょうか?。これはもちろん、 キリストの福音を宣べ伝えてはならない、などという意味ではありません。そうではなく、ここで「戒 められた」とある元々の言葉は、悪霊を戒めるとか、嵐の海を鎮めるとか、そういう意味の「戒める」 「鎮める」というギリシヤ語です。ですからここで主イエスが「戒められた」ことの意味は「間違って 用いられないように気をつけなさい」という意味なのです。当時のユダヤ人たちも、パリサイ人ですら、 ある意味ではキリストを信じていました。しかしそれは、自分たちに都合の良い政治的な解放者、ダビ デ時代の繁栄を再現してくれる国家君主としてのキリストでした。そういうキリスト理解に、あなたの 信仰告白が用いられることのないように気をつけなさいと、主イエスはペテロを「戒められた」のです。  私たちにも、そのことは大切ではないでしょうか。私たちの信仰も生けるキリストの教会から離れて 独り歩きするとき、それは人をキリストに導く証人の生活とはならないからです。事実マタイ伝によれ ば、この直後に主がご自分の十字架について予告をされたとき、ペテロは主イエスの袖を引いて戒め「さ ようなことがあってはなりませぬ」と申したことが記されています。主イエスはそのとき「サタンよ、 引き下がれ、あなたは神のことを思わず、ただ人のことを思っている」とペテロをお叱りになりました。 私たちにも、神を畏れずに、実は人の顔色だけを見ていることがないでしょうか。もし私たちが正しい 信仰告白(真のキリスト告白)に生きるなら、その信仰は私たちを本当に自由にし、喜びと感謝と謙遜 に満ちた主の証人とするのです。使徒パウロの語る「生きているのは、もはやわたしではない。キリス トがわたしの内に生きておられるのである」という、主に贖われたる者の幸いと自由の生活が、そこに 始まってゆくのです。ここに連なる私たち一人びとりが、いまそのような生活へと、主の僕たる「キリ スト告白者」の生活へと、招かれ、生かされていることを思い、感謝をもってキリスト告白者の歩みを 続けて参りたいと思います。