説     教     詩篇107篇8〜9節   ピリピ書2章6〜11節

「最も美しき事」

 旧約聖書による講解説教 2015・05・31(説教15221592)  キリスト者として信仰の生涯を送った八木重吉という詩人がいます。この人の作品に「うつくしいも の」という題の詩があります。「わたしみずからのなかからでもいい/わたしの外の せかいでもいい/ どこかに『ほんとうに 美しいもの』は ないのか/それが敵であっても かまわない/及びがたくて も よい/ただ 在るということが 分かりさえすれば/ああ ひさしくも これを追うに つかれた るこころ」。八木重吉の優れたところは、あえて「うつくしいもの」が「敵であっても、かまわない」と 語っているところにあります。この場合の「敵」とは「自分とは異質なもの」という意味です。いわば バルトの言う「絶対他者」でありまして「主なる神」という意味に繋がります。私たちにとって本当に 「うつくしいもの」それは主なる神にこそ存在するのだと、八木重吉は語っているのです。  私たち人間は、美しい自然にふれたり、美しい絵を観たり、美しい音楽を聴いたりすると、それだけ で大きな喜びや充実感を覚えます。いわゆる「美的感覚」が刺激されるわけです。この美的感覚にとり わけ敏感であったのは古代ギリシヤの人々でした。古代ギリシヤの哲学では「真・善・美」の3つが人 間生活に不可欠な三要素と考えられていました。その場合その「美」の根拠となるものは調和(プロポ ーション)です。ですからギリシヤ彫刻などでは、人間の身体を極限まで理想化したプロポーションに おいて表現しています。ミロのヴィーナスなどがその代表です。そこに古代ギリシヤの人々は「美」を 見いだしたのです。実はこれは現代の私たちにも無意識に受け継がれている「美」の根拠です。私たち も調和あるもの、理想化されたものに「美」を見いだすことが多いからです。しかしそれは、聖書が(福 音が)私たちに語る「最も美しき事」とは違うのです。八木重吉の言う「敵なるもの」がそこにはない のです。  私は以前、川崎にある総合病院に通院していたことがあります。大きな病院ですから、待合室で様々 な人たちの姿を垣間見ることがあります。あるとき私の隣の席に、たぶん私と同じぐらいの年齢かと思 われましたが、重い知恵遅れの男性が年老いた母親と一緒に通院して来ていました。たまたまその母親 が私の妻と世間話を始めた。やがてその男性が「のどが渇いたよ」と訴えはじめ、私の妻が急いで飲み 物を買ってきてあげた、そうしたひと幕がありました。私はその会話を側で聞いていたのですが、その 老婦人はご主人が亡くなられて、初七日が済んで初めての通院であった。今はその重い知恵遅れの息子 さんと2人だけの生活なのです。どんなにか不安な毎日であり心細いことでしょう。しかし私にはこの 母子の姿がとても「美しいもの」に思われました。それは「調和」を最高の美とするギリシヤ的な感覚 では捉ええないものです。母子ともども抗いえぬ苦悩に耐え、生涯その重荷を負い続けてゆく、ある意 味では「醜い」姿かもしれない。しかしそこには人間としての尊厳ある本当の「美しさ」が輝いている と思いました。  さて、今朝の御言葉・詩篇113篇は、いったいこのどこに「美しさ」が描かれているのかと、普通の 感覚では不思議に思う御言葉です。しかし実はここにこそ、人間と世界にとって「最も美しきこと」が 福音として告げられているのです。まず1節から3節までのところで、詩人は「主のしもべたちよ」と 呼びかけています。この「主のしもべたち」とは私たち一人びとりのことです。この「しもべ」と訳さ れたヘブライ語は「真の礼拝者」という意味です。言い換えるなら、すでにキリストの限りない恵みに よって「神の真実」に捕えられ、罪を赦され、無条件で神の国の民とされた者たちのことです。私たち の真実ではなく、ただ「神の真実」が私たちの救いの唯一絶対の根拠であるとの宣言です。そこでこそ 八木重吉の語る「敵なるもの」の意味が明らかになります。私たちは神の御業を自分の中に閉じこめる ことはできない。そうではなく、まさに私たちに敵対したもうほどに「絶対他者」として外から来る救 いに、自分を明け渡すことが求められているのです。その救いの恵みに生かされた者が「しもべ」と呼 ばれているのです。だからこの「しもべ」とは「礼拝者」なのです。次に「主をほめたたえよ」とは原 語では「ハレルヤ」という言葉です。直訳すれば「いざわれら主をほめたとうべし」という礼拝への誘 いの言葉です。この世界の現実の中で、矛盾と悲惨と苦しみに満ちたこの世界のただ中で、それゆえに こそ共に主の御名を讃美しようではないか。共に心からなる礼拝を献げようではないかと、全ての人々 に呼びかけているのです。  それはなぜでしょうか。その答えは2節にあります。「今より、とこしえに至るまで主の御名はほむ べきかな」とあることです。この「とこしえ」とは「永遠」ですが、時間と切り離された(ギリシヤ的 な)永遠ではなく、聖書が語る「永遠」とは「神の御業」のことです。それは私たちのただ中に到来し た永遠(すなわちイエス・キリスト)であり、時間を時間たらしめる永遠であり、歴史の中に生きて働 き、歴史を救いへと導く神の御業です。ですから聖書が語る「永遠」は揺れ動く矛盾の世界を達観する ようなもの(観照や諦観)ではなく「主の御名」また「神の御業」こそが「永遠」なのです。まさにそ のことが今朝の2節と3節に告げられています。そこでこの「主の御名」というのは、私たちのために ご自分の全てを献げて下さった主イエス・キリストの御名にほかなりません。言い換えるなら、私たち のためになされた主イエス・キリストの御業です。主が私たちを極みまでも愛し、私たちの救いのため 十字架におかかり下さったことです。それが「主の御名」という言葉であらわされています。それを「ほ めたたえる」とは、その「主の御名」を信ずる者としてこの歴史の中に(人生の日々に)立つことです。 自分の人生の全体を神の愛と救いの御業の中で新しく受け取ることです。神の祝福において、既に「か けがえのない汝」とされていることを知ることです。  そのとき、驚くべきことが起ります。少なくとも「調和」ある「美しさ」など少しも持ちえなかった 私たち、それどころか神の御前に罪人でしかありえなかった私たちが、その人生のただ中において、キ リストの愛に輝き始めるという奇跡が起こるのです。それは喩えて言うなら、月は自身では輝かず太陽 の光を受けて輝くのに似ています。私たちも自分では決して輝きえない。むしろこの矛盾と悲惨に満ち た人生において、不平不満をかこち他者をも自分をも審き、罪をおかし続ける私たちである。しかしそ の私たちの全ての罪を背負って、神の独子イエス・キリストが十字架におかかり下さった。そこに私た ちの全ての罪は贖われた。それを信じてここに集う私たち全ての者が、この歴史のただ中に、神の愛に よって健やかに立ち上がり、神の美しさにおいて(永遠の祝福において)生きる「主の僕」とされてい るのです。「美しさ」を持ちえなかった私たちが、キリストの愛の麗しさに輝き始めるのです。  フォン・ラートというドイツの優れた旧約学者が「旧約聖書神学」という大著の中で繰り返し語って いることがあります。少し長いので言葉を短くして引用します。「私たちのこの世界にとって“最高の美” は、ヤハウェがイスラエルの歴史的実存、すなわちイスラエルの民のただ中に降下したことにある…イ スラエルの歴史にとって最も記憶すべきことは、神ご自身がみずからを放棄したもうまでに、私たちの 歴史の中に降下したもうた事実である。この神(ヤハウェ)の降下という史実にこそ、あらゆる美の極 みがある」。まさにこの「神ご自身がみずからを放棄したもうまでに、この歴史の中に降下したもうた事 実」をこそ、新約聖書ピリピ書2章6節以下は教会の最古の讃美歌として歌い上げました。「キリスト は、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむ なしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死 に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。  聖書が語る本当の「美しさ」は、ギリシヤ彫刻の調和ある美や、仏教の説くスタティックな美とは全 く違うものです。あるいは、どうしようもない苦しみや矛盾を私たちは抱えているけれども、それを努 力して乗り越えたところに「美」があるというのでもないのです。そうではなく、天よりも高き聖なる 造り主が、神ご自身が、このどうにもならない苦しみと矛盾に満ちた、どこにも調和などのない私たち の人生の現実(歴史的実存)のただ中に「みずからを投げ捨てて低く降って下さった事実」にこそ、聖 書が全世界に語っている本当の「美しさ」があるのです。それは十字架の主イエス・キリストの愛と恵 みです。十字架の贖いの御業によってこそ、私たちの存在もまた、そのあるがままに輝き始めるのです。 本当の「美しさ」を持つものとされているのです。ですから「イエス・キリストの義」という場合の漢 字の「義」とは、ほんらい「犠牲の羊を我の上に掲げる」という象形文字です。自分の上に、私たちは 私たちの贖い主なるキリスト(神の小羊)を掲げるのです。押し戴くのです。それが「キリストの義」 に生きることです。「イエス・キリストにおける信仰による神の義」に生かされることなのです。  渡辺格という分子生物学者が「人間の終焉」という本の中でこう語っています。遺伝子操作(バイオ テクノロジー)を扱う人間には叡知が求められる。というのは、この技術は人間を二通りの選択肢の前 に立たせるものだからだ。一つは、強いもの(調和のある者)が弱いもの(調和のない者)を遺伝子操 作によって排除してゆく道である。もう一つはその逆です。人間が弱さを負った者(いわば調和のない 存在)と共に共生してゆく道である。現代の私たちの社会は価値観の一元主義か、それとも多様性の中 の一致か、その二者択一を迫られているというのです。それは本当ではないでしょうか。そのような時 代におります私たちが大切なことは、私たちがキリストの福音によって生かされた真の「主のしもべた ち」になることです。そして「いざわれら主をほめたとうべし」と、心からなる讃美を献げることです。 礼拝者であり続けることです。なぜなら、ここにこそ、ここにのみ、矛盾だらけの、綻びだらけの、破 ればかりの私たちの全存在を、そのあるがままに、かけがえのない「汝」として愛し、かき抱くように 祝福を与えていて下さる主がおられるからです。そのかたが十字架の上に、私たちのために死んで下さ ったからです。それゆえに、ただキリストの福音のみが、これからの時代に責任ある「生命の言葉」を 持ちうるのです。キリストの御名のみが、これからの歴史を切り開く真の自由の道しるべであり、救い の言葉なのです。私たち一人びとりがいま、そのキリストの御名によって贖われている。そして主は教 会によって、全ての人々を同じ恵みへと招いておられるのです。