説    教   詩篇55篇10〜15節   マルコ福音書10章32〜45節

「キリストに従いて」

2015・05・17(説教15201590)  私たちキリスト者の生活は「キリストに従う生活」です。それは当然のことだと誰もが思うでしょう。 しかし私たちにとって「当然のこと」ほど難しいことはないのではないでしょうか。私たちの主イエス・ キリストは、どのようなお考えで、またどのような御心をもって、私たちをご自身に従う者とならせて 下さるのか、改めてそのことを今朝の御言葉から深く学び取りたいと思います。ひと口に「キリストに 従う」と申しましても、その従いかたが私たちの自分勝手であっては、それは本当に「キリストに従う」 生活にはならないのです。信仰の名においてさえ自己中心の罪をおかす私たちなのです。  そこで今朝、与えられた御言葉・マルコ伝10章32節を改めて見て参りましょう。ここに「一同はエ ルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たち は恐れた」とあります。主の弟子たちはなぜこんなにも「驚き」「恐れた」のでしょうか?。それは、い つもは弟子たちの群れのいちばん後ろを歩いておられた主イエス、弟子たちを背後から見守りながら歩 いておられた主イエスが、ここでいきなり弟子たちの「先頭」にお立ちになって歩み始められたからで す。決然として先頭に立ってエルサレムに向かわれる主イエス。そのいつもとは違うお姿に、弟子たち は非常に驚いたのです。  主イエスは同じマルコ伝の10章32節以下で、弟子たちにこう語っておられます。「見よ、わたした ちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは 死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、 ついに殺してしまう(であろう)」。ここにはっきりと十字架が予告されています。これを聴いた弟子た ちの誰もが言い知れぬ不安を感じていた、その大きな危険が待ち受けるエルサレムに、いまや主イエス は「先頭」に立って進んで行こうとされている。このことに弟子たちは「驚き怪しみ…(そして)恐れ た」のです。それと同時に弟子たちの心の内に去来した思いは「先生、私たちの願いは、そういうこと ではないのです」という、主イエスの行く手を遮ろうとする思いではなかったでしょうか。  弟子たちの本音はこうでした。「私たちは先生がユダヤの新しい王になるかただと信じたからこそ従 ってきたのです。それなのに先生は十字架にかかって死ぬためにエルサレムに行かれるのですか?」だ から弟子たちは「主よ、その道は違うでしょう」と主イエスの袖を引いて引き止めたかったのです。か たやユダヤの王としての栄光の即位、かたや重罪人としての十字架の死、その2つの道はあまりにも対 照的でした。弟子たちはみな主イエスが王に即位することを望んだのです。犯罪人として死刑になれば、 自分たちもまた犯罪人の弟子(死刑囚の門人)に過ぎなくなる、そのことが弟子たちには耐えられなか ったのです。このことは、主イエスの御心と私たちの思い(願い)が如何に違うかを現しているのでは ないでしょうか。私たちは結局のところ、自分の栄誉栄達(あるいは健康や幸福や自己実現)を目的と し、キリストを自分の利益に利用しようとしているだけのことはないでしょうか。キリストが“十字架 の主”の道を「先頭」に立って歩まれるということは、立身出世や健康や幸福を願う弟子たちにとって、 もはや利用価値がなくなるということです。それでは困る、約束が違うでしょうと、弟子たちは言いた かったのです。  しかし、どうでしょうか。旧約聖書イザヤ書53章は、はっきりと主イエスの歩みが、全世界の人々 の罪の贖い主(メシヤ=キリスト)としての歩みであることを証しています。「だれがわれわれの聞いた ことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る 根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもな い。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者 のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれ の悲しみをになった」。主イエスは、これがご自分の使命であることを自覚せられ、全世界の人々の罪の 贖いのために、十字架の道をまっしぐらに歩みたもうのです。逃げようと思えば逃げることができまし た。避けようと思えば避けることができたのです。しかし主イエスは毅然として御顔をエルサレムに向 けたまい、弟子たちの「先頭」を歩んでゆかれるのです。それこそが主イエスの御心であったからです。  これは言い換えるならば、こういうことです。主は十字架への歩みの全てにおいて、弟子たちを(私 たちを)救いたもう御心なのです。ジョン・リースというアメリカ改革派教会のすぐれた神学者が「福 音とは神の御心である」と語っています。これはとても素晴らしい言葉です。主イエスの御心は弟子た ちを(私たちを)救うために十字架をただお一人で引き受けたもうことです。そのために主は「先頭」 に立たれるのです。マルコ伝はその1章1節において既に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」 と語りました。これは直訳すれば「福音は(救いの出来事は)イエス・キリストにおいて、私たちのた だ中に始まっている(先頭に立っている)」ということです。私たちの歴史の中に神の救いと祝福の御心 が主イエスを「先頭」にして始められている(完成を約束されている)のです。そこで私たちが求めら れていることは、その十字架の主を信じ、主の建てたまいし教会に連なって、御言葉に養われつつ生き る、新しい信仰の歩みを始めることです。既に信仰生活何十年の人も、心新たに礼拝者たる志において 新たにされることです。主は決然として十字架への道を、私たちのために「先頭」に立って歩みたもう のですから。それが主の御心(福音そのもの)なのです。  私はつい先日、酒枝義旗という無教会主義の集会の指導者(信徒伝道者)の全集を入手しました。あ る目的があって古書店から購入したのですが、届いて拾い読みをしているうちに引きこまれて一気に三 分の一ほど読んでしまいました。その中に酒枝先生がこういうことを書いていました。東京のある教会 から講演の依頼があってお引き受けしたのだそうです。講演のタイトルは既に決まっていて「マルクス 主義とキリスト教」というお話をすることになっていた(酒枝先生は早稲田大学政経学部の教授でもあ った人です)。最初に司会者によって聖書が読まれたそうです。まだ若い青年だったそうですが、その聖 書の読みかたに酒枝先生は驚いてしまった。普段からほとんど聖書を読んだことがない人が棒読みに読 むような聖書朗読であったそうです。それで酒枝先生は「今日の講演はマルクス主義とキリスト教、と いうことですが、聖書の読みかたという講演に変えてお話をします」と言って、キリスト者の生活はま ず聖書に親しむことから始まるものである、聖書を読まずしてキリストに従う生活はありえない。聖書 を正しく読んでいない砂上の楼閣に幾ら「マルクス主義とキリスト教」の話をしても無意味である。ま ずキリストに従う生活を確立すべし。そうして後にはじめてマルクス主義を学ぶことに意味がある。そ ういう趣旨のことを話したそうです。  これは厳しいと感じられるでしょうか?。私はこれを読んで心を打たれました。無教会の信徒伝道者 ですけれど、立派な牧会者(牧師)の心構えがここにあると思いました。むしろ教会に生きる私たちこ そ、こういうことを蔑にしているのではないでしょうか。「聖書を読まずしてキリストに従う生活はあり えない」のです。聖書を学ぶ姿勢において無教会の人たちに学ぶべきものがあると思いました。「キリス トに従う」ことは具体的な生活です。その第一は「聖書に親しむこと」です。聖書に親しむ生活は礼拝 者の生活です。礼拝者の生活は教会に連なって生きるキリスト者の生活です。教会に連なって生きるキ リスト者の生活は御言葉によって打ち砕かれ、新たにされてキリストに従う新しい生活です。その喜び と幸いと自由を、私たちは大切にしなくてはなりません。  今朝の35節以下ですが「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」の兄弟が、夜になってから密かに、他の弟 子たちに内緒で主イエスのもとに来て、主イエスに願いますには、主イエスが王に即位した暁には、ぜ ひどうか自分たちを右大臣・左大臣に任命して欲しいと願い出たのです。他の弟子たちはこの2人が抜 け駆けをしたと言って憤りました。他の弟子たちも同じ願いを持っていたわけです。これをお聴きにな って主は彼らに「あなたがたは自分たちが何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わた しが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問われましたら、彼らはい とも簡単に「できます」と答えたのでした。その「杯」と「バプテスマ」が十字架をさしていることに 全く気が付いていなかったのです。これに対して主がお答えになられたのが42節以下です「そこで、 イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている 人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの 間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人と なり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子が きたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を 与えるためである』」。  ここで主が私たちに語っておられることは、道徳的な“謙遜の勧め”などではありません。そうでは なく、この御言葉の中心は45節にあります。主イエスが世に遣わされた理由は、仕えられるためでは なく、仕えるためであり、そして「多くの人」(全ての人)の贖いとして、自分の生命を献げるためです。 この事実を(福音の核心を)凝視しなさい(心に留めなさい)と主は言われるのです。たとえこの世の 価値観において、権力者たち、上に立つ者たちが、どんなに人々に権力を振るおうとも、私たちはその ような価値観と同列に立つキリストの弟子であってはならないのです。主イエスがこれを語られたこの 時点で、この「あなたがた」とは十二人です。全世界の中のたったの十二人がキリストに従う歩みを確 立したとき、そこに大きな神の御業が現され、全世界に祝福がもたらされたのです。私たちも人の目に は小さな群れかもしれません。しかしこの小さな群れ(葉山教会)が本当にキリストに従う群として立 つとき、どんなに多くの人々に神の祝福と平和がもたらされることでしょうか。  ここで私たちは最初の単純な、しかし最も大切な問いに戻ります。私たちは、どのようにすれば十字 架の主にお従いすることができるのでしょうか?。私たちが道徳的に完全無欠な人間になることでしょ うか?。世の人々が驚くような大事業を起こすことでしょうか?。それとも地位と名声と富と健康を獲 得することでしょうか?。もっと遥かに大切な唯一のことを主はお教え下さいました。主はこう言われ たのです。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためで はなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。キリストに従うとは、自分の正しさ、自分の義に拠り 頼んで歩むことではありません。その正反対です。キリストに従うとは、私たちが心から十字架の主を 仰ぎ、みずからと全世界の「救い主」として信じ告白することです。それは実に具体的なことです。心 で信じ、口で告白して、私たちは教会に連なる者となるのです。教会は十字架と復活のキリストの御身 体です。私たちは主の御身体なる教会に連なることにおいて、キリストの十字架の死にあずかる者とせ られ、キリストの復活の生命にあずかる者とされるのです。まことの礼拝者としての歩みが、そこに始 まってゆくのです。  昨日は古野正明さんの納骨式を行いました。去る11月6日に病床にて洗礼式を行った時のことを改 めて思い出しました。そのとき古野さんの姿勢は「キリストに従う」主の僕の姿そのものでした。古野 さんは全てを主の御手に委ね、キリストに結ばれた者として主のもとに召されたのです。このことを、 使徒パウロはローマ書6章3節以下でこう語っています「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受 けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死 にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、 死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。私たち もまた、いま、キリストに連なる者とされているのです。そして礼拝者として、贖い主なるキリストを 讃美し、どこまでも従い行く僕とならせて戴いているのです。このことを感謝し、御言葉を学びつつ、 信仰の歩みをもって主に従う私たちでありたいと思います。