説   教   出エジプト記20章8〜11節  マタイ福音書28章1〜10節

「 安息日の主 」

2015・05・03(説教15181588)  私たちの教会の週報を見ますと、礼拝順序のいちばん上に「主日礼拝」と書いてあります。 この「主日」とは「主の日」すなわち「イエス・キリストの日」という意味です。実際に聖書 の中には「主の日」また「キリストの日」という表現がたくさん出て参ります。それともうひ とつ、聖書には「安息日」という言葉も出て参ります。十誡の第四の誡において「安息日を覚 えてこれを聖とせよ」と主は私たちにお命じになりました。私たちは一週間の最初の日(日曜 日)を「主の日」「安息日」として聖別し、教会に集まって共に礼拝を献げます。教会とはすな わち「主の日」である「安息日」を聖別し、礼拝に生きる群れのことです。  そこで、教会の生命は、真実の礼拝が常に献げられているか否かにあると言えるでしょう。 こういうことを考えてみたらよいかもしれない。日曜日の朝に皆さんが一所懸命に「葉山教会 の激坂」を登って教会に来ますね。すると入口に貼紙がしてあってこう書いてあったらどうで しょうか。「今日は天気が悪いので礼拝は休みです」。そういうことは想像さえできない、あり えないことです。私たちの先輩たちは「たとえ槍が降ろうとも」と申しました。たとえ空から 槍が降ったとしても礼拝は休まない。そういう心をもって礼拝を重んじ、教会を大切にしたの です。教会はペンテコステ以来連綿として一日の休みもなく、安息日にはそれこそ何が降ろう とも、混乱の中にも戦争のさ中にも礼拝を献げ続けて参りました。その歩みは二千年、否、旧 約時代から数えるなら四千年間、一度も途絶えたことはないのです。  いわゆる週休制度、七日をひと巡りとし、そのうちの一日を休日とする習慣は、古代バビロ ニアの太陰暦に由来するといわれています。太陰暦の一か月は28日である。それを四等分す れば七日になることから一週間を七日とする暦が始まったと言われています。その場合七の倍 数の日がそれぞれ休日として定められました。しかしその暦はイスラエルに受け継がれてゆく 中で、形としてではなく、主が私たちにお与えになった特別な日「主の日」(礼拝の日)として 定められたのです。「安息日を聖とする」の「聖とする」というヘブライ語を、マルティン・ブ ーバーという哲学者は「主の勝利を祝う」と訳しています。これは素晴らしい訳です。イスラ エルの民は安息日の誡めに、あらゆる人間存在を真に生かしめる本当の自由と祝福への招きを 聴き取ったのです。  それは罪と死に対する主の勝利を祝うことです。神の愛が究極において勝利することを祝う 日です。この世界万物を創造された主なる神は、限りなく全ての者を愛したまい、私たちをご 自身の「勝利の民」として招いておられる。私たちの人生は、生き、飲み食いし、働き、死ぬ ことで終わるのではない。たとえどんなに人生が不条理に覆われ、空しく悲惨に思われるとき にも、私たちは既に罪の赦しの恵みにおいて、十字架において死に勝利された主(キリスト) に堅く結ばれて生きる者とされているのです。「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はし ため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである」とさえ、主は明確に告げて下 さいます。この生命の祝福は「生命の門」(キリスト)を通って来る全ての人々に何の条件もな く恵みとして与えられているのです。ですから「主は六日のうちに、天と地と海と、その中の すべてのものを造って、七日目に休まれた。それで主は安息日を祝福して聖とされた」とあり ます。だからこの「安息」とは単に“仕事を休む”という意味ではありません。私たちがそれ ぞれの人生のただ中において、今ここにおいて神の祝福と自由と勝利にあずかる者とされてい ることです。それが「安息日」という言葉の本当の意味なのです。  さて、イスラエルで「安息日」のことを“シャバース”と申します。ヘブライ語で「第七日 目」という意味です。ただ、旧約の時代にはこの「第七日目」の「安息日」は土曜日のことで した。かつて私がエルサレムの宿に泊まったとき、部屋に「シャバース」と書いた赤いスイッ チがあるのに気がつきました。これはなんだろう?と思って宿の人に訊ねますと、このスイッ チを安息日が始まる前に押しておけば、外が暗くなれば自動的に部屋の明かりが点る仕組みだ ということでした。スイッチを押すことさえも「わざ」(労働)に当たると解釈する、それほど 厳格に「安息日には何のわざをもなすべからず」を守ろうとするユダヤ人の姿には感動すら覚 えたものです。ただ、これが形式化しますと、おかしなことになるのです。ある安息日のこと です。主イエスは弟子たちと共に麦畑の中を歩んでおられました。空腹を覚えた弟子たちは麦 の穂を摘み、掌で揉んで食べ始めた。するとそれを見ていたパリサイ人らが「安息日の食物規 定に反する」と言って騒ぎ始めたのでした。麦の穂を摘むことは収穫の「労働」にあたるとい う解釈でした。それに対して主イエスが答えて言われますには「安息日は人のためにあるもの で、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのであ る」。主が言われたことは、安息日は掟のためにあるのではなく、喜びの祝日、全ての人のため の「礼拝の日」であるということです。私たちが天の祝福と自由と勝利にあずかる日なのです。  だから私たちに大切なことは「安息日の主」がどなたであるかをいつも明確にわきまえてい ることです。まさに主イエス・キリストのみが「安息日の主」であられるのです。この大切な 一点を忘れますと、私たちの安息日はとたんに「単なる掟」と化してしまうのです。招きたも う主の恵みが見えなくなるとき「今日は天気が悪いから礼拝は休みです」が現実のものになり かねなくなるのです。私たちが「主の日」ごとに礼拝を献げるのは、規則(掟)がのゆえでは ありません。何よりも十字架の主みずからご自分の生命をかけて、何の値もなき私たちをある がままに祝福と自由と勝利のもとに招いていて下さるからです。主が招きたもうその招きに私 たちは応えて礼拝者となるのです。だから主イエスは会堂の中で、安息日に片手の不自由な人 を癒したまいました。それを「安息日の規定に違反する」と非難したパリサイ人らに対して「安 息日に善を行なうのと、悪を行なうのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と厳しく 問いたもうたのです。そして癒しのわざを断行されたのです。ベテスダの池の片隅で38年間 も病気に苦しみ続けた人を癒されたのも安息日でした。そのときも主は「わたしの父は今に至 るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われ、パリサイ人らの形式主義を退けら れました。私たちが罪の支配から解放され、聖霊なる神のご臨在のもと、新しい生命に生かさ れることが安息日の祝福であることを明らかになさったのです。  ですから主イエスは、安息日を無視あるいは軽視なさったのではなく、その本来の正しい守 りかたをはっきりとお示しになったのです。福音書を見ますと、主は安息日には必ず会堂で礼 拝を献げておられたことがわかります。主イエスご自身が最も敬虔な礼拝者であられたのです。 この礼拝の精神を主から受け継いだ弟子たち、そして初代教会の人々は日曜日を「主の日」(安 息日)として礼拝を献げるようになりました。それは最も単純な、最も喜びに満ちた理由によ ります。日曜日は主イエス・キリストの復活の日だからです。少なくとも西暦50年頃には教 会は(初代教会は)従来の土曜日に代えて日曜日を(主の復活の記念日を)「安息日」として礼 拝を献げるようになったのです。ですから私たちの教会の「三大節」つまりクリスマス・イー スター・ペンテコステのうち、最も早く祝われるようになったのはイースターです。と申しま すより、そもそも全ての「主の日」(全ての日曜日)はイースター礼拝なのです。復活の主は聖 霊により、活ける御言葉によってここに親しく現臨しておられます。このような「主の日」の 喜びを知り、そこに生きるとき、私たちの生活は根底から変わってゆくのです。キリストに結 ばれた者の生活は、死を超えた生命に支えられた生活です。  「主の日」は第一に、私たちにとって「聖なる喜びの日」です。古代イスラエルの民はバビ ロン捕囚という民族最大の悲劇の中にあっても礼拝を休みませんでした。預言者ネヘミヤはネ ヘミヤ記8章10節において「この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主 を喜ぶことはあなたがたの力です」と語りました。私たちの人生にはさまざまな憂いや悩みや 悲しみがあります。しかし私たちが「主の日」の礼拝に真実に生き続けるとき、たとえ私たち の人生を荒波が襲うときにも、私たちは揺るぎなきキリストという岩の上に立つ者とされてい るのです。  第二に「主の日」は、私たちが「神の栄光を現わす者とされていることを感謝する日」です。 「主の日」は新しい一週間の始めです。私たちはこの大切な日に、まず神の限りない救いの恵 みにあずかり、主の御名を讃美し、主の栄光を現わす者とされていることを共に喜びをもって 言い表すのです。「神の栄光を現わす」と言っても、なにか人の耳目を引くこと、世間をあっと 言わせることをする必要はないのです。大切なただ一つのことは、私たち一人びとりが、いか なる時にも主が贖い取られた教会にしっかりと連なり、礼拝者として歩み続けることです。  病気入院や治療のため、あるいは高齢のために、礼拝に出席できない人もあるでしょう。し かし、たとえ体がここに共に集えなくても、霊においては常に教会のかけがえのない枝とされ、 礼拝者とされているのです。人の眼には無力と思えるところにこそ、神の栄光は輝くのです。 私たちは、私たちが普段は忘れがちな、病院や老人ホーム、また病気の中で、教会のため、牧 会者のため、また信徒一人びとりを覚えて、献げられている多くの祈りを忘れることはできま せん。そうした祈りが、どんなに私たちの教会を祝福し、伝道のわざを支えていることでしょ うか。病院のベッドの上で「先生、私には祈ることしかできません。しかし、まさに祈る喜び を、主は与えて下さいました。感謝です」と言った婦人がいました。そうした隠れた祈りのひ とつひとつが御国の宝です。そして、祈りを執成して下さる主の御手にあって、その姉妹もた しかに「主の日」の祝福にあずかっているのです。礼拝者の生きた枝とされているのです。  第三に「主の日」は私たちにとって「キリスト告白の日」です。私たちが教会に連なって生 きるのは、私たち自身の資格や能力によるのではない。ただキリストの限りない恵みにより、 私たちは「イエスは主なり」と告白する者として礼拝の民とならせて頂いているのです。何の 値もなきままに、主の復活の生命に連なる者とされているのです。私たちは、全人類を測り知 れない罪の深みから贖い取って下さった唯一の贖い主、イエス・キリストの御名のみを宣べ伝 えます。世の諸々の力のもとにあって、キリストの救いの御力以外の何物も宣べ伝えないのが 教会です。十字架の主なるキリストにのみ、人間のあらゆる問題の根本的な唯一の完全な解決 があることを知る群れとして、私たちはおりを得ても得なくとも、ただキリストの御名のみを 告白し、世に宣べ伝えてゆく群れであり続けたいと思います。  終わりに詩篇27篇4節を拝読します。「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを 求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめ ることを」。これは人生の戦いとは無縁なところ、安全地帯にうずくまった者のロマンティック な詠嘆などではありません。まさに、人生と社会のありとあらゆる戦いと試練の中で、私はた だこのひとつの事に生き続ける、このひとつの事を主に願い続けると言うのです。わが生きる かぎり、主の家に住まい、そこで「主のうるわしきを見」主の御業の素晴らしさ、尊さ、限り なさ、豊かさを尋ねきわめること…。そして、その主の御手の内に堅く結ばれた者として生き 続けること…。そこに、私たちの永遠に変わることなき喜びがあり、慰めがあり、平安と幸い と勇気があることを覚えるものであります。