説    教   ネヘミヤ記4章17〜18節   使徒行伝20章28〜32節

「 主とその恵みの言とに 」

2015・04・19(説教15161586)  使徒信条の中に「われは…教会を信ず」という件があります。聖霊なる神についての告白の 中に出てくる文言です。実はこれが使徒信条の中でいちばんわかりにくい言葉なのです。たと えば私たちは誰かに「あなたは教会を信じますか?」と問われたとき、どのような感想を抱く でしょうか。父なる神、御子なるキリスト、聖霊なる神を信ずる、ということはわかる。しか し改めて「教会を信じますか?」と問われたとき、私たちの本音は戸惑いなのではないでしょ うか。私たちは教会について考えるとき、使徒信条が告げているようには考えないのです。  むしろ私たちが教会についてまず思うことは、そこに何人の人たちが集まっているか。どん な歴史があるか。礼拝堂はどんな建物か。付属幼稚園があるか。どこに建っているか。駅から は近いか。駐車場があるか。そうした外見的なことばかりではないでしょうか。あるいは少し 物分りの良い人であっても、牧師はどういう人でどんな神学に立っているか。教派的伝統はど ういうものか。その程度のことではないかと思うのです。つまり私たちは教会を見るとき、そ の教会が主なる神の御前にどうあるかということではなく、その教会が社会の中でどのように あり、人々からどのように見られているか、そういう外面的社会性ばかりを気にしているとこ ろがあるのです。もちろんそれを無視して良いわけではありませんが、いちばん大切なことは やはり「われは…教会を信ず」ということではないかと思うのです。  そこで改めて確認したいことは、「われは…教会を信ず」というときの「信ずる」(クレドー) という言葉は、ただ神に対する信仰のみを言いあらわす言葉なのです。ですから信条(信仰告 白)のことも「クレドー」というラテン語であらわすようになりました。言い換えるなら、こ の「クレドー」(われ信ず)という言葉は、人間や人間のわざに対しては決して用いられないの です。ただ神と神の御業に対してのみ用いられるのです。日本語の「信ずる」という言葉には そういう厳密な区別がなく、人間に対しても「あなたを信じているよ」などと言うものですか ら、神と人間とが「信ずる」という言葉において一緒くたになってしまう面があるのですけれ ども、使徒信条、聖書の元々の言葉では、厳密な区別があるのです。  私たちは「われは…教会を信ず」という告白によって、私たちの教会において現わされた主 イエス・キリストの救いの御業を信ずるのです。私たちの教会はただ、私たちに対するキリス トの御業、その十字架による罪の贖いと復活の上に成り立つものであって、少しも人の力や計 画によるものではないということ、このことを正しくわきまえているなら、私たちは神を信ず るのと全く同じ意味で「われは…教会を信ず」と告白するほかはないのです。そこでは私たち は、集まる人の数や、目に見える建物ではなくて、教会を通して働きたもう神の御業を信ずる のです。主なる神の御前に教会がどうあるかということです。  そこで、もう少し詳しくこのことを理解する必要があります。使徒信条を改めて見ますと「わ れは…聖なる公同の教会を…信ず」と告白されています。私たちが改めて心を注ぎたいことは、 この「聖なる」ということの意味です。なぜ私たちの教会は「聖なる教会」と呼ばれるのか。 「聖徒の交わり」と称えられるのか。もし私たち自身を顧みるなら、そこには「聖なる」とい う言葉に相応しいものは何もありません。あるものはただ、神の前に罪人なる自己の現実のみ です。教会が「聖なる教会」と呼ばれるのは、それはただ私たちに与えられた、キリストの救 いの恵みの確かさのゆえにほかなりません。言い換えるなら、教会は“主イエス・キリストに よって贖われた群れ”であるということ、ただそれだけが、教会が「聖なる教会」「聖徒の交わ り」と呼ばれる根拠なのです。  このことを、今朝の使徒行伝20章の御言葉によって深く心に留めたいと思います。特に与 えられた20章28節以下の言葉です。ここには使徒パウロによる、エペソの教会に対する「決 別の説教」が記されています。場所はエーゲ海に面するミレトという港町です。パウロはこれ からエルサレムに向かうにあたり、およそ60キロ離れたエペソの教会の長老たちをミレトに 呼び寄せ、そこで彼らに最後の説教をしました。エペソの教会はまだ規模も小さく、集まった 長老たちも少人数であったと思われます。ともかく彼らは60キロの距離を歩いてミレトにや って来ました。船出は明日に迫っており、パウロがエペソまで往復する余裕はなかったからで す。  パウロにしてみれば、できればエペソ教会の信徒全員に説教を語りたかったに違いない。エ ペソが位置する小アジヤをはじめ、遠くギリシヤやマケドニヤにまで、ひたすら伝道と教会形 成に全てを献げ、キリストのみを宣べ伝えたパウロでした。そのパウロはいま「御霊に迫られ て」エルサレムに向かわんとしています。愛するエペソ教会の長老たちを呼び寄せたのは、地 上における最後の別れとなるに違いないこの機会に、エペソの教会を神の御言葉の祝福と導き に委ねたいと願ったからです。その熱意を受け止めて、長老たちもまた夜通し歩いてミレトに 着いたのです。溢れ出てくる喜びと別れの悲しみ、新たな伝道への不安と勝利の確信、そこで 共にした熱き祈り、ここに現わされたパウロの言葉に一貫して流れる燃え立つごとき教会形成 への情熱を、私たちも共にする幸いを与えられています。この幸いに立たないのなら、私たち はどこで「われは…教会を信ず」と告白できるでしょうか。その意味で、まさにここには、私 たちの教会にとって“生命”とも申すべき御言葉が語られているのです。  「教会とは何か」という問いに対する答えは、決して易しいものではありません。しかしそ れは同時に、まことに単純明快なことだとも言えるのです。主イエスは「神の国は、見よ、そ こにある、あそこにある、などと言えるようなものではない。神の国は、実にあなたがたのた だ中にあるのだ」と言われました。この「あなたがのただ中にあるもの」とは、私たちのため に十字架にかかられたキリストの限りない恵みです。キリストそのものだと言ってもよい。贖 いの主キリストご自身が私たちのただ中におられる。この事実こそ、私たちの教会をして「聖 なる教会」と呼れる唯一の根拠なのです。私たちはキリストの贖いの恵みに生きる群れなのか、 それともそれ以外のものによって生きる群れなのか、そのことがいつも問われているのです。 十字架の御旗のもとに堅く立ち続けているか否かが問われているのです。それが教会を「聖な る教会」「聖徒の交わり」と称えしむる唯一の徴なのです。ですからルターによる1530年のア ウグスブルク信仰告白には、教会について有名な定義がこう記されています。「教会とは、聖な る会衆であって、福音が純粋に説教され、聖礼典が正しく執行されるところである」。  そのようにして、私たちは32節の御言葉を、ともに心に刻む者とされています。「今わたし は、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別 されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」。エペソを去るパウロにも、そこに留ま る全ての人々にも、なお担うべき恵みの課題がありました。神の御言葉を、キリストの愛と救 いの御業のみを宣べ伝え、聖礼典を正しく執行し、キリストの満ち溢れる祝福の豊かさに全て の人々と共にあずかる、ただひとつの“主に贖われた群れ”を形成することです。この世界の 果てにまで福音を宣べ伝え、キリストの救いの御業のみを証しする真の教会を建てることです。  この戦い(恵みの課題)は、血肉に対するものではありません。つまり、この世の知恵や力 で成し遂げられるものではありません。教会形成の戦いはただ「主とその恵みの言」によって のみ正しく担われ、勝利へと導かれてゆくものです。すでに私たちのために、いっさいの罪と 死に勝利しておられる主イエス・キリストのもとに、心をひとつにして連なり、全ての人々に キリストによるまことの救いを証しする群れが、そこに建てられてゆくのです。全世界の果て にまで、そして、この葉山のピスガ台にも…。  現代ドイツの優れた作家にアルプレヒト・ゲースという人がいます。私の好きな作家ですが、 この人は実は牧師でありまして、素晴らしい説教集を著している人です。そのある説教の中で ゲース牧師は、今朝の使徒行伝20章32節の御言葉に触れつつ、ご自分の父上についてひとつ の思い出を語っています。ゲース牧師の父上も牧師であられた。ある日突然の発作に倒れて、 救急車で病院に運ばれてゆくとき、それがこの父上の最後の言葉になったそうですが、長年連 れ添った自分の妻に、つまりゲース牧師の母上にこう言った。「いま、私は神とその恵みの言葉 とに、あなたがたをゆだねる」。ドイツ語ではこの「神に委ねる」を“ゴット・ベフォーレン” と言うのですが、これは今でもドイツの多くのプロテスタント教会において、礼拝が終わって 会衆が帰るとき、牧師が教会の出口で一人びとりと握手しながら投げかける言葉です。“ゴッ ト・ベフォーレン”「あなたを神に委ねます」。いま私たちもその思いを、祝福を、共有してい るのではないでしょうか。この礼拝が終わって家路につくとき、互いに「あなたを神に委ねま す」と言い切ることのできる群れになっておらねばならない。まさに「主とその恵みの言」の 力において、世の旅路に遣わされてゆく私たちでありたいのです。私たち一人びとりがこの礼 拝を通して「主とその恵みの言」に委ねられて生きる者であることを、心から感謝と讃美をも って受け止め、勝利の主の御手の内にあることを確信する群れとして、信仰の旅路を共に歩ん で参りたいのです。  ゲース牧師はまた、別の説教の中でこういうことを語っています。「すでに天の聖徒らの群れ に加えられた人々、贖われ、救いを全うされ、キリストの義を身に纏うた主の証人たちの群れ に加えられた人々、信仰の歴史を作った全ての人々、その人々と共に、御国において共に主の 御顔を拝するとき、永遠の礼拝者の祝福に生きるとき、私たちはそこで互いに何を語り合うの だろうか?。パウロは、ダマスコ途上で出逢った主の恵みを語るであろう。サマリヤの女性は、 スカルの井戸端で主にお目にかかった時の喜びを語るであろう。ペテロは、三度も主を裏切っ た自分に現われた主の限りない赦しと救いの恵みを語るだろう。ザアカイは、いちじく桑の木 の下から主に呼びかけられた幸いを語るであろう。では私たちは何を語るのか?。私たちは彼 らと共に、いまここで礼拝者として連なり、キリストの復活の生命にあずかっている教会の話 をするのだ」。  いま与えられている教会生活、礼拝生活とは、それほどまでに大切なものなのです。天国の 聖徒らの内にあって、私たちもまたパウロと共に「主とその恵みの言とに」委ねられた者の喜 びを語る者とされています。その恵みにおいてこそ、私たちは本当に心から「われは…教会を 信ず」と告白する者とされています。どうか私たちは今、共に心を高く上げて、この目に見え る葉山教会、私たちのこの群れを、御子イエスの血をもって贖い取って下さった神の恵みに、 健やかに立ち続ける者となりたいと思います。「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたが たをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつ がせる力がある」。