説     教     申命記6章4節   マタイ福音書28章16〜20節

「三位一体なる神」

2015・04・12(説教15151585)  私たちが信じ告白する神は「三位一体なる神」です。父なる神、御子なる神、聖霊なる神、そ れは神が3ついますのではなく、唯一なる神にいましたもうのです。旧約聖書の申命記6章4節 に「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつく し、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」とあります。この「イスラエル」 とは私たちの教会のことであり、私たちが信ずる神は「唯一の主」であられるのです。しかもそ の神は、御父、御子、聖霊なる三位一体の神にいましたもうのです。この「三位一体」について、 このようにも言えるでしょう。唯一の主なる神は「父なる神」として私たちをお造りになり、「御 子なる神」として私たちを罪から贖い、「聖霊なる神」として私たちを救い、信仰を与え、教会 へとお招き下さり、世界を救いの完成へと導いて下さる、そのような神であられるのです。これ を「三位一体なる神」と私たちは告白するのです。言い換えるなら、主なる神は「父なる神」(創 造主)として私たちを無から有へと呼び出したまい、「御子なる神」(主イエス・キリスト)とし て私たちを神と和解させて下さり、「聖霊なる神」(生命の与え主)として私たちに救いの御業を 現わして下さる、そのような「唯一の主なる神」なのです。  私ごとですが、私には「三位一体」について、ひとつの小さな思い出があります。私が高校2 年生の夏、まだ教会に行きはじめて間もなく、洗礼も受けていなかった頃、通学の途中で「もの みの塔」(エホバの証人)の人につかまったのです。その人は私に「あなたが信じている神はど んな神ですか?」と訊きました。私は「主イエス・キリストを私たちに与えて下さった三位一体 なる神です」と答えました。すると「ものみの塔」の人は「聖書の中のどこに“三位一体”とい う言葉が出てくるのか?」と問い返してきたのです。私はそこで「ああ、この人は正しいキリス ト教を信じている人ではないのだな」ということがわかりました。今でも不思議に思うのですが、 まだ高校生で、洗礼さえ受けていなかったのに、私はその人の間違いを「正してあげなければ」 という思いに駆られたのです。それで「聖書の中にはたしかに“三位一体”という言葉は出てき ません。しかし聖書を正しく読むなら、神が父、御子、聖霊なる、“三位一体なる神”であられ るということは明白なのではありませんか?。あなたは本当に、きちんと聖書を読んでいるので すか?」と、逆に質問しました。自分でもよくあれだけのことが言えたと思います。逆に言うな ら、それだけ私は最初に導かれた教会において、正しい教理的な説教を聴く幸いを与えられてい たということです。仮にいま、誰かから同じことを問われても、私は牧師としてほぼ同じように 答えるであろうと思います。三位一体の信仰は、私たちの信仰と生活の根幹に関わる最も大切な 事柄だからです。  かつてジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Newmann)という、説教者としても名 高い立派な神学者がいました。彼のもとにある人がやって来て「自分は三位一体がどうしてもわ からない」と言ったとき、ヘンリー・ニューマンは即座に「三位一体は“わかる”“わからない” ではなく、信じるものだ」と答えたということです。ゲーテの戯曲「ファウスト」の中で、ドク トル・ファウストが「一が三で三が一など、どう考えてもわからぬ」と三位一体を揶揄していま すが、三位一体は理論や理屈で理解できる問題ではなく、ニューマンが言うように「まず信ずる べき事柄」です。大切なことは、神が御子イエス・キリストにおいて現わして下さった救いの御 業を、この私の救いの出来事としてそのまま受け入れることです。  今朝の御言葉であるマタイによる福音書28章16節から20節は、復活の主イエス・キリスト が、弟子たちを世界伝道へとお遣わしになる場面です。16節にある「イエスが彼らに行くよう に命じられた山」とは、かつて主イエスがペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人をお連れになり、天の 栄光の姿を垣間見せられた山のことでありましょう。その同じ山の上で、弟子たちは復活の主に 出会い、17節によれば「イエスに会って拝した」と記されています。この「拝した」とは「主 イエスを神と崇め、まことの礼拝を主イエスにささげた」という意味です。そこでこそ、私たち は次の御言葉に注目せざるをえません。「しかし、疑う者もいた」とあることです。これはどう いう意味なのでしょうか?。  普通に考えますならば、あのトマスがそうであったように、弟子たちは主イエスの復活の事実 を疑っていたのだ、と理解できそうですが、そうではありません。弟子たちにとってキリストの 復活は疑う余地のない歴然たる事実でした。むしろこの17節を読み解く鍵は、その直前の「イ エスに会って拝した」という言葉にあります。つまり弟子たちの中に、主イエス・キリストに対 して、全能の父なる神を礼拝するのと全く同じ「まことの礼拝」を献げてよいのかどうか、畏れ、 戸惑い、「疑う者もいた」ということなのです。まさに申命記6章4節にある「われわれの神、 主は唯一の主である」という信仰(聖なる神に対してのみ献げられる礼拝)を、いま目の前にお られる主イエスに対して献げてよいものかと、弟子たちは「疑い」畏れ、戸惑い、顔を見合わせ て躊躇ったのです。そうしますと、これはまさに三位一体なる神に対する信仰告白の問題だとい うことがわかるのです。  まさにその「疑う」弟子たち(私たち)のただ中にこそ、主イエスご自身が「近づいてきて」 下さり、はっきりと語り告げて下さいます。18節の最初の御言葉です。「イエスは彼らに近づい てきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた』」。 私たちのために人となられ、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになり、あらゆる苦しみを背負われ、 もっとも悲惨な呪いの徴である十字架上の死を遂げられたナザレのイエスこそ「まことの神のま ことの独り子」であられ「父なる神と本質を同じくするかた」であられるのです。この十字架の 主イエス・キリストこそ「天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた」かたな のです。私たちはこのキリストにおいて、否、キリストにおいてのみ、真の神に確かに出会い、 まことの唯一の神を「拝する」者とされるのです。  ですから、ヨハネによる福音書14章6節に、主イエスははっきりと語っておられます。「わた しは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くこと はできない」。なによりも「わたしたちに父(なる神)を示して下さい」と願う弟子ピリポに対 して、主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」と語って下さいました。まことの神 は「知られざるかた」ではない。御子イエス・キリストにおいて、ご自身を明確に現わして下さ ったかたなのです。だから主は同じヨハネ伝14章10節にこのようにさえ言われました。「わた しが父におり、父がわたしにおられることをあなたがたは信じないのか。わたしがあなたがたに 話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをな さっておられるのである」。  どうか私たちは心に留めましょう。「父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっておられ る」と主がはっきり告げて下さったことです。この「みわざ」とは何でしょうか?。それはただ ひとつの出来事を意味します。神から離れた測り知れぬ罪の中にあり、しかも自分の罪さえ知り えずにいた私たち(それほど深く徹底的に罪の支配を受けていた私たち)のために、御子イエス・ キリストが(神ご自身が)全てを献げて、贖いとなり、救いそのものとなって下さったことです。 だから1563年の「ハイデルベルク信仰問答」には、父と御子と聖霊がひとつであることを示す「三 位一体」の告白が「人間の救いについて」の項目の最初「まことの信仰」の冒頭に語られていま す。まず確かな救いの根拠として使徒信条が告白され、それは3つの部分に分けられると言い、 それこそ「父なる神への告白」「御子なる神への告白」「聖霊なる神への告白」であると語られて いるのです。  「人間の救い」は「まことの信仰」と分離しえないものです。ではその「まことの信仰」の内 容はなにかと言えば、それこそ私たちが「私は唯一の神を信ずる」と言うとき、その神は、父、 御子、聖霊なる三位一体の神として、私たちにご自身を顕して下さったという事実なのです。だ からこそ、主イエスは弟子たちにお告げになって言われました。今朝の御言葉マタイ伝28章19 節以下です。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊と の名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るよう に教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。  この「それゆえに」とは、主イエスが「天においても地においても、いっさいの権威を授けら れた」かただからです。私たちを罪と死から救いたもう、唯一の永遠の救い主であられるからで す。救いの「権威」を持っておられる神そのものだからです。そのキリストの救いの権威は、聖 霊により、御言葉を通して、教会という主の御身体を通して明らかにされ、私たちの生きた救い の現実となります。私たちに与えられている「救い」は「私たちが教会に結ばれ、キリストの復 活の生命にあずかる」というたしかな実体を持つのです。それならば、私たちはそこでこそ目を 瞠るような思いで、この恵みの御言葉を改めて聴くのではないか。「父と子と聖霊の名によって、 彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と主 が言われたことです。  私たちは、永遠の昔から、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神が持っておら れた、三位一体の永遠の完全な愛の交わりの中に、いま生きて働きたもう聖霊によって招き入れ られ、生きる者とされているのです。それが私たちの教会なのです。だからこそ教会は「聖徒の 交わり」と呼ばれます。これはもとのギリシヤ語を直訳するなら「聖なるかたに与かる交わり」 を意味します。この「聖なるかた」こそ、父、御子、聖霊なる、三位一体にして唯一の神にほかな りません。この三位一体の神との永遠の交わりを喜びと感謝をもって、歴史の中に顕すわざこそ、 私たちがいま献げているこの礼拝なのです。だから洗礼を受けるということは、この父、御子、 聖霊なる神との永遠の交わりを、私たちの喜びの生命として戴くことです。御子イエス・キリス トにおいてまことの神に出会い、聖霊によって信仰へと導かれ、教会の生きた枝とならせて戴く ことです。私たちは、そして世々の聖徒たちはみな(当然のことですが)自分が勝手に思い描く 「神」を信じるのではない。まさにキリストを信ずることにおいて、創造主なる父なる神を、そ して聖霊なる神を、三位一体にして唯一の神を信ずる者とされ、その神が全世界に確立して下さ った救いの御業を、いまこの私に与えられている確かな「救い」として、信じ、告白する者とさ れているのです。  それこそ、私たちの喜びの生命の中心なのです。だからこそ主は弟子たちに(私たちの教会に) 「(全世界の人々のもとに出て行き)あなたがたに命じたいっさいのことを守るように教えよ」 とお命じになりました。この「あなたがたに命じたいっさいのこと」こそ、三位一体なる神への 信仰告白にほかなりません。聖書全体が証しているまことの神の救いの御業であります。これを 「守る」とは、御言葉と聖霊によって私たちが真の礼拝者となることです。だから私たちは「礼拝 を守る」という言いかたをします。外部の抵抗勢力などに対して防衛(ディフェンス)をすると いう意味ではありません。礼拝を「守る」とは、三位一体なる神の永遠の交わり(まさに救いの御 業)のただ中に、私たちの存在と生活の揺るがぬ基盤を持つことです。ある神学者は、その礼拝 における“喜びの生命”を「復活祭の確信」と呼びました。普通、私たちは人生の「確信」(必 然)と言えば、それは人間の死を意味します。全ての人間は死すべき存在であるという「確信」 にまさってたしかな事実はないからです。ところが、私たちは三位一体なる神によって全く新し い「確信」を与えられている。それは「死は生命に呑まれてしまった」という「確信」です。キリ ストの恵みが死すべき私をさえ甦らせて下さった。この私たちをあるがままに御国の民として下 さった。言い換えるなら、神は御子イエスの十字架によって永遠に私たちの罪と死を打ち滅ぼし て下さった。死のほかに「確信」のない私たちのただ中に、揺るぎない「復活の生命」を確立し て下さった。その揺るぎない喜びの生命のもとに、教会を通して私たちを招き入れて下さった。 それが「復活祭の確信」であります。  この主の御身体なる教会、三位一体なる神との永遠の交わりである教会に結ばれて生きる私た ちは、いまここに「キリストは私のために死に勝利して下さった」という新しい揺るがぬ「確信」 (恵みの必然)に生きる者とされているのです。だからこそ私たちは「すべての国民」に「父と 子と聖霊との名による」唯一の救いを宣べ伝える群れです。三位一体なる神のみを証しする群れ として、この世界のあらゆる人々に、あらゆる状況の中に「復活祭の確信」を宣べ伝え続けます。 そして主は私たちにはっきり約束していて下さるのです。「見よ、わたしは世の終わりまで、い つもあなたがたと共にいるのである」。