説    教    詩篇16篇8〜11節   第一コリント書15章20〜22節

「キリストの復活」

2015・04・05(説教15141584)  本日は「復活日主日」イースター礼拝の日曜日です。私たちはこの大切な礼拝の日にあたり、 心新たに主イエス・キリストの復活の福音を聴いて参りたいと思います。まず改めて確認した いことは、イースターは全ての主日礼拝の基本である。そればかりか、教会の存立の基本にか かわる出来事である、ということを改めて心に留めたいと思うのです。なによりも、私たちが 日曜日に礼拝を献げますのは、それは日曜日が主イエス・キリストの復活の日であるからです。 その意味で全ての主日礼拝がイースター礼拝の延長なのです。イースター礼拝こそ、私たちの 教会のあらゆる聖務諸集会の始まりであり基本であり中心軸なのです。その意味で、キリスト の復活の福音を聴くのはイースター礼拝にとどまらない、全ての礼拝において私たちが繰返し 立ち帰り、その慰めにあずかり、そこから出発することを許されている、そのような変わらぬ 恵みなのです。  なによりもそれは、単純なひとつの事実にまなざしを注ぐことです。それは復活されたキリ ストは、今ここにおいて現臨しておいでになる(私たちと共にいて下さる)「主」であるとい う事実です。私たちは十字架の主イエス・キリストを“過去の人物”として仰ぐのではない。 いまここに私たちと共にいまし、全ての人々のために救いの御業をなさっておいでになる、生 きた復活の主に私たちが出会うことです。神は「死にたる者の神」(私たちと無関係なかた) ではなく「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であられるのです。私たちはその「アブラハム、 イサク、ヤコブ」の名の次に、私たち自らの名を当てはめる幸いを与えられている。まさにそ のような「復活の主」としてキリストは、いま私たちと共にここにおられる、私たちの生きた 永遠の贖い主であられるのです。  スコットランドにジェームス・スチュアートという神学者がいます。エディンバラの神学部 で新約聖書神学の教授であり、またなによりもスコットランド国教会(改革長老教会)の牧師 として牧会伝道をなしている人です。このスチュアート牧師に「永遠の王者」(King Forever) という説教集があります。まことに力強く端正な説教をする人でして、宣べ伝えるべき中心点 が明確であり、そこから決して外れることがない説教者です。そこで、なによりもスチュアー ト牧師が、大きな喜びをもって語るのは、キリストの復活の福音(おとずれ)です。特にヘブ ル書13章20節21節の説教に心打たれました。「大牧者の祝福」という題がついています。こ れは『永遠の契約の血による大牧者、わたしたちの主イエス・キリストを、死人の中から引き 上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにし て下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにとこい願 う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン』という御言葉です。そこでスチュアー ト牧師はこういうことを語っている。英語(欽定訳)の聖書ではこの「すべての良きもの」と いうところを「すべての良きわざにおいて、あなたがたを完全な者にして下さるように」と訳 すのです。そのことを求めて祝福を祈るのです。そこでこそ、私たちは自らに問わざるをえな い。「自分が、そのような祝福にふさわしい人間であるかどうか」ということです。  「良きわざ」について「完全な人間」などどこにいるだろうか?。まして自分はと問うなら、 私たちはうなだれるだけです。しかしそこでこそ、私たちは御言葉の力に立ち留まろうではな いか。ここには「わたしたちの主イエス・キリストを、死人の中から引き上げられた平和の神 が」と告げられているからだ。その神が私たちを「完全な者」にして下さる。それこそが大切 な「唯一のことである」とスチュワート牧師は語っています。そして思いがけないことを申し ます。「それは全体の見通しを変えるものだ」。私たちの全生涯、そしてこの世界と歴史の全体、 その「全体の見通しを変え」てしまうほど「決定的な唯一のこと」がキリストの復活において 私たちに起こっている。それをパウロは宣べ伝えているのだ。それは今朝の第一コリント書15 章1節以下の御言葉でも同様です。そこでこそパウロは語ります。3節です「わたしが最も大 事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」。  そして「すなわち」とあって、以下にキリストの御業だけが列挙されています。「キリスト が、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖 書にかいてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、十二人に 現れたことである」。そしてさらに大切なのは7節以下です。パウロはこう語らざるをえなか った。「そののち(復活のキリストは)、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そし て最後に、いわば、月足らずで生れたようなわたしにも、現れたのである」。この「月足らず で生れたようなわたし」というのは、ほんらいは救われえなかった「罪人のかしら」であった 私にさえ、復活の主は出会って下さり、私を救いに入れて下さったのだということです。  だから9節以下にはこうあります「実際にわたしは、神の教会を迫害したのであるから、使 徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神 の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵み はむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わ たし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」。ここに使徒パウロの喜びと確信と 感謝がありました。少しも自分の力、自分のわざなどではない。そのようなものは無に等しい。 ただ「わたしと共にあった神の恵み」によって「使徒」と呼ばれるに値せぬこの私を、主は他 の使徒たちの誰よりも多く用いて下さった。だから感謝あるのみである。主の御名を讃美する ほかはないとパウロは言うのです。  私たちは「見通しが暗い」とか「明るい」という言いかたをします。たとえ口に出さぬとも、 自分の人生行路を塞がれたような絶望感を味わうことがよくあるのではないでしょうか。せっ かく努力して進んできた道が、得体の知れぬ力によって妨げられ、塞がれてしまう、そういう 経験をするのです。予期せぬ苦しみや挫折に出遭ったとき、私たちは一瞬にして「見通しが暗 くなった」と感じて意気消沈してしまいます。自分の無力さに絶望してしまいます。一所懸命 に励んできたことであればあるほど、その道が塞がれたとき、私たちが感じる閉塞感は大きい のです。ある意味で日本の教会もいま、そのような「閉塞感」にあると言って良いかもしれま せん。宣教150年を迎えても、なおキリスト者の人口は国民全体の1パーセント未満にしかな らない。数だけを見るなら、これほど伝道の成果が上がらぬ国は日本を除けばサウジアラビア ぐらいだそうです。しかも単に教勢不振だけの問題ではない。その少ないキリスト者の数さえ も、どうやら下降傾向にあるという統計があります。礼拝出席者や日曜学校の子供たちはどこ の教会でも減っています。さまざまな犯罪や事件を起したカルト的集団が、この国の社会に宗 教そのものに対する警戒心を植えつけてしまった、そうした影響も看過できません。そのよう な中でいつのまにか私たちも、目の前が塞がれたような思いに陥っていることはないでしょう か。主がなしておられる御業に、自分を思い切って委ねきれずにいる、そのような私たちにな ってはいないでしょうか。  復活の主は、ケパ(ペテロ)に現われ、十二弟子に現われ、すべての使徒たちに現われ、ヤ コブにも現われ、そして「月足らずに生れたような」パウロにさえ、現われて下さったのです。 この「現われた」と訳された元々の言葉は「救いの御力そのものとして、この私に出会って下 さった」という意味のギリシヤ語です。私たちのために、私たちを全ての罪から贖うために十 字架にかかられ、まことに死なれ、墓に葬られて下さった主が、まさに復活したもうて「救い の御力そのものとして、この私に出会って下さった」のです。この主を信ずる者と、私たちは ならせて戴いているのです。罪と死の力にさえ永遠に勝利して下さり、測り知れない愛をもっ て私たちを祝福し、ご自身の生命をさえ与えて下さったかたが、いまここに聖霊と御言葉によ って現臨しておられる。その復活の主がお建てになった、復活の主の御身体そのものである教 会に、私たちはいま恵みによって連なる者とされているのです。  それはどういうことか、どれほど大きな恵みであることでしょうか。私たちは主の復活の御 身体である教会に連なることにより、いまここに私たちの全生涯が、復活のキリストの生命の 祝福のもとにあることをはっきりと知らされているのです。私たちばかりではない、この世界 においても、たとえどのような出来事が歴史と現実に暗い影を落とそうとも、神の愛が、キリ ストの救いの御業が、聖霊による生命と祝福が、最後に永遠に勝利する、そのような世界であ ることを、私たちは確信する者とされているのです。それこそ「大牧者の祝福」のもとに生き る私たちとされているのです。  今日の第一コリント書15章には大切な続きがあります。12節から19節までのところに使 徒パウロは、もしキリストのよみがえりが(復活が)なかったなら、私たちの信仰は「空虚な もの」になると言い切っています。もし仮にキリストが復活されなかったなら、私たちは「い まなお罪の(支配の)中にいる(留まる)」者でしかないのだと言うのです。これは言い換え るなら、キリストは確かに復活したもうたゆえに、私たちの信仰はもはや決して「空虚なもの」 ではありえないという宣言です。いま主の教会に結ばれて私たちは、もはや罪の支配の中に自 分を見いだすのではない。そうではなく、満ち溢れるキリストの救いの出来事の中に、復活の 主の祝福と恵みのもとに、みずからを、そして他者をも、歴史の全体をも、新たに見いだす(新 たに見通す)者とされている。それこそスチュアートが語るように、私たちは復活の主によっ て「全体の見通しを変える」ほどの豊かな祝福を賜わっているのです。  そこで、このキリストの復活の事実について、最後にひとつ、ぜひご一緒に心にとめたい御 言葉があります。それはキリストの復活を語るとき、かならず私たちが読むべきローマ書4章 24節25節です。そこには、いま私たちが現臨の主によって戴いている「キリストによる神か らの義」(信仰による義)が告げられています。「わたしたちの主イエスを死人の中からよみが えらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のた めに死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえられたのである」。  ここでパウロが言う「義とされる」とは、私たちが道徳的人間的に「義しいとされること」で はないのです。先ほどの「大牧者の祝福」との関わりで申しますなら、私たちが自分の正しさ や清さを他人に誇り、見せつけて、どうだ、自分はこんなに正しい人間なんだと自分を誇るこ とではない。そうではなく「わたしたちの主イエス・キリストを、死人の中から引き上げられ た平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり …」ここにのみ私たちの「義」があるのです。今朝の第一コリント書15章で申しますなら、 10節の「わたしと共にあった神の恵み」です。すなわち、私たちが復活の主の恵みに覆われて 生きることです。主の教会に結ばれて永遠の生命にあずかり、礼拝者として生きることです。 主は私たちの罪の永遠の贖い主であられ、その主が復活によって私たちに永遠の生命を与えて 下さったのです。「キリストの復活」は「私たちの復活」の喜びなのです。  ですから「神の義」と「復活」は分かち難く結ばれています。神は私たちを「義」として下 さり、キリストの恵みに覆われて生きる者として下さるために、御子イエスをよみがえらせて 下さった。墓に降りたもうて、罪の最底辺にある私たちを救って下さった主は、それだけでは なく、私たちを「義」とし、ご自身の救いの恵みと祝福に永遠に生きる者として下さるために、 墓よりよみがえって下さったのです。十字架と葬りにおいて「罪の贖い」を成し遂げて下さっ た主は、復活によって私たちを、その変わらぬ救いの恵みに生きる一人びとりとして下さった のです。それこそ、使徒パウロが「わたしが最も大事なこととして…伝えた」と言い切ってい る福音そのものなのです。それを、使徒パウロも受けた。神から、復活の主から戴いて、キリ ストの「義」に生きる者とされた。最初に、ペテロに現われて下さった主は、十二弟子にも現 われて下さり、全ての使徒たちにも現われて下さり、ヤコブにも、そしてパウロにも現れて下 さった。 イースターおめでとうございます。まことに主は、あなたのために、そして全ての人のために、 復活されました。