説     教     詩篇62篇5〜7節    使徒行伝2章29〜36節

「主は御父の右に」

2015・03・29(説教15131583)  私が小学生の頃、よく学校の先生から「姿勢を正しなさい」ということを言われました。授 業のときはもちろん、お弁当の時にも「姿勢を正すように」と注意された記憶があります。そ こで、牧師が説教壇から説教する姿勢についても、昔の牧師先生がたはよく気を配っておられ たと思います。説教の内容はもちろん、説教者の日ごろの姿勢そのものにも、きちんと注意を しておられたのです。それは同時に礼拝者の姿勢への気配りでもありました。礼拝前には黙祷 をして奏楽の開始を待つ。礼拝中には御言葉に集中する。献金はあらかじめ準備をしておく。 当然のことですが、その当然のことが大切だと思います。なによりも問われているのは「信仰 の姿勢」です。私たちがいつも、主イエス・キリストのみをしっかりと見つめて歩んでいるか どうか。御言葉に養われつつ生きているかどうか。その「信仰の姿勢」をこそ改めて問われて いるのです。  そのとき、私たちにとって最も大切なことは、主イエス・キリストがいま、どこにおられる か、そして何をしておられるか、それを明確にわきまえていることです。そして主に向かって 信仰の背筋を伸ばすことです。主を仰ぐ健やかな信仰に生きることです。この「主イエス・キ リストがどこにおられ、いま何をしておられるか」という問いに対して、私たちが告白(歌い さえ)している使徒信条は明確に答えています。それは「(主は)天に昇り、全能の父なる神 の右に座したまえり」という言葉がそれです。今日の御言葉である使徒行伝2章29節以下に も、特にその32節と33節にこう告げられていました。「このイエスを、神はよみがえらせた。 そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約 束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」。  もっとも、ここには「座したまえり」という言葉は出てきません。それが出てくるのは、た とえばペテロ第一の手紙3章22節です。「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちとも ろもろの権威、権力を従えておられるのである」。しかしその意味するところは使徒行伝も同 じです。キリストが「父なる神の右に座し」たもうた、という事実は、ただ単にキリストが天 の御父のもとに、ご自分の落着き場所を定められたということではない。それはなによりも私 たちのため、そして全世界のための、キリストの救いのお働きそのものを現しているのです。 それはどういうことでしょうか?。旧約聖書において「右」という言葉は「力」を意味しまし た。古代イスラエルの人々はおそらく、そこで具体的な姿を思い浮かべたに違いありません。 それは、礼拝の中心であったエルサレムの神殿は東を向いて建てられていたことです。神の御 臨在を現わす神殿が東に向かって建てられていた、ということはその「右」というと「南」に なります。ですからヘブライ語では「右」と「南」は同じ言葉(ヤミーン)です。そこには、 つまり神殿の「右」には王の住まいがありました。いわば、神のお住まいの「右」側に、神の御 心によって、神の民のために立てられた王が「座していた」のです。何のためか。神に仕える ためです。  それは更に、今朝の使徒行伝2章34節にも引用されている詩篇110篇1節に「主なる神が わが主に仰せになった。わたしの右に座していなさい」とあることに繋がります。使徒行伝は これこそ、御子イエス・キリストが父なる神の「右」に「座して」おいでになることだと語る のです。つまり、主イエスは「まことの王」として父なる神と共に永遠に支配しておられる「主」 である。主は天の玉座にお着きになって、そこに安住しているというのではなく、そこでこそ 「教会の主」(教会のかしら=歴史の主)として、永遠の恵みのご支配を確立され、救いの御 業をこの歴史の中に行なっておられるかたであるという告白なのです。ですから「天に昇り、 全能の父なる神の右に座したまえり」と言う場合、私たちはなにか遥か彼方に「王なるキリス ト」をお送りしてしまったのではない。むしろ逆にこの告白においてこそ、私たちは王なるキ リストと深く確かな繋がりを持つ者とされているのです。  そこで、この「神の右」に座したもうキリストのお姿を最もよく見据えて生きた人にステパ ノがいます。ステパノは初代エルサレム教会が立てた7人の執事のひとりであり最初の殉教者 となりました。ステパノはキリストの福音を堂々たる説教によってユダヤ人たちに証し、その 結果として石打ちの刑に処せられたのです。その様子は使徒行伝7章54節以下に詳しく記さ れています。「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしり をした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神 の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っ ておいでになるのが見える』と言った」。また59節にはこうもあります「こうして、彼らがス テパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、『主イエスよ、わたしの霊 をお受け下さい』。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負 わせないで下さい』。こう言って、彼は眠りについた」。  エルサレム教会はまだ小さな、生まれたばかりの教会でした。集まる人も少なく、力も弱い 教会でした。その指導者として立てられたステパノが、まことに堂々たるキリストの御業の証 をなし、立派な殉教の死をとげました。その死の様を見ていたパリサイ人サウロは、それを契 機にキリストの使徒パウロとしての歩みを始めたほどです。人々の暴力と圧倒的なこの世の力 だけが支配しているように見えたステパノ殺害の場面で、いままさに死なんとするステパノが しかと見つめていたものは、父なる神の右に立っておられるキリストのお姿でした。ここには 「座したもう」とさえ書いてありません。主イエスはもう「立って」おられるのです。主はい まここに救いの御業をなさっておいでになる。残酷な石打ちの刑すらも、人々の憎しみや殺意 も、主のなさる救いの御業を止めることはできない。ステパノはただ主のみを仰ぎ見て感謝と 讃美をささげ「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈りました。そして自分を殺害しつつ ある人々に対して「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と祝福と赦しを祈り つつ息絶えたのです。「この人々を懲らしめて下さい、仇を討ってください」と祈ったのでは ない。まさにこの人たちの上に、あなたの救いの恵みが輝きますようにと祈りつつ「眠りに」 ついたのです。  最初に、私たちは「信仰の姿勢」を正すのだと申しました。その「信仰の姿勢」が如何なる ものであるかをステパノの姿が示しているのです。そのステパノの姿勢とは「父なる神の右に 座したもう十字架と復活の主を見つめる姿勢」です。だから私たちは「このステパノと同じ姿 勢で生きようではないか」とわかるのです。しかもそれはステパノだけではない、今朝の御言 葉・使徒行伝2章29節以下はペテロの説教です。聖霊が注がれて語らしめた最初の教会の説 教です。その33節以下にこのようにありました。「それで、イエスは神の右に上げられ、父か ら約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現 に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主 はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していな さい』。だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字 架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。  教会は、まさにここに建ちました。このようなキリストの確かな永遠のご支配を見ることに おいて、仰ぐことにおいて、教会の歴史が始まったのです。このキリストのご支配を見るのは ほかならぬ私たちです。この教会は主がお建てになった主の御身体です。教会は天における、 それゆえ歴史における永遠に変わらぬキリストの恵みのご支配を信じ受け入れて、その確かさ に生きる群れです。私たちの教会は長老制度(プレスビテリアン)の教会ですが、それは“ク リストクラシー”(キリストのご支配)を明確にするための制度です。言い換えるならそれは 「父なる神の右に座したもう十字架と復活の主を見つめる姿勢」において健やかである群れで す。キリストのご支配のみが鮮やかに見え、立ち上がり、現われてくる、そのような教会の営 みに共に奉仕してゆく制度が改革長老教会(リフォームド・プレスビテリアン)の制度です。 その「キリストのご支配」はいかなる内容を持つのでしょうか?。いまのペテロの説教の中にこ うありました。「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またはキリストとしてお 立てになった」。この「あなたがた」こそまさに私たちのことです。誰あらぬ、まことにこの 私たちの、測り知れぬ罪の贖いのために、主は十字架にかかられ、復活され、天に昇られて、 御父の「右」に座したもうたのです。  言い換えるなら、私たちは「天」に十字架の贖い主なるキリストを戴く者とされている。こ のかたが絶対に変わることのない恵みの王権を確保していて下さる。だから、私たちは生きる にも死ぬにも変わることなく、主の恵みの御手に堅く支えられていることを堅く信じることが できるのです。決して変わらない永遠の恵みの御手に私たちは守られているのです。だからこ そローマ書8章33節以下にはこう告げられています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴える のか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イ エスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さ るのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか…」。なんと素晴しい御 言葉でしょう。神の右に座しておられるキリストは、永遠の救いの王権をもって支配していて 下さるかたなのです。全ての人々を教会によって救いと祝福へと招いておられるのです。  だからこのローマ書8章31節から終わりの39節まで一貫している確信があるのです。37 節以下「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちはこれらすべての事 において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも 将来のものも、力ある者も、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主 キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。「(主 は)天に昇り、父なる神の右に座したまえり」という告白が言いあらわしている確信と祝福は、 まさにこの御言葉に告げられている出来事です。神の愛から、言い換えるなら、神の恵みのご 支配から、私たちを引き離しうるものは何ひとつない、それほど確かな救いの喜びに、私たち はあずかる者とされている。それは、主が永遠に勝利されたからです。その勝利の権威をもっ て「父なる神の右に座し」たもうからです。だからこそ使徒信条は「全能の父なる神」という 言葉をここで繰り返します。永遠の贖い主であられるキリストがそこにいて下さるゆえにこそ、 私たちは心からの喜びと感謝と讃美をもって、神が「全能の父なる神」であられることを言い 表す者とされているのです。  すでに栄光の主が天において、私たちを完全な恵みの支配のもとに置いていて下さいます。 天にあり、それゆえに、永遠に私たちと共におられる救い主として、主は私たちにはっきりと 告げていて下さるのです。「わが子よ、私は、いつまでも変わることなくあなたと共にいる。 あなたの人生の日々のどれひとつとして、私の前に空しくはならない」と。それゆえ私たちは、 どのような時にも、まことの王であられる主イエスにみずからの労苦の全てを委ね、その完成 と祝福をまさに、天における勝利の主にお委ねすることができるのです。私たちの信仰の姿勢 はそこにおいてこそ、いつも健やかな、軽やかな、慰めに満ちた、祝福を告げてゆく、御国の 民の幸いの姿とされているのです。