説   教  出エジプト記29章45〜46節 ヨハネ福音書17章17〜19節

「祝福の祈り」

2015・12・27(説教15521623)  主の年2015年最後の主日礼拝を迎えました。われらの主イエス・キリストは今朝与えられたヨハネ 伝17章17節において「真理によって彼らを聖別して下さい」と弟子たちのために祈られました。この 「真理」とは福音のことです。神の御言葉のことです。福音そのものが、神の御言葉そのものが、私た ちを「聖別」すると主イエスは宣言して下さいます。なによりも、それをご自身の御父への切なる祈り となさるのです。ですからこの17節の祈りは、ただ「聖別して下さい」だけで終わってはいません。「あ なたの御言葉は真理であります」という大切な続きがあるのです。これは「真理とはすなわち、あなた の御言葉であります」と訳すことができる言葉です。「真理」とは言い換えるなら「救い」です。私たち を救う「救い」に様々な種類があるのではないのです。生ける聖なる神の御言葉のみが、御子イエス・ キリストのみが、私たちを本当に救う唯一かつ永遠の「真理」なのです。まさにその「真理」である神 の御言葉のみが、私たちを「聖別」するのです。  そこで、この17節の主イエスの祈りですが、私たちはこの17節の前半を祈願として、後半を頌栄と して理解することができるでしょう。これは私たちが祈る時にも大切なことです。と申しますのは、私 たちは祈るとき、ただ自分の願いや要求のみを並べるだけで、神の御名を讃えることを怠っていること があるからです。私たちの祈りにおいてまず大切なことは、全てにまさって神の聖なる御名を崇め、そ の恵みと栄光を讃美することです。だから、主イエスが“祈りの手本”としてお教えになった“主の祈 り”を改めて思いましても、その最初は「願わくは御名を崇めさせたまえ」であり、最後は「国と力と 栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という頌栄の言葉なのです。  かつてイタリアにアッシジのフランシスコという人がいました。いわゆる托鉢巡礼者として祈りの生 活に徹した、中世カトリック教会の聖人の一人です。腐敗した当時のローマ教会に大きな影響を与えた 人物でもあります。このフランシスコがあるとき大きな家に客としてもてなされました。その家の主人 はかねてより、フランシスコの祈りを聴いてみたいと思っていました。そこで悪いとは思いつつも、夜 そっとフランシスコが泊まっている部屋の扉に耳をあてて、彼がどういう祈りをするか聴いていたとこ ろ、その祈りは「おお主よ、わが神よ、汝の御名はほむべきかな」の連続であった。そこで主人は「こ れこそまことに聖人の祈りである」と大いに感心したということです。  私たちはこういう祈りを怠っていることはないでしょうか。「祈り」は何か願いごとや困ったことがあ る時にだけするものではないのです。私たちの願望が祈りを成り立たせるのではないのです。むしろ、 私たちが願うことや思うことの全てに先立って、まず主なる神ご自身が私たちのことを常に御心にとめ ていて下さる。そして私たちを御言葉によって祝福して下さる。この事実があってこそ祈りの生活は成 り立つのです。ちょっとドイツ語の話をしますが、ドイツ語で「わざ」を意味するアウフガーベという 言葉は、賜物を意味するガーベという言葉に由来しています。「祈り」の生活も同じです。神の賜物(恵 み)が「祈り」という私たちの信仰の「わざ」を成り立たしめる唯一の根拠なのです。それならば私たち は、まず何を擱いても神の御名を崇め、感謝と讃美を献げるほかはないのではないでしょうか。  主イエスがお献げになった今朝の17章17節の祈りは、その意味でまさに讃美と感謝に溢れた祈りの 手本でもあります。主イエスはここで「真理によって」私たちを「聖別して下さい」と祈られたすぐ後 で「あなたの御言は真理であります」と、限りない讃美を献げたまいました。つまり、主イエスが私た ちを「聖別」せんとして委ねたもうものは神の聖なる御言葉(福音)そのものです。そこで大切なこと は、この「聖別する」という言葉の意味するものです。この「聖別する」と訳された元々のギリシヤ語 は「聖となす」という意味の“ハギアゾー”という言葉です。ですから本来は「聖別する」と訳すより は、むしろ端的に「聖なる者とする」と訳したほうが良いのです。しかし、すると私たちにはたちまち、 ある戸惑いが起こるのではないでしょうか。それは「聖なる者とする」と言われても、いったいこの自 分のどこを見れば、そのような言葉に相応しい資格があるのだろうかと、戸惑い驚かざるをえないので す。神が「聖なる」かたであるということはよくわかる。しかしその「聖なる」という言葉が、事もあ ろうに自分に向けて語られるとき、私たちはそこで驚き怖れざるをえません。主イエス御降誕の報せを 受けた祭司ザカリヤのように、畏れつつ立ち尽くす以外にないのです。  この問いを解く鍵を私たちは、旧約聖書・出エジプト記29章に見出すことができます。そこには祭 司アロンの聖別の出来事が記されています。大切なことは、主なる神は「わたしの栄光によって」「アロ ンとその子たちを聖別する」と告げておられることです。この「わたしの栄光によって」とは「わたし があなたに現す救いによって」という意味です。私たちは「神の栄光」と一口に申しますが、それを抽 象的にしか理解していないことがいかに多いことでしょうか。カルヴァンを始めとする宗教改革者たち が「ただ神にのみ栄光あれ」(ソリ・デオ・グロリア)と教会形成の標語を掲げたとき、それは単なる改 革派教会の看板ではありませんでした。カルヴァンのこの標語は単なる宣伝文句や景気づけの掛声では ありません。そうではなく「ただ神にのみ栄光あれ」とは「ただ神の救いの御業のみを現す教会たれ」 という意味です。私たちの教会は「ただ神の救いの御業のみを現す」ために存在する群れなのです。そ のために神に仕える共同体なのです。だから「神の栄光」とは、私たちの救い、そして全世界の救いと ひとつです。ただ神が全てに隔絶した高き存在であるという意味ではなく、むしろ、御子イエス・キリ ストにおいて、全世界に救いの御業をなしたもう救い主という意味なのです。その救い主の御業を、私 たちは自分に与えられている救いの出来事のゆえに、常に喜び讃えざるをえないのです。  そうすると、改めて今朝の御言葉の意味が改めてよくわかるのではないでしょうか。すなわち、私た ちが「真理によって聖別される」とは、私たちの内側にある何かを神が清めて用いて下さる、というこ とではない。そうでなくて、神はただ御子イエス・キリストの十字架の恵みのゆえに、ただキリストの 贖いの義をもって私たちを「聖なる者」として下さるのです。それならば、この「聖なる者」とは「主 にありて(主に結ばれて)聖とならせて戴いた者」です。「聖とならせて戴いた」とは、罪あるがままにキ リストの義に覆われた僕です。キリストを着る者とされたことです。「着る」というからには、内側の本 体が変わるのではなく、その本体あるがままにキリストを着るのです。かくてパウロが言うように私た ちはもはや「裸のままではいない」のです。キリストの限りない義が私たちの全存在を覆い守っていて 下さるのです。  日本のような四季のある温暖な国におりますと、イスラエルのような沙漠の国の気候の厳しさをなか なか実感できません。沙漠の国に住む人々は、あの灼熱の暑さの中でどうして、あんなに頭からすっぽ りと身を隠す衣装をしているのだろうか。実際に砂漠に行ってみるとよくわかります。服で身体を覆い ませんと、たちまち脱水症状になって生命にかかわるのです。昼は摂氏40度、夜は氷点下ぐらいまで 気温が下がりますから、身に纏う服は生命を守る大切な衣です。それこそ詩篇121篇にあるように「昼 は日なんぢをうたず、夜は月なんぢをうたじ」このことがいかに大きな恵みであるかということです。 「エホバは汝を守りてもろもろの禍害を免れしめ、また汝の霊魂をまもり給はん。エホバは今よりとこ しへに至るまで、汝の出づると入るとを守りたまはん」。  1945年の春にナチスの強制収容所で処刑されたドイツの神学者ボンヘッファーは、その著書「聖徒の 交わりか諸聖人の功徳か」の中で次のように述べています。私たちプロテスタント教会、特に改革派の 教会は、使徒信条やニカイア信条の“サンクト・コンミューニオム”を「聖徒の交わり」と解釈する。 それに対してローマ・カトリック教会は「諸聖人の功徳」(または通功)と訳す。ここには2つの教会 の根本的な福音解釈の相違がある。問題は“サンクト”(聖なる者)とは何かということである。そのよ うにボンヘッファー牧師は語るのです。私たちは今朝の御言葉にもあるように、この「聖なる者」とは イエス・キリストの義に覆われること、キリストの義にあずかることだと理解します。人間が聖人の功 徳によって聖なる存在になることではないのです。私たちにとって「聖なる者」とは神の御子イエス・ キリスト以外にありえないのです。もともと「聖なる」という言葉そのものが、ただ神に対してしか用 いられない言葉なのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。キリストが今朝の御言葉において言われる「(私たちを) 聖別する」とは、それは、私たちを教会においてご自身の十字架の恵みにあずかる者として下さること です。生命なき者にご自身の復活の生命を与えて下さることです。立ちえなかった者がキリストの祝福 のもとに立ち上がり、神の愛の内を勇気をもって歩む者とされることです。祝福を知りえなかった者が、 キリストの限りない祝福と罪の赦しにあずかり、新しい祝福の生命に甦らされることです。それが「聖 なる者」になること、すなわち「聖別されること」なのです。  だからこそ、主イエスは今朝の御言葉においてこうも祈られました。18節以下です。「あなたがわた しを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別され るように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」。主イエスは私たちを「裸のまま」でおらせたまわ ない。主イエスは、私たちの罪を放置して滅びに任せたまわない。裸のまま日に曝され、月に打たれて すら滅びる、弱く儚き私たちの存在を、かき抱くようにご自身のもとに引き寄せて下さり、ご自身の十 字架の贖いの義をもって覆って下さるのです。そのために、まさにその救いの出来事が私たちの上に、 世界の上に成就するためにこそ、主はあの呪いの十字架にかかって死んで下さったのです。それならば、 今朝の御言葉の最後の19節の意味が明らかになるのです。「また彼らが真理によって聖別されるように、 彼らのためわたし自身を聖別いたします」と主は祈られました。これはゲツセマネの祈りです。ゲツセ マネにおいて何が起ったのでしょうか。永遠にして聖なる神の御子が、私たちの全ての罪を担って、血 の汗を流して祈られた出来事です。まさにそこに、私たちの救いが成就しているのです。  この十字架の恵みに立ってこそ「彼らのためわたし自身を聖別いたします」と主は祈って下さいまし た。これこそ、まさしく十字架の出来事を現しているのです。この「聖別する」ことは「栄光を受ける」 ことであり、その「栄光」とは主イエスにおいては十字架の贖いを意味したからです。だから「彼らの ためわたし自身を聖別いたします」とは、既にご自身を全く贖いとして献げて下さった主イエスの、あ ふれる恵みの確かさを現しているのです。それが、主イエスの言われる「聖別」なのです。  この一年間、受けた数々の恵みを感謝すると共に、どうか私たちは、この主イエスの「聖別」によっ て救われた僕たちであることを、喜びと信仰をもって応答する群れになりたいと思います。既に主より 戴いた確かな聖別が、贖いの恵みが、私たちの新しい一年の「わざ」を、生活の全体を、どんなに確か に祝福していることでしょうか。私たちは十字架の主イエス・キリストによって、残された今年の日々、 そして新しい2016年の歩み(わざ=アウフガーベ)へと遣わされているのです。真理によって聖別される 生活においてこそ、私たちは真の勇気と希望をもって、神と人とに仕える者とされてゆくのです。十字 架のキリストの義に覆われた私たちは、怖れることなく、祝福の祈りを携えて、与えられた新しい一年 の歩みへと、主の御手によって遣わされてゆくのです。そのような主に結ばれた者の新しい生活を、私 たち全ての者が、この礼拝を通して主の御手から受け取っているのです。