説     教    イザヤ書9章14節  ルカ福音書2章8〜14節

「メリー・クリスマス」 2015年 聖夜礼拝

2015・12・24(説教1551b1622)  クリスマスは、神が全ての人々に与えて下さった、測り知れない喜びの日です。この日、私たちは 「クリスマスおめでとう」と互いに挨拶を交わします。この「おめでとう」は、英語で言うなら「メ リー」(メリーネス)です。ではクリスマスの「メリーネス」(最も大きな喜び)とはいったい何でしょ うか。  私たちの周囲を顧みるなら、世界中の至るところに、クリスマスの飾りや光とは正反対の、人間の 罪が生み出す闇があります。メリーネスとは正反対の現実があるのです。20世紀を「混乱と殺戮の世 紀」と呼んだ人がいました。21世紀に入って最初の15年を過ごした今、この新しい世紀が20世紀 に劣らぬ「混乱と殺戮の世紀」にならないという保証はどこにありません。そのような予感と不安に 既に私たちは捕らわれ始めているのではないでしょうか。  新聞にもテレビにもインターネットにも、私たちの罪が醸し出す数々の悲惨な出来事が報じられな い日は一日もありません。東日本大震災の記憶はつい昨日のごとくです。避難した人々が安心して生 活できる日はまだ未来のことです。そのような中で私たちはみな、先行きの見えぬ不安を、心の中に 抱えているのです。  癒されぬ病気に苦しみつつ病院のベッドの上でクリスマスを迎えている人たちがいます。自殺への 衝動をどうにもできないでいる青年がいます。家庭の中に背負いきれぬ苦しみや悩みを抱えている人 がいます。人間関係の中で傷つき心が引き裂かれている人がいます。クリスマスの美しい光の飾りも、 お正月の華やいだ雰囲気も、すぐさま現実の世界の不安に覆われ、かき消されてしまう、暫しの慰み にすぎないようにさえ思われるのです。光はついに闇に呑みこまれてしまうものにすぎないと、私た ちは漠然と不安を感じているのではないでしょうか。  今から2015年前、あの最初のクリスマスの晩に、ベツレヘムの羊飼いたちを囲んでいた夜の闇も また、いま私たちを覆っている不安と同じように、暗く果てしないものでした。先ほどお読みした御 言葉、ルカによる福音書2章8節以下にはこのように記されています。「さて、この地方で羊飼たち が夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」。この羊飼たちは、ベツレヘムの郊外で、エルサレムの 神殿に犠牲として献げられる羊を飼っていた人々です。彼らは当時、社会的に最も蔑まれた最底辺の 人々でした。住む家さえなく、羊の群れと共に「野宿」するほかはなかったのです。少し前のルカ福 音書2章7節には、私たちの主イエス・キリストは「余地なきところ」にお生まれになったことが記 されています。主イエス・キリストは、私たちのこの世界の「余地なき」罪の現実の中にこそ、最も 低く、貧しいお姿で、ベツレヘムの馬小屋に、幼子として生まれて下さったのです。それならば、住 む家さえなかった彼ら羊飼いたちこそ、この主イエス・キリストの愛と恵みを、最も敏感かつ切実に、 感じ取ることができたのではないでしょうか。  彼らは、大切に手塩にかけて育てた小羊が、犠牲として殺されるために連れてゆかれる悲しみを、 誰よりもよく知っていた人々でした。言い換えるなら、この世界の全ての人の罪を贖う真の犠牲(い けにえ)として、最愛の独子イエスをこの世界にお与えになった父なる神の無限の愛を、最もよく理 解できたのが彼ら羊飼いたちでした。この羊飼いたちは、今日の御言葉によれば、何を「恐れた」と 記されていたでしょうか。住む家もなく「野宿」する不安定な生活を恐れたのでしょうか?。それと も、彼らを取り囲んでいる深い夜の闇を恐れたのでしょうか?。否、彼らが真に畏れたもの、それは 天使が告げたクリスマスの出来事でした。すなわち9節に「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼ら をめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあるとおりです。  顧みて、私たちはいつも、本当に畏れるべきものは畏れず、逆に、恐れるべきではないもの、恐れ てはならないものを、恐れているのではないでしょうか。羊飼いたちが畏れたのは、夜の闇の暗さで はなく、彼らをめぐり照らした、天使たちによって告げられた神の栄光(救い主キリストの御降誕の 知らせ)でした。彼らは、本当に畏れるべきものを畏れたのです。それゆえにこそ、恐れるべきでは ない他の全てのものから自由になり、恐れに支配されたこの世界の、夜の闇の中で不安を抱えている 全ての人々に、救い主キリストの御降誕という「すべての民に与えられる大きな喜び」を語り伝える 者とされたのです。現実のあらゆる恐れの中に、主の平安を抱いて立ち向かうことができたのです。  どうか共に聴きましょう。天使は、私たち全ての者に、クリスマスの音信(キリスト御降誕のメッ セージ)を伝えています。10節の御言葉です「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに 伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なる キリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろ う。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。  まことの神は、この世界を、そして全ての人々を、限りなく愛しておられるかたです。だからこそ 「全ての民に与えられる大きな喜び」を天使を通して私たちに告げて下さいました。それはこの世界 に、全ての人のまことの救い主として、神の御子イエス・キリストが与えられたクリスマスの出来事 です。神は私たち全ての者を極みまでも愛して、私たちの罪によって「余地なき」ものとされたこの 世界のただ中に、その「余地なき」現実の中にこそ、ご自身の最愛の独子を与えて下さったのです。 それが、クリスマスのメリーネスの意味(出来事の本質)なのです。  私たちはいま、この御降誕の主の前に、本当の「畏れ」(信仰)を持って立っているでしょうか?。 ヨハネ福音書1章9節に「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げられています。 この「全ての人を照らすまことの光」こそ、飼葉桶に生まれたもうたキリストのことです。そしてヨ ハネは1章5節にこうも告げられています「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなか った」と。  私たちの闇のただ中に「まことの光」なるキリストが来て下さったのです。そして十字架の道を歩 んで下さいました。たとえ闇がどんなに深くても「まことの光」に勝つことはできません。だからこ そ私たちはいま、真に畏れるべきかたを畏れる(信じる)者として立ちたいのです。クリスマスは「全 ての人を照らすまことの光」が、いま全世界の人々と共にあることを喜び祝う時です。(サンタクロー スの話)。  キリストは、真の神の御子であるにも関わらず、私たちのために、この世界で最も貧しく、低く、 暗いところに、ベツレヘムの馬小屋に、十字架にかかるために、幼子として生まれて下さったのです。 天使が告げているとおりです「あなたがたは、幼な子が布にくるまって、飼葉桶の中に寝かしてある のを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。  この「しるし」こそ、まことの救い主の「しるし」です。羊飼いたちは、ベツレヘムの馬小屋の、 飼葉桶の中に眠りたもう神の御子イエス・キリストを、心から礼拝し、キリストと共に生きる、新し い歩みを始めます。ここにクリスマスのメリーネス(最も大きな喜び)があるのです。クリスマスおめ でとうございます。まことに主キリストは、あなたのために、あなたの生活のただ中に、お生まれ下 さいました。