説    教    イザヤ書9章1〜7節   ルカ福音書2章1〜7節

「クリスマスの福音」

 クリスマス主日礼拝 2015・12・20(説教15511621)  オーストリアの精神病理学者ヴィクトール・フランクルの著書「夜と霧」は20世紀最大の悲劇と言 われるナチスによるユダヤ人強制収容所の事実を、体験者の立場から描いた人類の記念碑的著作です。 その中にこういう出来事が記されています。アウシュヴィッツ強制収容所は男性と女性の収容所が数百 メートル離れていましたが、ある日一人の女性が赤ちゃんを産んだという知らせが風の便りのようにフ ランクルがいた房舎に届いた。そのときユダヤ教のラビの男性が立ち上がって感謝の祈りを献げたとい うのです。「おお神よ、あなたの御業はほむべきかな。あなたは私たちに御自身の御子を与えて下さった。 神の御子でなくして、どうして絶望の中に生まれるでしょうか」。  クリスマスは深い夜の出来事です。底知れぬ夜の深い闇がクリスマスの出来事を幾重にも囲んでいま す。今朝の御言葉ルカ伝2章もそうです。しかもそこでは、私たち人類を覆い囲んでいる闇は、ただ単 に夜の暗さだけではないことが示されています。時の最高権力者であったローマ皇帝アウグストから「全 世界の人口調査をせよとの勅令が」出たのです。これは絶対的な命令であり、全てのユダヤ人が服従せ ねばなりませんでした。 今日のように書類を出せば済むという時代ではありませんで。3節を見ます と「人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った」と記されています。どんなに遠 くても、全てのユダヤ人が、家を空け、仕事を離れ、戸籍のある故郷の町まで旅をして、そこで登録す ることを求められたのです。これは人頭税を徴収するためにローマ帝国が行なった過酷な政策でした。  江戸時代の参勤交代は、諸国の大名が徳川幕府に刃向かう力を削ぐために、経済的に疲弊させる意図 で制度化されたと言われていますが、ユダヤの人口調査も同じ政治的意図によるものでした。ローマ帝 国は、植民地であるユダヤがローマに対して謀反を企てることがないように、しばしばこうした乱暴な 人口調査を命令し、人民を服従させたのです。何百万人というユダヤ人が、ローマ皇帝の一声で過酷な 旅を余儀なくされたのでした。たとえ病人も、老人も、身重の婦人も、幼い子供たちも、この命令に逆 らうことはできませんでした。そうした中で一組の夫婦が、この世界の片隅で、あたかも嵐に弄ばれる 木の葉のように翻弄された場面が、今朝の御言葉には記されています。それは、ヨセフと身重であった 許嫁の妻マリアの2人でした。すなわち4節にこう記されています「ヨセフもダビデの家系であり、ま たその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って 行った。それは、すでに身重になっていた許嫁の妻マリアと共に、登録をするためであった」。  マリアは聖霊によって、まだヨセフと婚約中に神の御子イエス・キリストを身ごもりました。ヨセフ はマリアと共に、この神の御業を信仰によって受け入れ、彼女の生命を守るために天使ガブリエルに導 かれつつ戦いました。そして今またヨセフは、マリアと生まれてくる幼子・人類の救い主イエスを守る ために、ベツレヘムまでの遥かな道のりを苦難の旅をするのです。身重の妻を連れた当時の旅がどんな に過酷なものであったか、それは私達の想像を遥かに超えているのです。しかも、彼らがようやくベツ レヘムにたどり着いた時には、すでに町中の宿屋が諸国からの旅人で埋め尽くされていました。身も心 も疲労困憊していた彼ら、特に臨月のマリアのために、部屋の片隅でも空けてあげようという人は誰も いなかったのです。無慈悲で過酷な命令は、ここでも彼らを容赦なく翻弄し苦しめるのです。最悪の条 件の中で、最悪の出産をせねばなりませんでした。6節をご覧ください「ところが、彼らがベツレヘム に滞在している間に、マリアは月が満ちて、初子を産み…」とあることです。  事もあろうにヨセフとマリアは、人間として考えられうる最低最悪の条件の中で、キリスト御降誕の 出来事に臨まねばならなかった。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」 との信仰がなければ、マリアはとうていこの暗黒の現実に耐えることはできず、またヨセフも、天使ガ ブリエルを通して与えられた主の命令がなかったら、この最悪の条件を受け入れることは出来なかった でしょう。しかし彼らには揺るがぬ信仰があり、神への絶対の信頼がありましたので、この暗黒の中で こそ、そこに現れる神の御業を信じることができたのです。  そこで、私たちの心は彼らと共に、今朝の7節の驚くべき御言葉へと導かれてゆきます。それは(6 節の途中から拝読しますが)「マリアは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉桶の中に寝かせた。 客間には彼らのいる余地がなかったからである」とあることです。この「客間」とは「宿屋」という意 味の言葉です。つまりベツレヘム中どこの宿屋にも、ヨセフとマリアを迎える「余地」はなかったとい うことです。これは言い換えるなら、私たちのこの世界は、御子イエス・キリストの御降誕の出来事を お迎えする「余地」をどこにも持たない、そのような罪の暗黒の世界である、ということを示している のです。あのアウシュヴィッツも遠い宇宙の出来事ではなく、私たちの世界のただ中に、私たちと同じ 人間によって起こされた暗黒なのです。私はかつて刑務所の教誨師の訓練を受けたことがありますが、 刑務所にいる受刑者たちは、本当にどこにでもいるごく普通の人たちです。言い換えるなら、ごく普通 の人たちが恐ろしい罪を犯すのです。  ある人が20世紀を「混乱と殺戮の世紀」と呼びました。残念ですがそれは事実でしょう。では現代 の21世紀はどうでしょうか。すでに私たちは21世紀の最初の15年間を過ごしました。しかしこのた った15年の年月を顧みてさえ、私たちはそこに数え切れないほどの悲惨と殺戮を数え上げることがで きるのはないか…。新聞にもテレビにも、人間の罪の暗黒が現れていない日は一日もありません。この 新しい世紀が20世紀にも劣らぬ「混乱と殺戮の世紀」にならない保障は、少なくとも私たちの現実を 見るかぎり、どこにもないと言わねばなりません。  否、既に私たちの現実の威喝の只中に「暗黒」は存在しています。今この瞬間にも、病院のベッドの 上で不安と痛みに耐えている人がいます。人間関係の縺れの中で心がずたずたに引き裂かれた人がいま す。愛する者を失って途方に暮れた悲しみの家庭があります。自殺への衝動をどうすることもできない 青年がいます。それは喩えて言うなら、どこにも人間を容れる「余地」のない宿屋のようなものです。 たとえどんなに造りは立派で見かけは豪華であっても、人間を容れる「余地」のない宿屋はもはや宿屋 (レストハウス)ではありません。そこにはレスト(安息)はないからです。この世界も同じではない でしょうか。たとえどんなに豊かさを誇り、見かけだけ立派になり、生活が便利になっても「混乱と殺 戮」の満ちたこの世界のどこに、私たち人間の本当のレスト(安息)があるのでしょうか。いま人類は 人間のこの根本的かつ本質的な問題に改めて向き合わしめられているのです。  クリスマスの出来事は、御子キリストの御降誕は、まさにその「余地なきところ」に起こった神の御 業です。主イエス・キリストは、そのような「余地」なき私たちの世界のただ中に、まさにそこが「余 地」なき場所であるがゆえにこそ、お生まれ下さった救い主なのです。クリスマスを私たちは「メリー・ クリスマス」(クリスマスの喜び)と祝います。クリスマスのメリーネス(喜びの所以)は実に、神の永 遠の御子が「余地」なきこの私たちの世界(人生)の暗黒のただ中にお生まれ下さったという事実にある のです。まことに主は「余地」なきところにお生まれ下さった救い主なのです。18世紀の哲学者キェル ケゴールはこのように申しました。「もしイエス・キリストが、ベツレヘムの飼葉桶の中にではなく、き らめく王宮の中に王子としてお生まれになったとしても、永遠の神が人となられたという一事のゆえに、 それは果てしない恥辱であったに違いない。しかし、われらの主イエス・キリストはまさしく、ベツレ ヘムの飼葉桶の中に、すなわち、この世界で最も暗く、低いところに、お生まれになったのである」。  まことに主は、私たちのために、全世界の救い主として、まさに「余地」なきところにお生まれにな りました。その出来事をヨハネは「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げていま す。この方は私たちの罪の暗黒のただ中に、絶望のただ中にこそお生まれ下さったのです。まことに救 い主は「余地」なきところに、飼葉桶の中にお生まれになったのです。今日のこのクリスマス礼拝は、 私たちが心からこのかたの御降誕の喜びにあずかり、神の御名を喜び讃える日であります。  クリスマスとは「キリストを礼拝する」という意味です。私たちは「余地」なき私たちの世界に、私 たちを罪と死から贖うためにお生まれ下さった御子イエス・キリストを心から喜び迎え、このかたをわ が主・救い主と信じ、讃美と感謝を献げつつ、新しい信仰の歩みへと、主が共におられる平安の歩みへ と、導かれてゆきたいと思います。全ての人々の上に御子イエス・キリストの祝福がありますように。 主はまことに、あなたの「暗黒」のただ中にお生まれ下さったのです。