説    教    ダニエル書4章24〜27節    使徒行伝1章6〜11節

「天に昇られしキリスト」

2015・03・22(説教15121582)  私たちの教会では復活節(イースター)、聖霊降臨節(ペンテコステ)、そして降誕節(クリス マス)の三つを「三大節」と呼び、特別な礼拝を献げる喜びの日としています。この「三大節」 は全て日曜日です。しかし日曜日ではない教会の祝日もあります。たとえば「昇天日」と言われ る日がそれです。復活の主イエス・キリストの昇天を記念する日です。イースター礼拝後の40 日目ですから、かならず木曜日になります。今年の昇天日は5月14日(木)です。そこで、私た ち日本のキリスト者は、昇天日を特別な礼拝の日として守ることはしませんが、ヨーロッパなど ではこの日は立派な“国民の祝日”になっています。ドイツなどでは、春の訪れが遅い所為もあ りますが、昇天日の頃が一年中で最も美しい季節です。北海道の春のように一斉に花が開きます。 そのような光景の中で、プロテスタント、カトリックを問わず、どこの教会でも昇天日の特別な 礼拝が献げられます。歴史をたどるなら、すでに西暦325年「昇天日」はニカイア信条の制定と 同時に特別な礼拝の日と定められました。三大節に劣らぬ旧い歴史を持っているのです。  そこで大切なことは、私たちがドイツの教会の真似をして「昇天日」である木曜日に教会に集 まり特別な行事を行うことではありません。そうではなくて、既にキリストの復活を記念する日 曜日のどの礼拝においても、そこで十字架の主の福音のみが宣べ伝えられ、御言葉を中心とする 礼拝が献げられるとき、キリストの昇天の出来事もいつも信仰をもって覚えられ、感謝と讃美が 献げられているかどうかが問われているのではないでしょうか。たとえば私たちは、毎週の礼拝 のたびごとに使徒信条を告白します。初代教会のように歌いさえいたします。そのたびに私たち は「(主は)十字架につけられ、死して葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の中からよみがえ り、天に昇り…」と告白するのです。洗礼準備会などでしばしば経験することですが、使徒信条 の中でどの部分がいちばんわかりづらいかと訊ねたとき、多くの人がこの「天に昇り」という言 葉をさします。言葉の意味がわからないというのではありません。それがどうして私たちの「救 い」なのかが「わかりづらい」という人が多いようです。これは洗礼志願者だけではないと思い ます。キリストの「十字架」や「復活」が「私の救いの出来事」として理解できる人も、こと「昇 天」になると途端に歯切れが悪くなるのではないでしょうか。  主イエス・キリストは甦られて、私たちのために、そして全世界のために、罪と死とを完膚な きまでに打ち滅ぼしたまい、そして“天に昇られ”ました。英語の使徒信条の翻訳を見ますと、 この「昇られた」と訳された言葉に「優位に立つ」という意味の言葉が使われています。ただ眼に 見えるひとつの事実として主は“天に昇られ”たというだけではない。天に昇られた主は、なに よりも“復活の勝利の主”であられるのです。私たちの底知れぬ罪と死の縄目を、その滅びの力 もろとも担い取って下さり、私たちを真の自由へと解き放って下さった救い主(慰め主)なので す。まさにその“復活の勝利の主”を私たちは、全世界の永遠の救い主として「天」に持つ者と されている。それがキリストの昇天の意味する限りない恵みです。主は私たちを支配する罪と死 に対して永遠に「優位」にお立ちになられた。たとえ私たちの罪がどんなに激しく私たちを滅び に引きこもうとも、「昇天の主」の前にはもはやその罪はなんの力(優位性)も持ちえないので す。キリストが絶対優位にお立ち下さって、私たちを存在の深みから守り、支えていて下さるの です。それが「昇天の主」の福音が告げる第一の祝福であります。  それだけではありません。私たちのために罪と死に永遠に勝利して下さったキリストは、その 恵みの勝利を「天」に「確保していて下さる」かたです。これを「たしかな保障」と言い換えて もよいでしょう。私たちの救いの「根拠」と言ってもよいのです。ごく単純に申しましょう。私た ちは弱く脆い自分自身の中に、救いの「根拠」(または保障)を持つのではないということです。 そうではなく、私たちは救いの確かな「保証」を「天」に(十字架と復活の主のもとに)持つ者 とされているのです。なぜか、それは十字架と復活の主は同時に“天に昇られ”たかただからで す。とても単純なことです。だからこそ、そこには確かな慰めと祝福があります。キリストの昇 天の恵みの内に、私たちは自らを、そして全ての人々を、そして世界と歴史とを、新たに見いだ すのです。ある一人のすぐれた神学者がこういうことを語っています。「天から来られて、私た ちのために御苦しみを受け、罪と死に勝利されて、すべての救いの御業を全うして下さった主が、 天にお帰りになるのは、当然のことではないか」。私はこの言葉に接して、改めて揺り動かされ る思いがしました。「ことさらに問うべきことでさえない」とこの神学者は言うのです。「それは 当然のことだ」とさえ言うのです。  私たちはクリスマスにおいて、主が神の御子でありつつ人として生まれて下さったことを喜び 祝っている。そこにこの私の、そして全世界の「救い」があることを知って感謝と喜びを主に献 げている。そしてイースターにおいて、私たちのために十字架を担われた主が、墓を(陰府を= 罪と死の支配を)打ち破り、甦られたことを喜び祝い、そこに私たち自らの「よみがえり」(救 い)があることを知って感謝します。それならば、天から降りたもうて人となられ、全ての救い の御業を成し遂げて下さった主が再び天に昇られたことは、まさに「当然のこと」なのです。勝 利は私たちの中にではなくキリストの内にあるのです。そして主はその勝利を「天」に確保して 下さったのです。弱い私たちの手に勝利を委ねて去ってゆかれたのではない。その勝利を保障し て下さるために主みずから“天に昇られ”たのです。私たちを揺るぎない恵みに生きる者として 下さったのです。だからこそキリストの昇天の福音は、私たちの救いそのものなのです。  私たち葉山教会の礼拝堂の入口の壁にラテン語で大きく「スルスム・コルダ」(Sursum Corda)と刻まれています。この礼拝堂を献堂して早くも15年目を迎えますが、最初はもっと 小さい字になる予定でした。しかし業者との連絡の手違いであのような大きな文字になりました。 私はむしろ幸いであったと思っています。これは皆さんもご存じのように「心を高く上げよ」とい う意味のラテン語で、初代教会いらい私たちの教会が聖餐式のたびごとに献げてきた祈りの言葉 です。否、これは毎主日ごとの礼拝において深く覚えられるべき祈りなのです。私たちはここで まさに「心を高く上げ」て「昇天の主」を仰ぎます。そこには私たち全ての者のために完全な救 いの「保障」を天に保っていて下さる勝利の主が、栄光の御座に坐しておられるからです。だから 私たちはこの世の旅路の中で、どんなに大きな試練や悩みにあるときにも、自らの救いを疑わず にすむのです。たとえいかに私たちが不確かであり弱くとも、私たちを終わりまで堅く支えて下 さるキリストの御手の確かさは疑いえないからです。私たちをキリストから引き離そうとするい かなる力も、もはや私たちの「優位」に立つことはありえないのです。私たちの救いの「保障」は 「天」にあるのであって、私たち自身にあるのではないからです。この幸いを使徒パウロは「わた したちの国籍は天にある」と語っています。  今朝の御言葉・使徒行伝1章10節11節において、天に昇ってゆかれる主イエスを呆然と仰い でいた(つまり天を仰いで佇んでいた)弟子たちに、御使いが決定的なことを告げます。「ガリ ラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエ スは、天に昇って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。 ただ天を仰いで立つことは、過去の思い出に浸ることです。主イエスが親しく共におられた、そ の恵みを過去のことにしてしまうことです。御使いは「それではいけない」と弟子たちを励まし ます。「なぜ天を仰いで立っているのか」と告げるのです。それどころではないのです。救いの 御業を十字架と復活において成就して下さったキリストは、新しい“教会の時代”をお始めにな った。天を呆然と仰いで思い出に浸っている暇などないのです。キリストが「天に昇られ」たとい う出来事こそ、私たち全ての者にとって限りない慰めであり、喜びなのです。  そのことをルターはこう語っています。「主が近くおられたとき、主は私たちから遠くあられ た。主が私たちから遠いとき、主は私たちに近くおられる」。その意味はこうです。もし主イエ スが目に見えるお姿のままで、私たちの中に留まり続けておられたとしたら、いま教会を通して なさっておられる数限りない救いの御業を私たちは見ることはできなかったであろう、というこ とです。全ての人が主のもとに集まって主に従うことなどできなかったでしょう。たとえば、も しキリストが眼に見える姿でイスラエルのどこかに本拠地(本山)を構えておられたなら、その 救いを受けたいと願う人々はみなイスラエルに巡礼せねばならなかったはずです。しかし主はそ のようなかたではない。全ての人々と共におられ、限りない救いの御業を私たちのために今なし ておられ、全ての人々の中で恵みのご支配を(天の祝福を)与えて下さるのです。だから主が「天 に昇られ」たことは、私たちから遠くなられたことではない。その逆なのです。いま主は「昇天 の主」として、私たちにいとも近くいましたもうのです。  そのことはマタイ福音書の最後の28章20節でも明らかです。主は弟子たちを伝道のわざへと お遣わしになり「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と明 確に語られました。自分はもう天に帰るのだから、これから先はあなたがたと一緒にいられない と言われたのではないのです。そうではなく「これから後は、いつもあなたがたと共にいる」と 宣言して下さったのです。私たちはこのマタイ伝の最後を読む時に「ああ、主イエスは弟子たち といつも一緒におられたのだな」とは読まないのです。「この私たちといつも一緒にいて下さる。 この私たちとどんな時にも離れることはないのだ!」と読むのです。  まさに、ここに告げられている永遠の祝福が、慰めと喜びが「昇天の主」によって、私たち一人 びとりのものとされているのです。