説    教    イザヤ書43章1節   ヨハネ福音書10章1〜6節

「主の御声を聴く」

2015・12・13(説教15501620)  ビクターという音響設備の会社がありました。昔の蓄音機のラッパに一心に耳を傾けている犬のシン ボルは有名です。その下に英語で「ヒズ・マスターズ・ヴォイス」“His masters voice”(彼の主人の声) と記されていました。この犬は蓄音機から流れてくる亡き主人の懐かしい声に耳を傾けているのです。 その声だけがこの犬の喜びであり、慰めであり、生命だからです。この犬はいつもその声を待ち続けて いるのです。私たちは、まことの主(イエス・キリスト)の御声を聴き分ける耳をいつも持っているでし ょうか。主イエス・キリストを通して世界に告げられている福音の喜びの調べをいつも正しく聴き分け ているでしょうか。耳あれども聴かず、目あれども見ず、心あれども悟らぬ私たちになってはいないで しょうか。  今朝の御言葉、ヨハネ福音書10章1節以下には、羊の群れと羊飼いの朝の姿が描かれています。砂 漠地帯であるイスラエルでは、夜になると羊たちはみな「囲い」の中に導かれ守られて眠ります。この 「囲い」とは群れを外敵から守るため、石垣や木などで造られた丈夫なもので「門」があり、その「門」 を羊飼いが開け閉めします。朝と夕の2度その「門」は開かれ、羊飼いは羊の群れを牧場また囲いへと 導いてゆくのです。ですから今朝の3節にあるように「門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聴く」 とあることは大切です。この御言葉においてそれぞれが何に譬えられているか、最も適切な解釈は宗教 改革者カルヴァンによってなされました。「囲い」は教会を、「門番」は教会の長老会を、「羊の群れ」は 私たちを、そして「羊飼い」は主イエス・キリストをさしているのです。ですから「羊は彼の声を聴く」 という関係は、なによりも神の御言葉である主イエス・キリストと(福音)と私たちの関係を示してい るのです。  つまりここには、御言葉を宣べ伝える者と、御言葉に聴き従う私たちとの、生き生きとした信仰の関 係が示されています。御言葉は御子なる主イエス・キリストから、キリストの身体なる教会を通して世 に宣べ伝えられます。御言葉を宣べ伝える者もそれを聴く者も、ともに御言葉にあずかり養われてゆき ます。そのとき教会に求められていることは「囲い」の役割を忠実に果たすことです。教会の務めは主 から委ねられた「羊の群れ」を御言葉に背かせるあらゆる「罪」(外敵)から護り、疲れた者、傷ついた 者を癒し、御言葉の生命のもとに立ち帰らせ、御国の完成に至るまで変らぬ唯一の牧者(主イエス・キ リスト)のもとに導くことです。教会の唯一のかしらは主イエス・キリストであり、教会を養い成長さ せる唯一の糧は神の御言葉(福音)です。その福音の言葉を、大牧者なる主から委ねられている群れが 「教会」なのです。  また、長老会の務めは、教会の「囲い」と「門」を管理する僕として、牧者であるまことの主の御声 を聴きわけ、その御声のままに門を開きまた閉ざすことです。長老会は自分の判断や考えによってでは なく、ただ主の御声を基準にして「門」を開け閉めするものです。この「門」から羊の群れは安全に出 入りし、また新しい羊たちを迎え、彼らが外敵によって損なわれたり、奪われたりしないように、「門」 は御心のままに閉ざされるのです。このように長老会の務めは、真の牧者なる主の御声に忠実であるこ とによって、委ねられた群れを正しく養うために、教会に立てられた牧師の働きを助け、牧師と共に教 会の唯一の主なるイエス・キリストに仕えることです。  そこで、群れと羊飼いとの関係はただそれだけではありません。さらに「そして彼は自分の羊の名を よんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知ってい るので、彼について行くのである」とあることに心を向けたいのです。この羊の群れは「ほかの人には、 ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」と記されています。まさに「彼の主人 の声」に聴き従うことにおいてのみ、教会はキリストの主権を世に現す群れとなるのです。これは実際 にイスラエルの羊飼いの姿です。主イエスはそれをよくご存知でした。厳しい砂漠地帯であるイスラエ ルで、羊飼いたちがどんなに羊の群れを大切にし、また羊がどんなに羊飼いを信頼しているか、その姿 には感動すら覚えます。羊飼いは「囲い」の「門」から群れを外に連れ出すとき、「門」の外に立って羊 の名を呼ぶのです。すると呼ばれた羊は順に「門」の外に出て来ます。これは夕方になって、再び群れ が「囲い」の中に戻ってくる時にも同じように繰り返されます。一頭ずつ名を呼んで確認しますから、 帰ってこない羊がいればすぐにわかるのです。するとあの「百匹の羊の譬え」そのままに、羊飼いは野 を越え谷を越えてまで、そのいなくなった一匹を生命がけで探し求めるのです。  イギリスのウィリアム・テンプルという神学者がすぐれたヨハネ伝の注解書を書きました。その中で こういうことを語っています。ある人が実際にイスラエルの羊飼いを訪ねて、本当に羊の名を一頭ずつ 呼ぶのか確認したところ、本当にそのとおりであったと言うのです。ある羊飼いなどは目隠しをして、 ただ羊に触るだけでその名をすべて言い当てたと言うのです。テンプルはこのことだけでも、彼ら羊飼 いがどんなに羊の群れを愛しているかがわかると語っています。“名を呼ぶ”ということは、かけがえの ない「あなた」としてその人を召し出すことです。「あなたの代わりはいない」と宣言することです。あ なたはかけがえのない唯一の大切な存在だと、主なる神みずから宣言して下さるのです。それが、主が 私たち一人びとりの名を呼びたもうということです。  今日の社会は、それとちょうど逆の行きかた、逆の価値観において成り立ってはいないでしょうか。 いわゆる高度情報化社会、高度管理社会となった現代において、むしろ私たち人間はいつしか匿名の存 在(名無しの存在)になっています。先日私のところにもマイナンバー(でしたか?)の通知が来ました。 やはり抵抗感がありますね。要するに全国民に背番号を付けて、番号で管理しようという発想です。名 無しの存在になるとは、かけがえのない価値が認められず、人間が手段(道具)になってしまうという ことです。匿名化した社会は人間の価値を拒むのです。偏差値社会、能力社会、実績社会、その恐ろし い弊害を知りながら、私たちはどこかで「それが世の中の仕組みというものだ」と割り切り、肯定して しまっているのではないでしょうか。主なる神でさえ、無名のかたとして私たちに御自身を現したまい ませんでした。神がモーセを預言者として召したもうたとき、モーセはそこで主なる神の御名を尋ねま した。そのとき神はモーセに「われは在りて在る者なり」とお答えになりました。それが“ヤーウェ” (エホバ)という神の御名の語源です。聖なる神ご自身が私たちの言葉で「名」をもって呼ばれること を欲したもうたのです。これは神ご自身が徹底的に私たちのもとに身を低くして来て下さった恵みです。 だから「主の祈り」でも私たちはまず「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈るのです。  なによりも、神は御子イエス・キリストという“唯一の救いの御名”をもって私たちの世界に決定的 な「救い」を現して下さいました。だからこそ使徒たちは罪と絶望のただ中にいる人々に対し「主イエ スを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)と語りえたの です。教会はキリストの御名によって全世界に唯一永遠の「救い」を宣べ伝えるのです。「この人による 以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にして天下の誰にも与えられていないからで ある」と宣べ伝える群れが、私たちの教会なのです。私たちの信仰が自分勝手な歪なものに変質すると き、神の御名を呼びまつることもなくなるのです。私たちの信仰が御言葉から離れるとき、神もまた私 たちの中で、いつのまにか無名の(匿名の)神に変化してしまうのです。主なる神、主イエス・キリス ト、聖霊なる神ではなく、永遠者とか、絶対者とか、愛とか、完全者とか、抽象的な言葉で神が呼ばれ るようになるのです。そのとき、信仰は生き生きとした救いの喜びを物語るものではなくなります。教 会もまた個人的な、一人よがりの、独善的な宗教団体に陥ってしまうのです。  神は生ける永遠の御人格であり、教会を通して生命の御言葉を全ての人に語りかけて下さいます。ま た私たちの祈りにはっきりと答えて下さるかたです。それゆえ神は私たちを抽象的な十把一絡げに扱い たまいません。主なる神は徹底的に「かけがえのない汝」として私たちに御声をかけて下さいます。真 のキリスト教がいかなる専制主義、絶対主義とも相容れないのはそのためです。今日の日本社会におい て本当に人々が求め必要としているものはそのことです。まことの神を信じ、キリストを告白すること による、人間の人格の確立。個人の「かけがえのなさ」の確立が求められているのです。そこにこそ、 全ての人間にとって本当の「癒し」が、つまり「救い」が起こるのです。  エルサレムの「美しの門」のかたわらで、毎日物乞いをしていた「名もなき人」にペテロとヨハネが 出会いました。この人にペテロは言いました。「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあ げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。すると歩くことができなかったこの人の 「足とくるぶし」とが主イエスの御名によって強くされ「躍り上がって歩き」主を讃美する者へと変え られたのです。神の御言葉に叛き、匿名の存在になっていた私たちが、主イエス・キリストという唯一 の「救いの御名」(キリストの十字架による罪の贖いの出来事)によって躍り上がって立ち、神と共に、 神の道を歩む者に変えられたのです。  それこそ私たち一人びとりに「主イエスの御名」によって起こった“救いの出来事”なのです。かつ て友愛会でカール・バルトの「教義学要綱」という本を学びました。バルトがナチズムの台頭という厳 しい時代の中で書いた使徒信条の講解です。正しい信仰告白に立つ教会、健全な教理的骨格を持ち、み ずから救いの喜びを証する教会のみが、この世のあらゆる現実の中にあって歴史の真の「主」を指し示 し、その主の御声を世に宣べ伝えることができるのです。そのことをバルトは「教義学要綱」の中で見 事に語っています。私たち一人びとりを「名」をもって呼びたもう神が語りたもうとき、御子イエス・ キリストの救いの出来事が私たちのただ中に生きて現れるのです。「神語りたもう」(Gott Redet)こそ “バルトの神学の中心”と言われますが、それは改革派教会の伝統なのです。主イエス・キリストとい う出来事こそ「神の語り」であり、キリストの十字架による私たちの「罪の贖い」が「神の語り」の場 である教会を通して世に現わされるのです。  それならば、今朝の御言葉の4節に、私たちを御声をもって新たな人生の場へと呼び出して下さった 唯一の羊飼い(主イエス・キリスト)は「羊の先頭に立って行く」とあることに心を止めねばなりませ ん。「先頭に立って行く」とは「罪の贖い主」として十字架の道を歩まれるという意味です。私たちは私 たちのために降誕せられ「罪と死」を担って十字架への道を歩んで下さった主イエス・キリストを信じ 告白し、その御声に聴き従う群れとして、いよいよ祈りを深め、志を厚くして参りたいと思います。十 字架の主のみが私たちの先頭に立ちたもうて、私たちの「罪と死」に永遠に勝利して下さったのです。 死の支配を打ち破って御自分の復活の生命に私たちを結び合わせて下さったのです。だからこの「主」 の御声に聴き従う私たちに本当の平安と喜びがあるのです。そこに本当の幸いがあるのです。  罪と死に打ち勝つ真の生命は、主の御言葉にのみあります。私たちの救いは十字架にのみあります。 御言葉を聴く者は十字架のキリストの救いの出来事に覆われて生きるのです。特に今日のこの待降節第 三主日にあたりまして、今朝の御言葉の4節をもう一度心にとめましょう。「羊はその声を知っている ので、彼についてゆく」。それこそ礼拝者の生活であり、礼拝は天の栄光をあらわす、私たちの最大の務 めです。私たちは礼拝者としていつも「神の国と神の義」を求め、いつも「わが主の御声」に聴き従う 日々を歩んで参りたいと思います。そしてまことのクリスマスを迎える者になりたいと思います。