説    教   エゼキエル書18章30〜32節  ヨハネ福音書8章21〜26節

「キリストの伝道」

2015・12・06(説教15491619)  つい最近のこと、とても気になる出来事がありました。それは偶然ですが、このようなことを複数の 会合で耳にしたのです。それは「今日における伝道の課題」ということについて、今日における伝道の 課題を、聖書が語る人間の「罪」の問題にはなるべく触れず、明るい癒しの面だけを考えてやってゆこ うという主張です。こういう主張は最近目立ってふえてきました。そこには恐らく「あまり罪の問題に ばかり触れると説教のメッセージが暗くなる。それよりはむしろ人道的な温かみのある、人に希望を与 えるメッセージを教会は語るべきである」という反省があるのでしょう。それも一理あることなのでし ょうか?。人間の罪の問題は避けて通るべきことなのでしょうか?。むしろそれは避けがたい厳粛な問 題なのではないでしょうか。  逆に申しますなら、罪の問題を避けていったいどこに、人間の本当の救いと希望と喜びがあるのか、 ということです。何よりも聖書は私たちの「罪」の問題を避けてはいません。それを隠したりいい加減 に扱ってはいないのです。むしろそれを御言葉の光のもとに現し出します。罪の正体を白日のもとに晒 します。そのようにしてその唯一かつ完全な「救い」が、ただ神の御子イエス・キリストにのみあるこ とを告げているのが聖書の福音です。それならば教会が「罪」について語らないということは、聖書の 福音を語らないこと、つまり「救い」について語らないことになるのではないでしょうか。福音を宣べ 伝える群れにならないことではないでしょうか。罪の贖い主なるイエス・キリストの福音を語らずして、 たとえどんなに人道的な温かみのあるメッセージを語ろうとも、それは一時的な気休めの言葉、空しく 過ぎ行く人間の思想にすぎないのです。  そこで、私たちが今朝のヨハネ伝8章21節以下の御言葉において聴くことは、まさに「主イエスの 伝道」の目的がどこにあったのか、という問題です。主イエスの御言葉はどのような救いを私たちに約 束しているのでしょうか?。主イエスはパリサイ人らに対して、ご自分が父なる神のみもとから遣わさ れたキリストであることを明らかになさいました。それが同じ8章14節の御言葉です。そして続いて 今朝の21節にこのように言われました。「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであ ろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない」。 これは、まことに厳しい言葉ではないでしょうか。パリサイ人らは律法の専門家、プロの宗教家集団で す。神について、救いについて、誰よりも良く知っているべき人々です。その彼らに対して「あなたが たは神を知らない」と主イエスは言われるのです。「もし神を知っているのなら、わたしが誰であるかを 知っているはずだ。しかし、あなたがたは、神を知らないので、わたしについても知らない」と仰せに なるのです。  ですからこれは、パリサイ人らにとって聞き捨てならぬ侮辱でした。しかも主イエスは「あなたがた は……自分の罪のうちに死ぬであろう」と言われたのです。彼らが持っている罪の問題を、いい加減な ものとはなさらないのです。むしろ主はその問題に真正面から立ち向かわれる。あなたがたの救いなど どうでも良いとお考えにならないのです。「あなたがたは……自分の罪のうちに死ぬであろう」。それな らあなたがたは、そのような者になって良いだろうかと主は問われるのです。まさにパリサイ人たちの 救いを問題になさるのです。  しかしパリサイ人たちには、主イエスがお語りになることがわかりませんでした。それで22節に、 このイエスなる人物は「あるいは自殺でもしようとするつもりか」と噂し合ったと記されています。こ れこそパリサイ人らの惨めな姿でした。それは同時に私たちの姿でもあります。主が私たちを真の救い へと招いておられる時、それを素直に受け取らない私たちなのです。むしろ自分に都合の良いことだけ を喜び、理解できないことは退け、その結果とんでもなく奇妙な福音解釈を捏造してしまうのです。「福 音は希望を語ることだから、説教では罪を語るべきではない」という理屈もそこから来ているのではな いでしょうか。理解できないこと、嫌われることは退けようという、人間的な取捨選択からは、人を救 う福音のメッセージは生れません。人間は誰でも少しでも明るく都合の良い話に飛びつくものです。自 分の罪を白日のもとに晒したくはないものです。このときのパリサイ人らがまさにそうでした。御言葉 に逆らい、主イエスの御招きを退けてまでも、自分たちを正当化しようとしたのです。自分たちは「神 を知っている」と言いながら、実は自分を御言葉より上位に置いているのです。神に審かれるべき者で あるのに神を審こうとするのです。そこにパリサイ人らの、否、私たち一人びとりの罪があるのではな いでしょうか。  そのような私たちに対して、主イエスは今朝の23節以下にこのように言われます。「イエスは彼らに 言われた、『あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者で あるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろう と、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死 ぬことになるからである』」。私たちは特にこの24節に、重大な福音の音信が告げられていることを知 るべきであります。それは「もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のう ちに死ぬことになるからである」と言われたことです。これはこういうことです。イエスが神から遣わ されたキリストであると信ずる者は、決して罪のうちに死ぬことはないという音信です。「信じなければ ……死ぬことになる」とは、そういうことです。イエス・キリストを信じることこそ、永遠の生命を受 けることなのです。その生命は罪と死に打ち勝つのです。キリストが私たちに下さる復活の生命こそ、 死を滅ぼす唯一の生命であります。  それならば、ここには唯一の主なる神が立っておられるのです。聖書がさし示すあの唯一の救い主が、 私たちを招いておいでになるのです。パリサイ人らの罪に真正面から立ち向かわれ、それを贖おうとし ておられる主イエスは、今ここで同じ生命の恵みをもって、私たち一人びとりに相対しておられるので す。今朝の御言葉を通して、いつしか私たちはそこに、パリサイ人と主イエスとの対話を超えて、主イ エスにいま呼びかけられている自分を見いだすのです。まさに今朝ここに私たちは、この御言葉のパリ サイ人らと共に、主イエスの御招きのもとに立っています。それを受け入れる者として歩むのか、それ とも退ける者となるのか、重大な二者択一を迫られています。主イエスを信ずる信仰を求められている のです。「主イエスの伝道」を受け入れる者になることです。主イエス・キリストをわが神・救い主と告 白し、主イエスにお従いする信仰です。このことを使徒パウロは「キリストに連なる」あるいは「キリ ストにある」という言いかたであらわしました。たとえば第二コリント書5章17節「だれでもキリス トにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくな ったのである」。この「だれでも」とは「一人の例外もなく」という意味です。誰一人として例外なく、 もし「キリストにあるならば」その人は「新しく造られた者である」とパウロは言うのです。  全く同じことを、今朝の24節は告げているのです。もし私たちが信仰によって、また教会によって 「キリストにあるならば」そのとき私たちは「罪のうちに死ぬ」者とは決してなることはない。これは まことに驚くべき音信であり、全く私たちの理解を超えた大いなる救いです。それは譬えて言うならこ ういうことです。ある人が全生涯をかけて築いた莫大な財産を、通りすがりの人に、ただその人が彼を 信じたというだけの理由で惜しげもなく与えるようなものです。否、それに遥かにまさることです。こ の世のどんな財産も、人を罪から救うことはできません。しかし主イエス・キリストがその十字架によ って打ち立てて下さった恵みの富は、罪と死の支配から私たちを永遠に解放し、御国の民とするもので す。だからパウロは、それをエペソ書2章7節において「絶大な富」と呼んでいます。エペソ書の2章 1節以下を拝読しましょう。  「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの 中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊 に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って 日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であっ た。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によっ て死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――――あなたがたの救われたのは、恵みによるの である――――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったので ある。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、き たるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのであ る。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである」。  ここにも明確に告げられています。「あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛 をもって、罪過によって死んでいた私たちを、キリストと共に生かし」て下さったと!。私たちは例外 なく「罪過によって、死んでいた」者なのです。このことを神学者カール・バルトは「人生全体にかか ったマイナス符号」と呼びました。たとえ私たちの人生は、どんなに人の目に豊かなものに見えても、 神に対する罪が贖われていないかぎり、最初にマイナス符号のついた計算式のようなものだ。数が大き くなればなるほど、実はマイナスが大きくなってゆくほかはない。それが人間の罪の正体であるとバル トは語るのです。更に譬えを申しましょう。こういう話がありました。待ちに待った楽しい旅行に、学 生時代の友人たちと共に出かけたある主婦のもとに、彼女の家が火事で焼けてしまったという連絡が届 いた。それを聞いたとたん、彼女は泣きじゃくって、もう友人たちが何を語ってもどのように慰めても 上の空になったのです。これは私たちをその身に置き換えればよくわかることです。譬えて申すなら、 それこそ私たち全ての人間の本当の姿なのではないでしょうか。私たちは帰るべき永遠の故郷を喪失し ていることに気がつかないで、ただ漫然とこの世の旅を謳歌しているだけの存在だとしたら、それこそ 惨めな「逆さまな」ことではないでしょうか。もしその事実に気がつけば、もう旅行どころではなくな るのです。帰るべき家を失った旅はもはや放浪にすぎません。私たちは例外なく、罪によって帰るべき 家を失った人生の放浪者なのです。ただそれに気がつかずにいるだけなのです。気がついたら途方に暮 れ、絶望するだけなのです。  それならば、まさにそのような私たちに、十字架の主イエス・キリストははっきりと語りかけて下さ います。私たちの祝福の根拠を、人生の永遠の基盤を、ご自身の御言葉をもって確かに与えて下さいま す。同じヨハネ伝14章1節以下の御言葉を思い起こしましょう。「あなたがたは、心を騒がせないがよ い。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかった ならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そ して、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わた しのおる所にあなたがたもおらせるためである」。主はここに明確に告げておられます。「わたしのおる 所にあなたがたもおらせるためである」と!。そして「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがた にわかっている」と。私たちは主イエス・キリストの御身体なる教会に連なって「キリストにあって」 生きるとき、実にこのような大いなる祝福を受ける者へと造りかえられてゆくのです。その救いこそ「わ たしたちから出たものではなく、神の賜物」なのです。ここに集う私たち一人びとりが、そして、まだ ここに連なっていない多くの人々が、その「神の賜物」である救いへと、主イエスによって招かれてい るのです。それが「キリストの伝道」なのです。  旧約エゼキエル書18章32節に「わたしは何人の死をも喜ばない。それゆえ、あなたがたは翻って生 きよ」と記されていました。これこそ御民イスラエル(主なる神の恵みのご支配)である私たちに語られ た主なる神の御心です。主もまた「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父の みこころなのである」(ルカ12:32)と言われました。御子イエス・キリストが十字架において私たちの 罪を贖い、墓に降られ、よみがえりたもうた恵みのゆえに、私たちはもはや恐れることなく、神の子た る身分を与えられた者として、心を高く上げて、ただ主にのみ、讃美と栄光を帰したてまつり、主の御 言葉に養われつつ歩んで参ります。そこに私たちの最も大きな幸いがあり、喜びがあり、慰めと平和が あるのです。