説    教     詩篇54篇1〜7節   ヨハネ福音書17章11節

「御名による救い」

2015・11・29(説教15471617)  私たちは祈るとき、必ず祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と唱えます。 そしてその後に「アーメン」と告白します。私たちはこのことを日頃どれほど大切に受け止めているで しょうか?。私たちがキリストの御名によって祈ること、祈ることを許されていることは、どれほど大 きな恵みでありましょうか。  「御名によって」(御名によりて)という言葉は、本来のギリシヤ語で申しますなら“エン・ホノマテ ィ(クリストウ)”という字です。この“エン”とは英語の“イン”にあたる言葉(前置詞)です。つまり「キ リストの御名によりて」とは「キリストの御名に固着して」という意味です。私たちは「キリストの御 名に固着して」こそ祈る者とされているのです。  そこで、このことは、ただ祈りの場合にだけ言えることなのでしょうか。そうではないと思いますす。 祈りも含めた私たちの信仰生活の全体、私たちの人生の全体が、いつも「キリストの御名に固着して」 こそ支えられ、生かされている。そのような実感と感謝に私たちは生きる者とされているのです。言い 換えるなら、私たちが祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によりて」と唱えるのは「ただ習慣だ からそうしている」ということではないのです。もしそうなら、反省してみる必要があるのです。  そこで、今朝与えられたヨハネ伝17章11節の御言葉です。ここに主イエスは私たちのためにこう祈 っておられるのです。「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたし はみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたし たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」。この11節の主イエスの祈りは、大きく 3つの部分に分けられます。第一に、主イエスは十字架にかかられて死なれ、復活されて天の父なる神 のみもとにお帰りになるということ。第二に、主イエスが世を去られた後にこそ、主の弟子たちはキリ ストの御名によって全てのことから守られていること。第三に、主イエスと父なる神が一つでありたも うように、弟子たちもまた一つとされるということ。この3つであります。  そこで、まず第一のことは何を意味するのでしょうか?。主イエスが十字架におかかりになって死な れ、天の父なる神のみもとにお帰りになるとは、如何なることなのでしょうか。それは主イエスの「栄 光」と深く関わっています。何よりも主イエスは、私たち全ての者のために十字架において死なれ、私 たちの罪を贖われることを「わたしの栄光」とお呼びになりました。ふつう、私たちが「栄光」という 言葉で想像することは、自分の栄誉や利益になることです。しかし主イエスはそうではない。主イエス はむしろ、罪人なる私たちの身代わりとしてご自分の全てをお献げになることを「わたしの栄光」とお 呼びになるのです。栄誉ではなく限りない恥辱を、利益ではなく墓に葬られることを、賛辞を受けるこ とではなく罵られて十字架に死なれることを「わたしの栄光」と言われるのです。主イエスの「栄光」 とは主イエスの十字架の死と葬りをさすのです。  それは、どういうことでしょうか。それは、私たちが唯一の救いの御名として告白するイエス・キリ ストの御名は、ただ高きにいます全能の神の御名を意味するのみならず、何よりも私たち罪人の救いの ため限りなくご自身を低くされ、世界の罪のどん底にお降りになったイエス・キリストの御名である、 ということです。つまりこの御名は、私たちを高みから見下ろしている神的存在の名なのではない。私 たちのただ中に降りて来て、まさに私たちの罪と死の現実の中で、私たちと徹底的に連帯して下さった 救い主、十字架の主イエス・キリストの御名なのです。  私が神学生時代にお世話になった東京・池袋西教会の福井二郎先生は、かつて中国東北の熱河という 街で開拓伝道された宣教師でした。この福井先生からこういう話を聞いたことがあります。それは福井 先生から洗礼を受けた中国人の告白です。「自分は譬えて言うなら、深い空井戸の底に落ちたまま、誰も 助けに来てくれない憐れな人と同じであった。ある日、井戸の上に人の声がした。それは釈迦が上から 私を覗いて呟く声であった。「お前はなんと惨めな場所に落ちているのだ。それはお前の因縁であるから どうしてやることも出来ぬ。諦めて往生するがよい」。またしばらくすると、今度は孔子がやって来て同 じように井戸を覗いて私に言った。「お前はなんと惨めな場所に落ちているのだ。それはお前の普段の心 掛けが悪かったからに違いない。残念だがどうすることもできぬ」。私は絶望して死を覚悟した。最後に やって来たのはイエス・キリストであった。ところが主イエス・キリストは、井戸の底で絶望している 私の所に、黙って降りて来て下さり、私を抱きかかえ、井戸の底から押し上げて救って下さり、そして ご自分は私の身代わりとして死んで下さった。この3人の中で誰が真の救い主であろうか」。答えは明 白でありましょう。「イエス・キリスト、この御名のほかに私たちの救いはない。天上天下、この唯一の 御名を除いては、いかなる名にも救いの権威はないのである」。  第二に、主イエスが世を去られた後にこそ、主の弟子たちは主の御名によりて全てのことから守られ ているのです。まことに主イエスみずから「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って 下さい」と祈られたのです。では私たちは「主の御名によって守られている」という実感を持っている でしょうか。私がいつも愛用しているギリシヤ語の辞書に、この「御名」(オノマ)という言葉の訳語と して思いがけない言葉が記されていました。それは“オーソリティ”(権威)という訳です。これは名訳 だと思いました。「キリストの御名」とは何よりも「キリストの権威」なのです。ですから私たちが「主 イエス・キリストの御名によりて」祈るのは「主イエス・キリストの権威によりて」祈ることです。つ まり「主イエス・キリストの権威に固着して」祈るのです。  そこで、この場合の「固着して」というのは、私たちが固着するそのかた(キリスト)にのみいっさい の救いの「権威」があるのですから、その救いは確かな永遠の救いなのです。私たちは努力精進しなけ ればキリストの権威に固着できないのではないのです。何か特別な条件や資格を求められているのでも ないのです。私たちはそのあるがままに、ただ信仰によってのみ、教会に連なることによってのみ、キ リストの救いの「権威」に固着する僕とされているのです。それならばこの「権威」とは、すでに完成 し成就した救いの出来事です。教会はやがて完成する神の御国の先取りです。礼拝は御国における聖徒 らの永遠の喜びの礼拝の歴史における先取りです。キリストの復活の勝利の生命に結ばれて生きること です。教会は、特に私たち改革長老教会は、このキリストの権威を現す群れを建てることを、教会形成 の不変の目標としているのです。  考えてみて下さい。キリストの救いの「権威」なきところに、私たちの救いの出来事はありえません。 教会がキリストの権威を現すのでなければ、教会はただ人間の集まりにすぎないのです。キリストの救 いの権威を正しく現してこそ、私たちの教会はキリストの真の御身体となります。牧師はそのために神 から遣わされた御言葉の役者です。また長老会はそのために長老会議を通して主の権威に服従する僕た ちです。自分を消して、ただキリストの栄光のみを現すのが長老会の務めです。そして会衆一同も礼拝 者として御言葉を正しく聴き、健やかに成長してゆくことにおいて、共にキリストの権威に仕える群れ となるのです。イエス・キリストにありて真の神の家に成長してゆくのです。  主イエス・キリストは救いの限りない「権威」によって、私たちの全ての罪を赦し、義となして、御 国の民として下さいました。つまりキリストの「権威」とは、生命なき者に真の生命を与えて下さる救 いの権威であり、死者を甦らせる権威です。神なき者を神ともにいます存在となす権威です。だからこ の権威は世のいかなる権威とも比較できない絶対の力です。だからこそ主イエスは「人の子は地上で罪 を赦す権威を持っている」と弟子たちに言われました。ただ主イエスのみが、この地上すなわち歴史と 現実世界において唯一私たちの罪を赦し、真の生命に甦らせる「権威」を持っておられるのです。世界 万物を新たにされる「権威」を持っておられるのです。  「権威」という言葉はギリシヤ語で“エクスウシア”と申します。これは「本質から出た力」という 意味です。そしてこれは御名(オノマ)と深く関わっています。つまりキリストの「御名の権威」とは、 キリストの十字架の本質から出た救いの力のことです。そのキリストは「世の創めより屠られたまいし 神の羔」です。それならばキリストは「世の創めより」変わることなく私たちの“救いの権威”であり たもうかたです。「世の創め」からとは「歴史を超えて」ということです。歴史の救いは歴史の中にはな く、人間の救いは人間の中にはなく、世界の救いは世界の中にはないのです。救いはただ歴史の創造主 なる神にのみあるのです。しかもその歴史の主なる神は、歴史を超えつつしかも歴史の主であられるの ですから、歴史を救いたもう唯一の「権威」なのです。  そこで最後に第3の事柄を顧みて参りましょう。その前に私たちはこの17章の御言葉が主イエスの 「決別の祈り」であることを改めて思い起したいのです。これは大きな恵みです。なぜなら、何よりも 主イエス・キリストご自身が、その唯一の救いの御名(救いの権威)によって、私たちのために祈って 下さったからです。主はこの17章の祈りによって、私たちのために十字架を負われたのです。それな らば、この決別の祈りの全体に、私たちの測り知れない罪の重みがかかっています。それをことごとく 主は担い取って下さった。この祈りにおいて、全ての罪と死に勝利して下さった。だからこそ私たちは どのような時にも「主イエス・キリストの御名によりて」祈る者とされているのです。キリストの救い の権威に固着する僕とされているのです。いま主に贖われているのです。キリストの民とされているの です。キリストの御身体の活きた枝とされているのです。  主は11節の最後にこう祈られました「それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるた めであります」。私たちは人間どうしの一致や結束なくして社会生活を営めません。しかし同時に私たち は、それらがどんなに弱く脆いものであるかも知っています。あのシリア情勢を見てもそうです。ISに 対抗する勢力さえ一致団結できないでいます。私たちもまた日常生活の中で、強く確かに見えた人間ど うしの結びつきが、実はどんなに弱く脆いものにすぎないかを、いろいろな場面で経験させられるので はないでしょうか。  しかし、まさにそのような私たちだからこそ、主イエスは満ち溢れる救いの権威をもって祈って下さ ったのです。まさに主イエスの祈りにおいてこそ、私たちのあらゆる弱さと破れが、すでに十字架の主 の御手に担い取られているのです。それはただの一致(仲良しごっこ)ではありません。「わたしたちが 一つであるように」と主は祈られたのです。父なる神と御子なるイエスが、永遠の昔から完全な愛の交 わりの内にあられたように、その完全な愛の交わりの内に、キリストを信ずる全ての者が入れられてい る、招かれている、在らしめられていると、主ははっきりと宣言して下さるのです。  それは、具体的に何をさしているのでしょうか。それこそ、まさにこの教会(聖徒の交わり)です。礼 拝と聖餐において現される聖徒の交わりです。ここに永遠の三位一体なる神の聖なる交わりが、私たち 一人びとりに現されているのです。そこに私たちが招き入れられているのです。父なる神と御子キリス トとの完全な一致が、この礼拝においてこそ生きた姿を取って私たちに現されているのです。御言葉と 御霊によるキリストとの出会い、キリストの御名による完き救い、キリストの権威の内にある喜びと平 安、それこそがこの一致の具体的な徴なのです。  ニカイア信条において、そのことは最も明確に現されています。「わたしたちは、唯一の、聖なる、公 同の、使徒的教会を信じます」。これは今朝の御言葉に基礎があります。父なる神、御子なるイエス・キ リスト、そして聖霊なる神、この三位一体なる神を主イエス・キリストの御名によりて、つまり、キリ ストの絶大な救いの権威に固着して救われた者として告白すること。それは具体的には、まさにその三 位一体なる神の永遠の交わりの、歴史における現れとしての「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を 信じ」ることなのです。既にそこに私たちに「聖徒の交わり」が与えられているのです。そこに無条件 にただキリストを信ずる信仰によって招かれている。そこに、私たちの変らぬ喜びがあり、また平和が あり、希望と感謝と幸いがあるのです。