説     教    創世記2章7節    ガラテヤ書5章16〜24節

「御霊による生活」

2015・11・22(説教15461616)  主なる神は、今朝のガラテヤ書5章16節の御言葉により、使徒パウロを通して、愛するガラテヤ教会 の人々、また私たち一人びとりに次のように命じています。「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。 そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。主は私たち一人びとりが「御霊によって」(聖霊によっ て)歩むようにと求めておられるのです。御霊(聖霊)による新しい、自由で健やかなキリスト者の生活で す。  私たちキリスト者は、かつての、神を知らず、キリストを主とせず、おのれのみを中心としていた古き 生きかたを捨てて、キリストに従う新しい生活をする決心をした者たちです。しかしながら、現実の私た ちの生活を顧みますとき、自分の生活が本当に「新しいものになった」と心から言いきれる人は、そう数 多くはいないのではないでしょうか。否、ほとんどいないかもしれません。  むしろ、洗礼を受ける前と今と較べて、少しも変わっていないように見える自分の姿を顧み、果たして これで良いのだろうかと、戸惑い悩む私たちであることが多いのではないでしょうか。そこで私たちは、 こうした戸惑いを、理屈をつけて誤魔化したり、あるいは冗談めかしてやり過ごそうとするかもしれませ ん。しかしこの問題は、私たちが真剣に吟味しなくてはならない大切な問題です。言い換えるなら、私た ちが今朝の御言葉の前に、いつも健やかに立つ者とされているか否かという問題なのです。  いま、ガラテヤ教会の人々は「違った福音に落ちてゆこうとしている」(1章6節)ことで使徒パウロか ら厳しく叱責されています。彼らは、キリストによる永遠の救いの喜びへと招き入れられたにもかかわら ず、その救いの恵みを軽んじて、主なるキリストから離れ、古き律法による「人間の正しさ」にしがみつ く生活に、再び舞い戻ろうとしていたからです。この、ガラテヤの人々の「違った福音に落ちてゆこうと している」姿は、今日の私たちにも通じることはないでしょうか。なぜならガラテヤの人々もまた、私た ちと同じような信仰生活の“戸惑い”に戸惑い悩んでいたからです。否、ある意味でガラテヤの人々のほ うが今日の私たちよりも遥かに真剣に、信仰によって「新たにされること」を求めていたのではないでし ょうか。  ひこで、こうも言えるでしょう。もしガラテヤの人々が、自分の信仰生活の「あるべき姿」と「現実」 の違いに戸惑い悩む人々でなかったのなら、律法主義者たち(福音的律法主義者たち)はガラテヤ教会に 入りこむことはできなかったはずなのです。何よりも使徒パウロはこの律法主義者たちのことを2章4節 に「忍び込んできたにせ兄弟たち」と申していますが、この「忍び込んできた」という言葉は、律法主義 者たちが力づくでガラテヤの人々を従わせたのではなく、むしろ人々のほうから積極的に彼らを受け入れ ていた事実を示しています。つまりガラテヤの人々は「にせ教師」たちの教えの中に信仰生活の行き詰ま りを克服する解決法を見いだし、みずからの意思で積極的に律法主義に傾いていったと思われるのです。  それでは、ガラテヤ教会の人々は、古い“肉による生活”を律法によって克服し、キリストに従う新し い生活を造り出すことができたのでしょうか?。もちろんそうではありませんでした。そのことはガラテ ヤ書5章15節を読めばわかります。そこには「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っている なら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうであろう」とあります。そして更に26節には「互にいどみ合 い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない」とも告げられています。実はこれこそ、律法の中に人 間の救いを求め、挫折してしまったガラテヤ教会の人々の姿を示しています。キリストではなく人間の正 しさや清さの上に救いを立てるような生活は、けっきょくは「互にいどみ合い…ねたみ」合う「虚栄」の 生活をしか生み出さないのです。  ですから、使徒パウロがこの手紙によって「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、 決して肉の欲を満たすことはない」と語っているのは、現状に即した厳しくも適切な牧会の言葉でした。 パウロは言うのです。「愛するガラテヤの兄弟姉妹たちよ、あなたがたは、古き肉の生活を一掃して、神に 喜ばれる者になりたいという一念から律法主義へと舞い戻ったけれども、今こそ、律法がいかに無力なも のであるかがわかったであろう。それゆえあなたがたは、初めに召されたキリストによる救いの永遠の喜 びの内に立ち帰る者になりなさい」そのようにパウロは言葉を尽くして勧めているわけです。  人間というのはまことに強情なもので、どこまでも自己中心な、頑なな存在でありますから、どうして も、律法のほうに魅力を感じてしまうのです。つまり、最初から「何が善であり、何が悪であるか」をは っきり示してもらったほうが良いと考えてしまうのです。そこに「律法主義」が「忍び込む」必然性があ りました。しかしその結果は、いまも見ましたように、全く惨めな“罪の奴隷”となる生活以外の何物で もなかったのです。  そもそも、どうして私たちは、律法に基いて(自分の正しさや清さに基づいて)救われないのでしょうか?。 この大切な事柄について、パウロは今朝の5章17節で少し不思議な表現で説明しています。「なぜなら、 肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのも のは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようにな る」。ここに私たち自身の姿があるのではないでしょうか?。ヤコブ書4章2節は同じことを「あなたが たは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い 戦う」と表現しています。これこそまさに現代の世相そのものではないでしょうか。  ここで「肉」と言われているのは、精神と肉体を対立して見た霊肉二元論の「肉」ではありません。そ うではなく、旧約聖書・創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれ られた」とあります、まさに“神の息”(ルーアハ=聖霊)によって人は無から存在へと呼び出されたので あり、その“神の息”に基づくべき人間の生活全体を聖書は「肉」と呼ぶのです。ですから「肉」は人の 目にはいろいろな可能性を持っているように見えますが、実は神の「命の息」である聖霊(御霊)によら なければ、本当に生きたものにはならないのです。言い換えるなら、聖霊に導かれていない「肉」は「土 のちり」に過ぎないのです。ですから「肉の欲するところ」は何であれ「御霊の欲するところ」に一致す るはずがない。なぜなら「肉」は地上のことだけを思い、自分の利益のみを求め、ついには「互にかみ合 い、食い合う」適者生存・弱肉強食の競争原理の下に人を支配するからです。  しかし「御霊」(聖霊)は全く違うのです。聖霊は私たちを真の救い主キリストへと導きます。私たちの ためにご自分のいっさいを贖いとして献げて下さったかたの、生命をかけた祝福と自由と救いのもとへと、 聖霊のみが私たちを導いて下さいます。私たちはこの聖霊(御霊)に導かれてこそ、はじめて律法から(す なわち、自分の正しさにしがみつく古きおのれから)自由な者とされるのです。「自分でしようと思うこと を、することができない」者ではなく、真の神に仕え、神と人を愛する新しい生活へと導かれてゆくので す。ですから、パウロはここに明確に「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない」と 言い切っています。私たちはキリストの聖霊によってはじめて、律法の掟(律法によって審かれる恐れ) から自由な、神の国の喜びの民とされるからです。そこにこそ、神の嘉したもう真の自由と平安、喜びと 感謝の生活が造られてゆく。御霊によってこそ私たちははじめて「自分でしようと思うことをすることが できる」者となるのです。  それでは、大切なことは、この「御霊に導かれる」生活をするために(「御霊によって歩む」者になるた めに)もっとも大切なことは何かということです。私たちは具体的にどう生きればよいのでしょうか?。今 日は「降誕前第5主日」です。来週からは待降節(アドヴェント)が始まります。主イエスの母とされた処 女マリアが、天使がぶりえる受胎の告知を告げられた時、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉 どおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とお応えしました。私たちもこの祈りを自らのものとする幸 いに招かれています。それは私たちが主イエス・キリストをわが救い主と信じて主の教会に連なり、礼拝 者として歩むことです。教会はキリストの復活の御身体です。ここに連なることによって私たちは主が与 えて下さる新たな永遠の生命に生きる者とされるのです。御霊による新しい生活(御霊に導かれる自由の 生活)とは御言葉を聴いて従う礼拝者の生活です。  もし私たちが主の教会に連なり、御言葉を正しく聴く生活をするならば、それは決して、ただ耳で「聴 く」だけのことに終わらないのです。それこそ、ガラテヤ教会の人々が最初にパウロのもとで経験した、 キリストに結ばれた喜びの生活でした。御言葉を正しく聴くことにおいて聖霊が与えられ、それを信じて、 私たちが信仰をもって御言葉に従う者となるとき、そこにはじめて、神の喜びたもう力あるわざ(証しの 生活)が生まれてゆくのです。創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹 きいれられた。そこで人は生きた者になった」と告げられている創造の出来事が「身体のよみがえり、永 遠の生命」として私たちの内に起こるのです。だからこそ、愛する僕の癒しを願ったあの百卒長は「ただ、 御言葉を下さい」と、主イエスに御言葉のみを求めたのです。  さらに具体的に申しますと、御言葉を聴くということにおいて、私たちのこの死すべき古き肉の身体は、 キリストの復活の勝利の御身体に接木されるのです。キリストに堅く結ばれ、キリストの祝福の生命が(救 いそのものが)私たちの日々の生活の原動力となるのです。私たちは肉の身体において生きていますが、 もはや肉に拠り頼む者ではなく、聖霊によってキリストのものとされた、復活の勝利の身体である教会に 結ばれ、キリストの枝として生きる者とされているのです。私たちのために、全ての罪を担って十字架に かかられ、贖いを成し遂げて下さった十字架の主から、私たちの全生涯を支えてやまぬ真の平安と喜びが 来るのです。その確かな保証として、主は私たちに聖霊を与えて下さったのです。  このことは私たちにとって、限りない慰めであり、希望であり、幸いであります。聖霊によるキリスト の現臨の恵みのもとに生かされ、支えられ、導かれている私たちは、もはや、自分の肉が律法を全うして いなくとも、神の審きを恐れません。なぜなら神は「死人を生かしめ、無から有を呼び出されるかた」(ロ ーマ書4:17)であることを私たちは知っているからです。それゆえにこそ、私たちは「患難をも喜ぶ」 (ローマ書5:3=主のために苦しむことをも希望をもって耐え忍ぶ)者とされているのです。