説     教     詩篇55篇22節   ヨハネ福音書17章6〜8節

「汝の重荷を主に委ねよ」

2015・11・15(説教15451615)  今日与えられた旧約聖書の詩篇55篇22節に「汝の重荷をヱホバにゆだねよさらば汝をささへ給はん」 と告げられていました。原文のヘブライ語を少し意訳して申しますなら「汝の重荷を主にゆだねよ、さら ば主なんじを支えたまわん」という意味になります。どこまでも「主」すなわち「汝の神」が中心であり 主語なのです。  実はこの詩篇55篇はイスラエルの王ダビデが、みずから犯した罪の重みによって人生の窮地に陥り、 絶望と悲嘆の中にあったとき歌われたものです。愛するわが子アブサロムにさえ反旗を翻され、頼みとな るものが何ひとつなくなった、その悲しみと絶望の中でダビデは、ただわが主・わがまことの神のみが、 私の魂の重荷を受け止めて下さる。苦悩に圧倒され滅びるばかりのこの私にまなざしをとめて下さる。そ の神の恵みの御手に、ダビデはみずからの全てを、その魂の重荷もろとも委ねまつるのです。  これは、都合のよい生きかたなのでしょうか。そもそも自分の罪の結果が招いた重荷です。その重荷を 神に委ねるということは、ご都合主義的な勝手な生きかたとも捉えられるかもしれない。小賢しい現代人 の私たちから見れば、自分が播いた種は自分が刈り取るべきだと思うかもしれません。神に叛いて罪に落 ちた人間が、再び神に自分を委ねる、それは身勝手だと思うかもしれません。しかし、そこにしかダビデ の生きうる道はなかった。絶望の中で自分を生かしうる道は、ただ神の憐れみの内にしかなかったのです。 そしてそれは実は、私たちも全く同じなのではないでしょうか。  そもそも私たち人間は、自分の罪の結果を自ら引き受けうるほどに、強く確かな存在なのでしょうか?。 自分で播いた種を自分で刈り取りうるほどに、正しい人間なのでしょうか?。そのように考えるのは、ま だ罪と人間について真剣に考えたことのない人です。ある意味でキリスト教は、人間というものに徹底的 に絶望した宗教です。この世界の中に世界の救いはありえないことを見抜いている宗教です。それは人間 と世界とを、ただ創造主なる神との関わりにおいてのみ見ているからです。譬えて申しますならそれは、 あの大きな富士山も、地球全体の規模から見るならば、ほとんど問題にならない小さな凹凸にすぎないの と似ています。私たち人間は、たとえどんなに自分を大きく、偉く見せようとも、創造主なる神との関わ りにおいては、あくまで一個の罪人であり、造られたる被造物にすぎないのです。  それでは、ダビデがこの詩篇55篇において歌っていることは、人間は神の前にはつまらぬ無に等しい 存在にすぎない、ということなのでしょうか。そうではありません。ダビデがここで歌っているのは、罪 人のかしら、滅ぶべきこの私を、主なる神は御子イエス・キリストにおいて、徹底的に受け容れて下さっ たという恵みの事実です。「汝の重荷を主に委ねよ、さらば主なんじを支えたまわん」です。ダビデがここ に決意していることは「自分の重荷を全て主にゆだねる」ことです。それは、ただまことの主のみが、ダ ビデをその存在の重みもろとも支えて下さる唯一の救い主だからです。それは御子イエス・キリストを世 に賜いし神の恵みです。パウロの語るように、その独子をさえ惜しまずして世に与え給うた神が、どうし て御子のみならず、万物をも賜わらないことがあろうかとの確信です。  その「万物」こそ、罪の完き赦しと復活の永遠の生命なのです。ご自身の御子をさえ私たちに賜わった まことの神は、測り知れぬ私たちの罪のどん底に、罪の完き赦しと復活の永遠の生命を与えて下さいまし た。その揺るぎなき証拠として、ここに教会を建てて下さいました。教会は、キリストによる罪の赦しの 福音が宣べ伝えられる、キリストの復活の身体です。ここにおいて私たちは「子よ、汝の罪ゆるされたり」 との御声とともに「なんぢ今日、我とともにパラダイスにおるべし」との御声を、主イエス・キリストか ら確かに戴く者とされているのです。旧約のダビデはキリスト以前に、この福音の本質を御言葉によって 確信し、讃美と感謝を歌い上げているのです。  さて、今朝の新約聖書ヨハネ伝17章6以下の御言葉です。この中で主イエス・キリストは、特に7節 において「いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました」 と語られました。これは主イエスの「決別の祈り」の中の一節です。この「彼ら」とは十二弟子たちのこ とです。主イエスがお選びになった弟子たちは、主イエス・キリストが神から来られた独子であると知る ようになった、それが「あなたから出たものであることを知りました」ということの意味です。  ところがここに不思議なことがあります。それは、主イエスがこの7節において「わたしに賜わったも のはすべて」とおっしゃっておられることです。つまり、父なる神が御子なるイエスに「賜わったものは すべて、あなた(つまり父なる神)から出たものであることを」十二弟子たちは「知る」に至ったのだと 主イエスは言われるのです。これを感謝の祈りの言葉となさるのです。それは具体的にどのような事柄を 意味しているのでしょうか?。父なる神が御子イエスに「賜わったもの」とはいったい何なのでしょうか?。 それは一つには、主イエス・キリストを通して語られた神の御言葉、また主イエスによって世に現された 数々の御業であると言えましょう。  たとえば、同じヨハネ伝の14章10節に主はこのように弟子たちに語っておられます。「わたしがあな たがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをな さっているのである」。私たちはこの一つだけを聴いても、主イエスがまことの神の御子であられることを 充分に知りうるでしょう。ところが、同じヨハネ伝8章28節を見ますと、そこで私たちは思いがけない 言葉に出会うのです。それは、主が同じ弟子たちに対して、ご自分が神から遣わされたキリストであると いうことは「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、 わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう」 とおっしゃっておられることです。  つまり主イエスは、十字架の死という痛ましい出来事を見ないかぎり、あなたがたには決して、私がキ リストであることを理解することはできないであろう、とおっしゃっているのです。それならば今朝の17 章7節における「知った」ということは、まだ完全なキリスト理解ではないということです。つまり信仰 によるキリスト告白ではなかったということです。弟子たちはまだ17章の段階では、信仰によるキリス ト告白をしてはいないのです。彼らが主イエスを「知った」というのは、ただ人間としてのイエスを「知 った」というにすぎないのです。  私たちはどうでしょうか。私たちは本当に、キリスト告白の信仰に生きる群れになっているでしょうか。 私たちは誰でもキリストの御手から、自分にとって良いもの、有益なものを受けようとして教会に集まっ ています。しかし、その反面私たちは、自分にとって損失になるもの、恥になるもの、苦労の種になるも のを、キリストの御手から決して受け取ろうとはしないのではないでしょうか。使徒パウロの言うように 「われらはキリストのため、ただに彼を信ずるのみならず、彼のために苦難を受くることをも恵みとして 賜わっている」ことを、私たちは知らずにいるのではないでしょうか。もしそうならば、私たちもまた今 朝の弟子たちと同じように、キリストを人間としては「知って」いても、神の御子としては充分に知って いないのです。  しかし、ここに最も大きな福音のおとずれがあります。そこにこそ私たちの心を傾けなければなりませ ん。それは、たとえ弟子たちである私たちがキリストを正しく知ろうとも知らずとも、その私たちのキリ スト理解の如何にかかわらず、キリストはまず黙って私たちのために、あの呪いの十字架を背負って下さ ったという事実です。つまり、今朝の御言葉において主が言われる「わたしに賜わった(父なる神からの) ものすべて」とは、何よりも十字架の御苦難と死と葬りとをさしているのだということです。考えるなら ばこれは当然のことです。主イエスの御言葉も、その数々の奇跡の御業も、その全ては十字架へと収斂さ れてゆくものなのです。言い換えるなら、私たちが真にキリストを「知る」ことは、十字架の主としてキ リストを「知る」ことなのです。たとえどんなに人間イエスについて詳しくても、十字架の主イエスを知 らなくては、信じる者でなくては、キリストを正しく「知った」ことにはならないのです。  主イエス・キリストは十字架におかかりになる前の晩、ゲツセマネにおいて血の汗を流しつつ祈りたま いました。「アバ、父よ、もしできますれば、この杯をわたしより取り去ってください。しかし、わたしの 思いではなく、ただあなたの御心のままになさって下さい」と。そして主はその祈りのままに、天の父な る神の御手からその全ての御苦難と死を、そのままに受けて下さったのでした。苦難の杯を飲み尽くして 下さったのです。まさにそのことこそ、今朝の御言葉において主が語られた「わたしに賜わったものすべ て」の内容なのです。父なる神はその最愛の御子イエスを、私たちの罪の贖いのために世に賜い、私たち が受けねばならなかった審きの全てを、その愛する御子の上にお下しになったのです。そのことによって、 私たちの罪は贖われたのです。  フランスの思想家パスカルが、パンセという本の中で次のように語っています。「われらの主イエス・キ リストは、世の終わりに至るまで御苦しみのうちにありたもう。その間、われらは眠ってはならない」。私 たちの魂もまた、弟子たちがゲツセマネの園で祈りたもう主イエスを尻目に眠っていたように、眠ってい ることはないでしょうか。それでは、目覚めているということは、どういうことなのでしょうか。どのよ うにすれば私たちは、十字架の主なるキリストの傍で目覚めていることができるのでしょうか。  それこそ、今朝の詩篇55篇22節に示されていたことです。「汝の重荷を主にゆだねよ。さらば主、な んじを支えたまわん」。ここではどこまでも「主」が中心だと申しました。言い換えるなら、ここではもは や、私たちの「重荷」さえも、私たちの人生の中心であることを失うのです。私たちは重荷を負うとき、 人生において思わぬ苦労や悲しみに出会うとき、その重荷によって心と身体の全体が支配されてしまいま す。寝ても覚めてもその重荷のことだけが気がかりで、完全に重荷の虜になってしまうのです。そのよう な私たちに、否、そのような私たちだからこそ、十字架の主ははっきりと告げておられる。「汝の重荷をわ れにゆだねよ。さればわれ、汝を支えるべし」と。マタイ伝11章28節にもこうあります。「すべて重荷 を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と。  十字架の主イエス・キリストの御前で、眠らずに覚めていること、それは、私たちが自分の人生の重荷 を、十字架の主に委ねまつることです。それは言い換えるなら、あの十字架において、私の存在にまつわ る罪のいっさいの重荷を背負って下さった主がおられる。その主を仰ぎ信仰をもってアーメンと告白する ことです。だからパスカルは「われらの主イエス・キリストは、世の終わりに至るまで御苦しみのうちに ありたもう」と語ったのです。世の終わりに至るまで、歴史の終末と完成の日に至るまで、キリストは私 たちの全存在を十字架において担い続けて下さるのです。この十字架の主をわが救い主と告白しつつ、教 会に連なって生きるとき、私たちの人生は根本から新しいものになってゆきます。それは、もはやいかな る重荷も、私たちの人生の中心とはなりえず、私たちを支配することはできないということです。そうで はなく、キリストがまず私たちのためにその重荷を担っていて下さる。キリストがその重荷もろとも、ま ず私たち自身を担い取っていて下さる。その恵みの事実を私たちは知る者とされているからです。  中世ヨーロッパに“クリストフォロス伝説”があります。クリストフォロスとは「キリストを背負う者」 という意味です。一人の男が川の岸辺で(その川は人生の苦難を現しているのですが)不思議な子供に出会 うのです。子供は恐れるクリストフォロスに「自分が共にいれば必ず向こう岸に渡ることができる」と言 うのです。それでクリストフォロスはその子を背負って川を渡りはじめる。ところが川の流れは激しくて、 さしもの勇者クリストフォロスも立ちすくんでしまう。その瞬間、その子供が復活の主イエス・キリスト であることがわかる。主の御姿は見えなくなるのですが、残されたクリストフォロスは勇気百倍、ついに その川を渡って向こう岸に着き、めざす目的地に到着することができた。そういう伝説です。私たちも同 じなのです。私たちも、自分がキリストを背負っているのではなく、キリストに背負われて生かされてい るのです。いつもどこでも、キリストが私たちを背負い続けていて下さるのです。そして人生の最終目的 地に、あの永遠の御国に至るまで、私たちを堅くご自身のものとして導き支え、私たちの生涯の全体をと おして、神の愛を現して下さるのです。そしてついには、祝福された聖徒らとともに、永遠の祝福にあず からせて下さるのです。